食欲は徐々に戻っていた。この日は朝食として、沖永良部島で買って以来そのままになっていたカップ麺に手をつけた。ようやくこれぐらいのものが食べられるようになったのだ。しかし下痢はあいかわらずで、まだ本調子というわけではない。
体調がだいぶん落ち着いたのと、早く沖縄を一周したいという気持ちもあったので、思い切って那覇を出ることにした。準備を整え、DJEBELに荷物をくくりつけて宿を出たのは、チェックアウト時刻ぎりぎりの十一時だった。
那覇を出る前に新港に寄っていった。次なる目的地、八重山行きの船便の日程を確かめるためだ。
那覇には大きく三つのフェリー港がある。一つは荒井が鹿児島からやってきた那覇港、もうひとつは久米島や慶良間諸島(けらましょとう)、大東島といった離島航路の出入り口になっている泊港、そして八重山へのフェリーが就航する新港だ。日程表は新港待合所の受付で簡単に手に入った。八重山は沖縄本島にとっては離島であるようで、毎日船が出ているというわけでもないらしい。
やがて天気が崩れてきた。合羽を着込んで走り出す。くもりがちな空に、体調もかんばしくない。しかも国道58号線は沖縄随一の幹線道路なので、車通りが非常に多く、走っているだけで息が詰まりそうになる。そんな中を北上するうち、さらに息が詰まりそうな光景が現れた。
米軍基地。
国道58号線の左右に、福生や横須賀で見たのよりさらに広そうな基地が鎮座していた。鉄条網の柵に隔てられ、背の低い建物が芝生の上に建っている。検問付きの門、英語の看板、何もかも日本と違う建築。福生同様米兵相手か、周辺には英語の看板を掲げた店が立ち並ぶ。基地は那覇の近郊から読谷村(よみたんそん)の付近まで、広範囲にわたり断続的に現れた。
噂に聞く沖縄の米軍基地。その実物を目の前にすると、圧倒的な異質さに言葉を失うより他ない。一瞬、自分はどこに来てしまったんだとさえ思った。
またしばらく走ると、天気がよくなってきた。今度目の前に現れたのは、豪華なリゾートホテルの数々だった。沖縄中部の恩納村(おんなそん)のあたりには、航空会社や観光会社が経営するリゾートホテルや、直属のプライベートビーチが並んでいる。「昔の角松敏生(注1)は、このあたりの海を歌ってたんだべなぁ。」などと走るうち腹も減ってきたので、近場のコンビニに駆け込んだ。
店内には派手な水色ビキニのおねえちゃんがいた。件のコンビニは砂浜に近いので、水着のまま買い物に来る客もいるのだ。
一方こちらは合羽に長靴に大型ザックという、およそ砂浜とは縁遠い格好で違和感ありありだ。カルボナーラを買って、コンビニ裏の浜辺で昼食にしたが、温め方が不十分だったのか、中が冷たいままだった。ビキニねえちゃんを脇目に合羽に長靴に大型ザック。「俺はこさ居でいいんだべが?」 侘びしいこと限りない。しかもカルボナーラは生ぬるいのだ。
ちなみに例のビキニねえちゃんは、彼氏と一緒だった。つまりここはそういう場所である。
沿線には赤い瓦を漆喰で固めた沖縄風の住宅もあるが、それよりも目立つのはコンクリート製の建物だ。外壁をコンクリートでてかてかに固めて、その上からペンキを塗っただけの建物というのがやたら多い。形はたいがい単純な立方体か直方体で、さいころか何かのようである。端から見るにはなはだ安っぽいが、台風が多い沖縄では、この作りが理にかなっているのだろう。
一度名護市を通過し、本部半島(もとぶはんとう)に回り込んでいく。やがて小雨がひどくなってきたが、今帰仁城跡(なきじんじょうあと)を見学した。
入場券売り場にはおばあちゃん、沖縄方言で言うところの「オバー」が二人いて店番をしている。この雨か暇そうで、受付カウンターには猫が寝ていた。オバーさんのご厚意でザックを預かってもらい、傘を貸していただいた。
その昔、琉球王朝ができる前。沖縄では南山・中山・北山という三つの勢力が張り合っていた。最終的に中山が沖縄統一を果たし、琉球王朝が成立することになったのだが、これを「三山時代」と呼んでいる。今帰仁城は北山の本拠地として造られた城で、北山滅亡後は中山による北部統治の拠点となった。
山中に現れる巨大な石垣。それが現在の今帰仁城だ。往時の建築は一つも残っておらず、石垣の遺構が城の形に残るのみで、ところどころに兵士が訓練をした場所、王の居室だった場所、祭祀をした場所といった解説が添えてある。この雨のせいか、見物客の姿はほとんどいなかった。夢の跡、である。
入場券売り場に戻ると、さきほどのオバーさんに「梅雨時とは悪い時に来たねぇ。」と声をかけられた。北国の人間は沖縄は雪が降らなくていい、とうらやむが、沖縄の梅雨は、北国にとっての雪のようなものなのかもしれない。
本部半島を一周して、名護に戻ってきた。まだ雨が続いていたのと、身体も本調子ではないため、市内の「ホテル城山」に飛び込みで宿を取った。二階がキリスト教の教会になっていて、教会の方が経営しているようだ。ありがたいことに、受付のオバーさんが「バイクをロビーに入れていいですよ。」と言ってくださった。ザックを部屋に置いてから、DJEBELに積んだ荷物を持ってこようとロビーに戻ってくると、「雨を拭いておきましたよ。」と、DJEBELに付いた雨をすっかり拭き取ってくれていた。ホテル城山のオバーさん、その節はご親切どうもありがとうございました! お礼が遅れてすみません。
近所のスーパー「サンエー」で、見切り品の寿司とカップ味噌汁、それにまたところてんを買って夕食にした。食欲は戻っていたが、寿司と味噌汁で腹が一杯になって、ところてんは翌日の朝食用にとっておくことになった。
朝のうちこそ晴れていたが、天気は下り坂だった。天気予報によれば、明日は台風接近で、午後から本格的に雨降りになるという。とっとと島の北部を一周し、那覇に戻ることにした。
出発の準備をしていると、宿のロビーでビジネスマンの一団と一緒になった。福岡から出張で来たそうで、「台風近いし、大丈夫かなぁ。」と、帰りの飛行機を心配していた。台風が来ると船も飛行機も欠航してしまうため、内地と沖縄を往来しようという人は、台風の進路にやきもきさせられることになる。
「気をつけてね!」と、宿のご主人とオバーさん、ビジネスマンの一団に見送られ、名護を出発した。市内で給油してから国道58号線をひたすら北上し、十時頃には沖縄最北端、辺戸岬(へどみさき)に到着した。
岬に着いた頃には、空はすっかりくもってどんよりしていた。最北端の岬から海を見下ろせば、珊瑚礁というものは全く見えず、荒々しい岩場に荒波が激しくぶつかっている。あたりには観光客相手の食堂も何軒か建っているが、天気のせいか、人の姿は数えるほどだった。
辺戸岬は沖縄で一番本土に近い場所だ。敗戦で米軍の占領下に置かれた沖縄の人々は、かつて本土に一番近いこの場所から切り離された祖国、日本に想いを馳せていたのだという。ある時はこの岬でのろしが上げられ、復帰が祈願されたこともあったそうだ。岬の一角には立派な復帰闘争記念碑が建っている。
岬を回り込み、沖縄最奥の集落、その名も「奥」の集落を過ぎ、国道58号線から県道70号線に入ったあたりから、にわかに雨が強くなった。なんだって、雨は午後からでなかったのか。急いで合羽を着込み、長靴に履き替えると、あとは黙ってDJEBELを走らせた。
沖縄の北部の方は「やんばる」と呼ばれ、豊かな自然が残っていることで知られている。やんばるの東を走る県道70号線は鄙びた山道で、山林の淋しい道が、東村(ひがしそん)まで延々と続いていた。
走っていると、やたらでかい車が横転しているのを見つけた。見慣れないナンバープレートだなと思ったら、米軍の車だった。山道を曲がりきれなかったんだろうか。やんばるの山林にも米軍演習地は点在している。
沖縄本島随一のマングローブ林がある慶佐次湾に着く頃には、あれだけ激しかった雨もすっかり落ち着き、小やみになっていた。マングローブ林の入り口にある共同売店でカレーおにぎりとシークヮサードリンクを買い込み、昼食にした。共同売店とは集落で運営している商店だ。農協の直売所と雑貨屋さんが一緒になったような店で、やんばる地方や八重山の離島ではよく見かける。
さらに南に走っていると、また米軍基地が目立ってきた。金武町(きんちょう)の米軍基地「キャンプハンセン」前でDJEBELを停めた。
国道329号線を挟んだキャンプハンセンの入り口前は「新開地」と呼ばれている。コンクリート造りの安っぽい酒場やクラブ、玉突き場など並んでおり、米兵相手の歓楽街だということは一見すればすぐわかる。昼だというのに人の気配もなく、あたりは水を打ったように静まりかえっている。ほとんどの店は夜のみの営業で、昼は店仕舞いしているのだ。どの店も入り口の看板は英語だった。異様な街並みに迷い込んだ感覚に、「ここは日本だべが?」と困惑してしまう。
この新開地こそ沖縄名物「タコライス」発祥の地で、秋野さんが言っていた「キングタコス」という店もここにある。新開地の表通りにはファーストフード屋が数件軒を連ねていて、この一角だけ昼間から営業している。さっき昼食を食べたばかりだが、せっかくだからとその中の一軒、「パーラー千里」に立ち寄った。元祖タコライスの店というふれこみで、「キングタコス」もここから分かれていった店なんだとか。
「タコライス」とは、タコスの具を載せたご飯だ。もともと米兵相手に出していたものが、いつの間にやら評判になって、今や沖縄名物の仲間入りを果たしている。コンビニ弁当にもなっているし、スーパーでは「タコライスの素」なるものまで売られている。
「パーラー千里」はママさんとおぼしきおばちゃんと、若い女の子が二人で切り盛りしていた。カウンターに座り、一番簡素なタコライスを注文すると、目の前で作ってくれる。作り方と言っても非常に簡単で、カレー皿によそったご飯の上に、あらかじめ仕込んでおいたタコミートを載っけるだけだ。種類によってはチーズや千切りレタス、トマトなどがこれに加わる。
盛りが尋常ではない。ご飯はカレー皿に山盛りで、その上からタコミートをこれでもかというぐらい載っけるので、皿の上は小山になっている。さすが米兵相手の店、量もアメリカンサイズだ。食べる時は好みでタコスソースやケチャップをかける。
材料を見て大方予想は付いていたが、やはりというか、汁気のないミートソースご飯だった。旨いのだけれども、いかにもアメリカンな食いもんである。量が多いのと味に変化がないので口飽きしてきて、しかもさっき昼食を食べたばかりなので、半分喰ったところでお手上げだった。
もったいないので、残りはパック詰めにしてもらって持ち帰った。この量を食べきれないお客さんも多いようで、店ではちゃんとお持ち帰りにも応じてくれる。
「沖縄は狭いから、行ける場所が限られているんですよ。」と、去年パイラ松島で会った宜野湾のおじさんが言っていたとおり、やんばる一周はあっというまだった。そのまま国道329号線で那覇に戻ってきても、まだあたりは明るかった。
この日の宿は、松尾さんおすすめのドミトリー「月光荘」だ。ダイエー那覇店の近く、建物と建物の間の狭い路地を奥に行ったところに建っているので、よほど注意しないとどこにあるのかさえ分からない。築50年の古い木造民家を改築したということで、話に聞いていたとおりにボロっちいが、先客は多く、なかなか繁盛している様子である。受付に行くと管理人代行とおぼしき女の子が、手慣れた調子で受付してくれた。
「ドミトリー」というのは相部屋形式の安宿だ。こうした宿は旅人御用達の宿として世界各地にあるそうなのだが、日本ではとりわけ沖縄に集中している。
北海道のライダーハウスによく似ているが、決定的に違うのはその客層だ。ライダーハウスは文字通り、単車乗りや自転車乗りの利用が圧倒的に多いが、ドミトリーではバックパッカーがかなりを占める。女性客が多いのも違っている。基本的にオーナーの心意気で運営されているのがライダーハウスなら、ドミトリーは飽くまで安宿だ。気軽に気ままに格安で沖縄を楽しみたいという自由旅行者の女性にとって、ドミトリーは絶好の選択肢なのだろう。
宿の一角では、バックパッカーの若者どうしが集まって、「こないだタイに行ってきたんだ!」てな具合に、おのおの行った場所の話をしていた。あたり前のように東南アジアの国の名前が出てくる。その口調に海外に行ってきたという気負いは全くない。
端っこ大好きの旅人が、北の端っこ北海道と、南の端っこ沖縄に惹かれるのは当然のなりゆきである。しかし北の旅人と南の旅人の傾向には、かなり差があるように感じられる。
荒井が北海道で会った旅人からは、ロシアという言葉をほとんど聞かなかった。稚内からフェリーが出ているにもかかわらず、その先のロシアと自由に往来しているという旅人は見たことがない。北海道に来る旅人は、多かれ少なかれ、袋小路の最果ての地に来たという寂寥感を抱いている。
ところが沖縄の旅人は、その南の台湾やフィリピン、タイといった東南アジアの国々さえ視野に入れ、自由に往来している。旅人の雰囲気も北海道と違い、底抜けに明るい。沖縄はもはや東南アジアの一部で、台湾やタイは隣県みたいなものなのだ。
そんな豪の旅人が何人も集まっているのですっかり恐縮してしまい、単車乗りの駆け出し旅人荒井はいまひとつとけ込みづらかった。他の利用客の方とも何人かと話をしたが、どんなことを話したかは覚えていない。
軒先の談話室で、昼の残りのタコライスに手を付けていると、さっきの管理人代行の女の子が、雨戸を釘で打ち付けていた。台風に備えているのだ。
この年、沖縄は例年にない早い時期から、立て続けに台風に見舞われていた。そしてこの台風に、荒井も何度か足止めを喰らう羽目になるのである。
注1・「角松敏生」:かどまつとしき。歌手。本人の曲よりも、「悲しみが止まらない」や「You are my only shiny star.」といった、他者に提供した曲の方が有名だったりする。その昔、「OKINAWA」や「PALASAIL」など、沖縄の保養地に着想を得た曲を書いている。
北海道にはライダーハウスがあります。沖縄でそれに匹敵するのが相部屋宿「ドミトリー」です(「ゲストハウス」とも)。一泊素泊まり1500円前後、男女別相部屋といった詳細はライダーハウスと似ていますが、簡単なシャワーが備え付けてあったり、ところによってはインターネットも利用できたりと、設備はライダーハウスよりもよくなっています。利用客には女性も多く、女性でも利用しやすいかと思われます。ライダーよりもバックパッカーや格安で沖縄を楽しもうという方の利用が多くなっています。
ライダーハウス同様、人によって相性の差が激しいこと、その日の面子によって宿の印象が全く変わることも付け加えておきます。