沖永良部で倒れる

沖永良部で倒れる

クイーンコーラル
マリックスラインのクイーンコーラル。奄美を経由して鹿児島と沖縄を結ぶ。

 片道切符の有効期限はまだ残っている。「リゾート開発が進んでない分奄美は海がきれいだよ! 沖永良部(おきのえらぶ)なんて、沖縄より海が青いんだ。」と松尾さんが言っていたのが気になったので、沖永良部島にも寄ることにした。

 早朝の出航に合わせて朝の五時前にあづま家を引き払う。「キャロット」で朝食におにぎりを買ってから港に行くと、船がすでに入港していたので大いに焦った。貨物の積み込みが終われば船は出航してしまう。大慌てでDJEBELを積み込み、途中上船の手続きを済ませた。ちなみに今度の船もクイーンコーラルだった。
 やがて貨物の積み込みが終わった。「今度来る時は、天気がいい時期に、ゆっくり廻ってみっぺ。」 忘れ得ぬ名瀬の街がゆるゆると遠ざかっていく。船で島を出る時は、いつも一抹の寂しさが胸を突く。
 間もなく雨がひどくなってきた。そういや奄美は現在梅雨のまっただ中だった。船室にすっこみ、ゴロ寝を決め込んだ。
 名瀬から乗った乗客の多くは、次の寄港地、徳之島の亀徳港で降りていた。荒井も降りてみたいが、切符の有効期限は一週間、あれもこれもと欲張るわけにもいかない。またいつかということにして下船客を見送った。
 寄港地変更の船内放送があった。本来の寄港地、沖永良部島の和泊港に入港不能なので、反対側の伊延港(いのべこう)に入港するという。外はよほど波が高いらしい。
 六時間ほどの船旅の後、船は沖永良部島に到着した。外は相変わらずの雨降りだった。

 島の中心部、和泊に行こうとDJEBELを走らせていると、なぜか悪寒がする。和泊町の役場で観光案内を手に入れて、一休みしてから島内一周しようと走り出したが、頭がくらくらする。島の北にある空港まで来たところで耐えきれなくなったので、急遽和泊に引き返した。
 長旅というのは、実は結構身体に負担がかかる。ただ、いろんな場所に行けることやいろんな物が見られるのが面白くてしょうがないから、頭がそれに気付かないだけだ。

 間違いない。急な気候の変化について行けず、疲れた身体が根を上げてしまったのだ。

 こうなったらとにかく養生するに限ると宿を探したが、今はまだ夕方にもなっていない。どこもチェックイン時刻は午後四時からで、今すぐ泊まれる宿がなかった。
 この悪天候で、夕方まで外で待っていたら死んでしまう。どこか雨をしのげる場所はないものかと、ふらふらの体であたりを巡るうち、運良く和泊のフェリー待合所が開いていたので、そこのベンチを占領して休むことにした。悪寒がするのは相変わらずなので、合羽を着たまま横になる。
 入港場所が変わったためか、待合所には誰もいない。3時間ほどうつらうつらしていたが、待合所の係とおぼしき女性が「大丈夫ですか?」と訊ねてきたぐらいだった。「あ〜、ちょっと熱がありまして...落ち着いたら出ますから。」 まぁ、合羽を着てベンチに横になってうんうん唸っている人間なんて、大丈夫なわけがない。

和泊町役場
和泊町役場。土曜日だったがなぜか開いていた。

 ようやく待望の夕方四時になった。とっとと宿にすっこもうと、さっき目星を付けておいた宿の扉を叩いてみたが、なぜか満室で部屋が取れなかった。「マジがえ? こっちゃ死にそうだどいうなさ、どげすろど?」と、目の前が暗くなりつつもう一軒別の宿をあたってみたが、こちらも満室だった。
 「なすてこごも満室なんだ?」と野宿を覚悟したが、三度目の正直、三軒目に寄った「ビジネスホテル和泊港」でようやく宿がとれたので、あとは速攻で部屋に籠もって寝ることにした。

 張りつめていたものか解けたせいか、一気に病状が悪くなった。熱が出る。下痢がひどい。食欲も全くない。黙っていても息は苦しいし、頭がふらふらする。寝ている以外は10分おきに厠と布団を往復するような有様だった。

 気晴らしにテレビをつけてみると、沖縄の放送が映った。沖永良部島は離島なので、ケーブルテレビが普及している。そのケーブルテレビで、鹿児島と沖縄の放送が見られるのだ。
 オリオンビールやちんすこうショコラの宣伝が流れている。CMソングを歌うのはBEGINやティンクティンクといった沖縄出身の歌手だ。それ以外にも、名前も知らない地元歌手の歌がいくつも流れている。そういや照屋林助(てるやりんすけ・注1)は「沖縄の芸能界は本土の芸能界を100分の1にしたような感じだよ。」と言っていた。なるほど、百聞は一見にしかずだ。布団の上でうんうん唸りながら、沖縄がもはや間近であることを実感した。
 ケーブルテレビでは、島の天気予報も流れている。今日の天気は全奄美的に雨。島の周囲は高波の印でいっぱいだ。よく船が欠航にならなかったものだ。

ビジネスホテル和泊港
ビジネスホテル和泊港。沖永良部島ではここからほとんど動けなかった。

 寝ているか、布団で唸っているか、厠に駆け込んでいるか。そんなことの繰り返しで、よく眠れないまま一夜が過ぎていった。この年はちょうど中国や台湾ではSARS(注2)が大流行し、死に人まで出ていた。「まさが、最近はやりのSARSどやらが?」と、回らない頭で考える。
 そんな最悪の体調で、一応出発しようと荷造りを始めるものの、身体が言うことを聞かない。少し動くだけで激しく疲れる。こりゃ行き倒れになってしまうとさっそく連泊を決め込むと、また布団に潜ってゴロゴロと過ごすことにした。
 部屋に籠もってから口にしたものと言えば、宿の自販機で買った缶ジュースが二本だけ。たいして物も喰っていないのに、何でこんなに下痢が出るんだろう。

 調子が悪くとも腹は減る。しかし食欲は全くない。このままでは体力を消耗するだけだ。「ビジネスホテル和泊港」では宿泊者に、一泊ごとにパンを一個進呈しているが、かぶりつこうという気も起きない。ジュースとお菓子ぐらいだったら腹に入りそうだったので、無理をおして買い出しに出かけた。外は今日も雨。嫌でも梅雨のまっただ中である。
 和泊の商店街は小さな島らしい小さなものだが、その中にはなぜか100円ショップの「ザ・ダイソー」もある。さすが根室の街や稚内の駅前に出店しているだけのことはある。商店街は宿から歩いてすぐに行ける距離で、普段だったらどうということはないのだが、今回は事情が違う。最寄りの雑貨屋で飴玉とマシュマロ、それに飲み水代わりにアクエリアスの2リットル瓶を仕入れて宿に戻ってくると、息も絶え絶えになっていた。
 また布団に潜り、ぼちぼち飴とマシュマロを口に入れる。もらったパンを小さくちぎっては、アクエリアスで流し込む。「いったい何のために沖永良部さ渡って来たんだべが?」 沖縄よりきれいだという青い海は、まだ一つも見ていない。

 ジュースやお菓子ではごまかせず、午後になって本格的に腹が減ってきた。合羽を着込みDJEBELに乗って、また無理をおして和泊近郊のAコープに出かけた。ヨーグルトとカップ麺を籠に放り込みレジに並んだ。
 島でまとまった買い物をしようとすれば、ここに来ることになるらしい。日曜日の夕方近くということも手伝って、籠いっぱいに品物を詰め込んで、多くの買い物客が並んでいた。待っている最中、頭がふらふらして、たびたび気が遠くなってくる。しかも腹の方もぐるぐる鳴ってきた。これを好機とキジまで暴れ出したようだ。前の客の籠の中身はなかなか減っていかない。
 ようやくレジが回ってきた。清算を済ませ、厠に駆け込み事なきを得ると、またDJEBELに乗って宿に戻った。やっぱり頭はふらふらだ。
 食べられそうだと買ってきたカップ麺も、戻ってみると食べる気が全く起きない。ヨーグルトだけを口にして、あとは何をする気も起きず、布団で死体のようにゴロゴロ転がるだけだった。この日もなかなか寝付かれず、うんうん言いながら布団と厠を往復するばかりだった。


脚註

注1・「照屋林助」:てるやりんすけ(1929−2005)。沖縄の音楽家にして漫談家。戦後沖縄のポップカルチャーの第一人者とした活躍した。りんけんバンドの照屋林賢氏の父親。ちなみにティンクティンクは照屋林賢氏がプロデュースする女性デュオ。

注2・「SARS」:重症急性呼吸器症候群。SARSコロナウイルスによって発症する呼吸器系の病気。38℃を越える高熱、咳・息切れなどの症状を伴い、悪化すると呼吸困難や酸素を取り込めない状態に陥って死に至ることもある。2003年に中国や台湾で大流行し、渡航制限が出された。


荒井の耳打ち

旅先で病気になったらどうするか

 不覚にも、荒井は旅の途中、二回ほど風邪を引きました。こういう時はちゃんとした宿に泊まり、基本的におとなしく寝ていました。食欲があるときはなるべく食べ、食欲がなければ腹に入りそうな物をその都度食べていました。もし、重傷を負ったとか、重病になったというのなら、その時はおとなしくあきらめて治療に専念したと思います。命と再びやる気さえあれば、旅はやり直せます。
 ただ、それ以前に、旅先で重病になったらどうするかということは全く考えませんでした。その時はその時。考えすぎると、できることさえできなくなります。

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