50年目の島

荒屋敷大輔さん
青森から来た旅人荒屋敷大輔さん。心機一転、北国から南国を目指す。

 この日は島の南、瀬戸内町に足を伸ばした。国道58号線を走っていると、荒屋敷さんとばったり会った。DJEBELを停め、お互い昨日あったことをあれこれ話した。
 「これから住用村のマングローブ林と加計呂麻島(かけろまじま・注1)を見てから沖縄に渡ります。」
 昨日荒井が宿に戻ったあと、荒屋敷さんはアーケード街でたまたま松尾さんと遭遇し、一緒に野宿していたらしい。荒屋敷さんは職を探すつもりで奄美に渡ってきていた。ところが松尾さんによれば、奄美で職を探すのは難しいという。ハブ捕りで生計を立てようかとさえ考えたが、結局奄美で職を得るのを諦め、沖縄で職を探そうとしていた。旅の無事と前途の明るいことを祈りつつ、荒屋敷さんを見送った。

地頭峠の案内看板
瀬戸内町の案内看板。元ちとせの実家の場所がマジックで書きこまれてあるのが笑える。

 いくつもの長いトンネルを抜けつつ、島とは思えないほどの山中を50キロほど走った末、ようやく海と瀬戸内町の中心部、古仁屋(こにや)が見えてきた。
 古仁屋は名瀬に次ぐ奄美大島第二の街だ。歌手の元ちとせ(はじめちとせ)が瀬戸内町の出身ということで、街角には「瀬戸内の歌姫元ちとせ」と、前年の紅白歌合戦出場を祝う横断幕が張られてあった。そういや因島にもこんなのがあったっけ。もともと元ちとせは奄美の島唄の名手で、島内での大会優勝経験もある実力派だ。
 まずは町役場に寄ってみた。観光課に行くと八代亜紀を太くしたようなおばちゃんが出てきて、小冊子など示しながら、島のことなど教えてくださった。
 奄美大島も平成の大合併と無縁ではなかった。島内の市町村は合併の道を模索中で、視察団が佐渡島を訪れ、様子を見てきたのだという。日本最大級の離島での合併ということで、参考にしようとしたのだろう。
 しかし事情は佐渡と違い、順調というわけでもなかった。奄美と佐渡を比べてみると、佐渡の方が格段に廻りやすい。一周道路はあるし、山岳横断道路にも事欠かない。ところが奄美は山が深かったり海岸線が入り組んでいたりで、各市町村を往来するのは一仕事となる。この地理的要因が、合併の大きな枷になっていた。しかも佐渡はかつて一つの旧国だったのだ。奄美に渡津神社はない。島全体の統一感の薄さも、合併の気運が盛り上がらない一因なのだそうだ。実際その後、町村合併によって「奄美市」が誕生したのだが、名瀬市、住用村、笠利町が参加するに留まり、しかも旧笠利町が飛地になっている。

瀬戸内町役場
瀬戸内町役場。奄美でも合併の動きは進んでいた。

 街角の食堂「ばしゃん葉」で、昼食に魚フライ丼を注文した。待つことしばらく、なぜか「魚フライ定食」が出てきた。明らかに丼ではない。箸を付けていいのかどうか悩んだ末「あの〜。これ、丼でなくて定食では?」と訊いてみると、店のおばさんは「も、申し訳ありません!」と、あわてて作り直してくれた。
 昼食を終え、郵便局に行ってみると、松尾さんが声をかけてきた。ヒッチハイクで名瀬から瀬戸内に来たらしい。「これからまた名瀬に戻るんだ。」と、「名瀬」と書いた大きな段ボール紙を掲げていた。
 名瀬に戻る途中「国道58号線鹿児島最南端の地」の記念碑があったので、DJEBELを停めて見物していると、後ろで車のクラクションが鳴った。振り向いてみると、おじさんの車に便乗していた松尾さんだった。ヒッチハイクがうまくいったらしい。
 後で知ったことだが、奄美大島ではヒッチハイクは日常的に見られることらしい。島の住民もヒッチハイクで島を移動することがあるというし、奄美の高校生はヒッチハイクで帰宅することもあるそうな。

国道58号線鹿児島最南端記念碑
国道58号線記念碑。国道は古仁屋から沖縄まで再び海上区間となる。

 自然の豊かさ、見たことのない文化の数々。二日ばかり島を巡り、荒井はすっかり奄美の虜になっていた。日本第二の離島は、多くの魅力で溢れている。ところが意外なことに、昨日久保さんから聞いたことには、島を訪れる観光客はそう多くないというのだ。
 この前年、沖縄は本土復帰30周年を迎え、テレビや雑誌では盛んに沖縄特集を組んでいた。旅行会社も沖縄旅行を盛んに売り込み、その様子は沖縄から離れた地を旅していた荒井にも届いていた。
 そしてこの年、奄美も本土復帰50周年を迎えていた。しかし島中浮かれ騒いでいるという気配は全くない。前年の沖縄と比べても、この落ち着き様は意外だった。何より荒井は現地に来るまで、記念の年ということはもちろん、沖縄同様占領されていたということさえ全く知らなかったのだ。
 この落差こそ、奄美の悲劇だった。名瀬の図書館に寄って、地元紙や郷土史の本などめくることにした。

 奄美の歴史は支配の歴史である。奄美の悲劇は、江戸時代にまでさかのぼる。
 かつて奄美は琉球の一部だった。しかし17世紀になって薩摩藩が奄美に侵攻し、植民地にしてしまった。島には苛烈な税制が敷かれ、人々は薩摩の圧政に苦しむことになった。
 島で造られる黒糖は、薩摩の重要な財源となった。薩摩藩が明治維新を成し遂げたその裏には、奄美から搾り取った税収があると言われており、奄美の人々には「踏み台にされた!」と、心中穏やかならざるものがあるらしい。今でも奄美の人々は、本土鹿児島に対して敵対心や対抗心を燃やしているという。
 維新後、奄美はようやく薩摩の支配から解放されるかと思いきや、そうではなかった。維新後も奄美に対する圧政は続いた。例えば平民も名字を名乗れるようになっても、奄美の人々は一字の姓しか名乗ることが許されなかった。だから奄美には今でも一字姓の方が多い。元ちとせの名前には、そんな理由もあるのである。奄美の人々が明治維新の恩恵にあずかることができたのは、維新後だいぶん経ってからだった。
 そして太平洋戦争で日本が降伏すると、アメリカは奄美を琉球の一部と見なし、沖縄と同じく占領下においてしまった。島の人々は往来や経済活動で、また不自由を強いられることになったのだ。
 やがて島民の間で本土復帰運動が高まった結果、奄美は沖縄に先駆けて本土復帰を果たした。それが荒井が奄美に来る50年前、1953年のことだった。
 鹿児島であるには薩摩大隅と文化が違いすぎた。琉球であるには沖縄から離れすぎた。戦争で多くの人が死んだわけでもない。しかし薩摩と沖縄の両方からさげすまれ、人間の汚らわしい部分を長年見続けることになった歴史は、地味ながらも、それゆえに悲しいものだったのではなかろうか? 奄美の島唄がもの悲しいのは、そうした歴史と無縁でない。

 晴れて日本となった奄美には、離島振興法に基づいて、多額の援助金が投下されることになった。沖縄の場合この援助金で観光業に力を入れたのだが、奄美は違った。道路を作ったりトンネルを掘ったりと、土木事業に力を入れたのだ。そのため、奄美大島は離島であるにもかかわらず、長さ1キロを超える立派なトンネルが何本も開通している。
 確かに社会資本の整備は、峻険な奄美大島にとっては必要だったかもしれない。しかし、昨今の公共事業の見直しで土木業が行き詰まると、それに代わる産業がない島の経済は停滞してしまった。
 不況で数が減ったとはいえ、沖縄にはまだ旅人向けの働き口があって、斡旋してくれる場所もある。しかし奄美にそうしたものは全くなく、地縁に頼るしかないという有様だ。だから荒屋敷さんは沖縄を目指すことになったのだ。
 復帰50周年は島を売り込む絶好の機会だったはずなのだが、そうした動きはほとんどなかった。おそらく、売り込み方がわからなかったのだ。30周年を大きな話題にした沖縄とは対照的である。旅行代理店に行っても、沖縄旅行の小冊子は数多く見かけるが、奄美となると途端に数が減る。観光業のお株はすっかり沖縄に奪われている。またも奄美は沖縄と薩摩大隅の間で宙ぶらりんになってしまったのだ。沖縄でもなく薩摩大隅でもない。その間で奄美は今でも喘ぎ続けている。

 奄美の魅力とは宝石の原石のようなものだろう。素朴で不器用。内に宝石となるものを秘めていながらも華やかさはない。それは奄美の歩みそのものだ。
 しかしそれゆえに、奄美は旅人の心を惹きつける。奄美と沖縄の両方を知る旅人は、奄美派と沖縄派に別れるというが、奄美派の旅人は、どこかで知らずのうちに、そのたどってきた歴史や立場に共感しているのだと思う。松尾さんや荒屋敷さんが沖縄でなく奄美に惹かれたのは、きっとそういうことだろう。

「てっちゃん」の奄美鶏飯
奄美名物鶏飯。薩摩の役人のもてなし料理として考案され、今は旅人をもてなす。

 夕食は街の居酒屋「てっちゃん」で奄美名物鶏飯(けいはん)を食べた。ご飯の上に蒸し鶏、錦糸たまご、しいたけ、パパイヤ漬け、わけぎなどをのっけて、その上に鶏スープをかけて食べるという、鶏スープの茶漬けみたいな料理である。奄美の料理なので味は薄めだ。あまりに薄味なので東北人荒井、ご飯が真っ黒になるぐらい醤油をかけたくなったが、さすがにそんなことをしたらお店の方に失礼なので、おしんこのたくあんやパパイヤ漬けをちびちびかじりながら食べた。果物として知られるパパイヤも、奄美や沖縄では野菜として食べられていて、島のスーパーで簡単に手に入る。
 鶏飯を頼むのは観光客と相場が決まっているのか、店の大将がカウンター越しに「どこから来たの?」と訊ねてきた。山形からですと答えると「あそこも徳州会の病院が多いらしいね。」と水を向けられた。そういや奄美群島は民間最大規模の医療法人、徳州会の代表の出身地だ。旅に出ていると、意外な場所で郷土の意外な話を聞いたりする。


脚註

注1・「加計呂麻島」:奄美大島の南、瀬戸内町の対岸にある島。古仁屋からフェリーで渡れる。ダイビングの名所が多いことで知られる。

前に戻る文頭に戻る目次に戻るトップページに戻る次を読む