起きたら朝九時になっていた。部屋の空気は湿気っぽくて淀んでいた。月光荘の寝室は12畳ほどの部屋に、二、三段式の寝台を詰めるだけ詰め込んだもので、十何人の客が寝泊まりしている。昨日の夜は台風接近で雨が降っていたからなおさら湿気っていた。おまけに雨戸を打ち付けて固定してあったから、朝になっても光が入ってこない。
しかも昨日の晩、荒井は見逃していなかった。談話室の床を百足が一匹ちょろちょろと走っていくのを。二階の部屋では大きなゴキブリが出たと騒ぎになっていた。こんな虫が寝ている最中、こんばんはなんてやってきたらたまったもんじゃない。それにどうもこの宿は荒井と水が合わなかった。ここは基本的にバックパッカーの集うドミトリーなのだ。
このままでは暗くて息が詰まってしまう。風邪をこじらすことだって考えうる。そういうわけで軟弱旅人荒井、一泊しただけで月光荘から退散してしまった。
今度は沖縄南部一周だ。運良く台風は本島を逸れ、上には見事な青空が広がっている。手近な「ローソン」で、カルボナーラとオレンジジュースで腹ごしらえをした。那覇国際空港を過ぎたあたりから、建物の数が次第に減っていき、糸満市のあたりにさしかかると、畑や背の低い民家が並ぶのどかな風景に変わっていた。
「山形の塔」という案内標識を見つけた。標識に従って走っていくと、畑の合間の小山のようなところに、大きな慰霊碑が建っていた。これが山形の塔だった。
沖縄は太平洋戦争末期、日本で唯一、民間人を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた場所でもある。戦艦大和最後の出撃は沖縄戦に加勢するためだった。大和以外にも、沖縄では全国各地から集まった兵士が連合軍と激しい戦闘を繰り広げ、双方に多くの犠牲者を出すことになった。そしてこんな具合に、各地に戦没者を弔う慰霊碑こと「塔」が建てられている。山形の塔もそうした慰霊碑の一つで、山形出身の戦没者を弔っている。
沖縄戦で犠牲になった山形の軍人は約800人いる。雪深い故郷を見て死にたかったことだろうと、雪も降らない島で亡くなられた同郷の犠牲者に思いを馳せた。
山形の塔の近くには、戦闘で亡くなった米兵を弔う慰霊碑や、戦場に駆り出され命を落とした女生徒を弔う「白梅の塔」もある。近所喜屋武岬(きゃんみさき)にも「平和の塔」が建っていた。岬は生活道路をずいぶん入ったところ、サトウキビ畑を越えた先にある。辺戸岬同様岩がちで、波が激しかった。沖縄戦では、追いつめられてここから海に身を投げる人々が多かったという。糸満市の周辺は特に激しい戦闘が繰り広げられたそうだ。今やのどかな畑の下には、悲しい過去が眠っている。
数ある慰霊碑の中で一番有名なのが、「ひめゆりの塔」だろう。
「ひめゆり」は花の名前ではない。さっき見てきた「白梅」もそうだが、沖縄戦では県内各地の生徒女生徒が集められ、学校ごとに隊を作って戦場に駆り出された。その隊に与えられた名前が「ひめゆり」であり「白梅」であるわけだ(注1)。「ひめゆり部隊」があまりにも有名になったため、ほかの部隊はあまり知られていないが、「ひめゆり部隊」も数あるそうした部隊の一つである。
併設の資料館では、沖縄戦の悲劇が伝えられている。女生徒たちは後方支援要員として、野戦病院や兵舎での看護や雑務に従事した。野戦病院といっても、立派な建物があるわけでもない。沖縄南部は地質的に洞穴が多く、そこを急ごしらえの戦闘施設に転用しただけのものだ。この洞窟を「ガマ」と呼んでいる。換気や衛生状態などガマの環境は劣悪で、体調を崩す人も多かったという。
やがて連合軍に押され、日本軍は沖縄南部に敗走していった。ガマは連合軍による焼き討ちの対象となり、兵士ばかりか多くの人々が犠牲になった。塔の前には、ひめゆり部隊が従事していたというガマが実物大模型として復元されていて、館内からも見ることができるが、真っ暗で急で、若い娘がいるべき場所でないことぐらいはすぐわかる。
やがて壊滅状態になった日本軍は、過酷な命令を女生徒たちに下した。「矢尽き刃折れた。これからはおのおの自分の判断で行動せよ。」 解散命令、つまり軍はもう君たちを守れないよという通達だ。
女生徒たちは行き場を失い、戦場のまっただ中に取り残された。ある者は捕虜になる辱めを受けるならと自決し、ある者は連合軍の攻撃で命を落とした。日本軍に殺された者もいた。もはや敵味方の見境無く人が死に殺し合う光景は、地獄絵巻そのものだったという。沖縄戦では20万人が犠牲になったそうだが、そのうち12万人は民間人だった。特にひめゆり部隊が悲劇の象徴として今に伝わっているのは、数ある女生徒による部隊の中で、最も多くの犠牲者を出したかららしい。
近所の摩文仁(まぶに)には、平和祈念公園がある。圧巻は「平和の礎(いしじ)」だ。波のように並んだ黒い御影石に、人種・国籍・性別・軍人民間人を問わず、沖縄戦の犠牲者の名前が全て刻まれている。沖縄戦の犠牲になったのは、日本人だけではない。連合軍も戦死者を出したし、日本に連行され巻き添えを食らった朝鮮人や中国人も少なからずいる。礎の中には、まだ名前を刻む余白が残されているものがある。これが沖縄戦のその後を象徴している。
ところで、ひめゆりの塔の前には脳天気なみやげ屋が並んでいて、寄ってらっしゃいと言わんばかりに観光客が来るのを待ちかまえていた。多くの人が理不尽に亡くなるのはあまりに悲しいことで、繰り返してはいけないことだ。しかしこの光景には、トキサブレのような苦笑を禁じ得なかった。
沖縄の南東部、具志頭村(ぐしかみそん・現八重瀬町)から与那原町(よなばるちょう)にかけては、のんびりとした道が続いている。海辺や生活感漂う住宅街、賑やかな商店街を抜け、那覇まで戻ってきた。これで沖縄本島一周達成である。
月光荘には戻らず、なるみ旅館に飛び込んだ。受付のおばちゃんも顔を覚えていてくれて、前と同じ部屋をあてがってくれた。ここなら風邪をこじらすこともないだろう。
荷物を置き、国際通りに出る。この日の夕食は、志高湖で秋野さんが教えてくれた店の一つ、「がじゅまる食堂」(注2)だ。華やかな建物が目立つ国際通りにあって、そこだけ小さくて古い建物が建っているので、一目でこれとわかった。店に入ると気さくなご主人が親切に応対してくださった。食べたのは沖縄そばだ。ご主人の腕前はもちろん、体調が戻ってきたこともあり、さすがに今度のそばは旨かった。麺に出汁、こーれーぐすの味もしっかり味わえる。
帰りはあれこれ寄り道してきた。沖映通りと国際通りの交差点にある沖縄三越、最近できたばかりのスターバックス。ネットカフェも見かけた。
ダイエーで安い泡盛を一本仕入れてきた。肴はさっき三越で買ってきたイカの松前漬けだ。泡盛は味の濃い焼酎といったかんじで、結構きつくてくせのある味だった。そのためか、沖縄の酒は不思議と北海道名産、味の濃い松前漬けとよく合った。
荒井が乗ろうとしている船は有村産業の「飛龍」という貨客船だ。名古屋と台湾の高雄(カオシュン)を結ぶ国際便が、途中八重山にも寄るという運行になっている。那覇から八重山までは月、水、金と週に三便ほどが就航しているが、台風で日程が狂っていた。本来なら次の月曜日に出るはずの便が一日ずれ込み、火曜日出航予定となっていた。
今日は土曜日、船が出るまで何もすることがない。その間那覇にすっこんでいることに決めた。下痢はまだ続いていたが、体調はほとんど回復していた。どうやらSARSではなかったようである。
朝こそ雨が降っていたが、九時前には上がっていた。ニュースによれば、今年の沖縄は空梅雨らしい。路面はまだ濡れていた。乾くまでに朝食を済ませようと、近場の「ファミリーマート」に買い出しに行った。この日の朝食はツナタマサンドと、沖縄明治乳業のシークヮサー乳酸菌飲料だ。
全国展開のコンビニでも、沖縄まで来ると品揃えはだいぶん違っている。その一つがシークヮサー飲料の充実ぶりだ。前にも書いたが、シークヮサーは沖縄特産の柑橘類だ。別名ヒラミレモン。酸っぱい上種が多いので、主に薬味や加工食品として使われている。そのためか、大きなペットボトル入りのシークヮサー果汁から、酸味を抑えて飲みやすくしたシークヮサージュース、シークヮサー入りの紅茶などなど、沖縄では各地でシークヮサーを使った飲料をたくさん見かける。さっぱりして飲みやすいので、暑い沖縄の夏にはぴったりだ。
荒井が今買ってきたシークヮサー乳酸菌飲料はこの夏の新製品で、沖縄の地元テレビで盛んに宣伝していたが、果たして味の方は微妙だった。
沖縄の日差しの下では、濡れた路面も間もなく乾いてしまう。この前見物していなかった恩納村の多幸山(たこうやま)と残波岬(ざんぱみさき)を見に行った。
多幸山には何かときめくような観光名所があるわけでもないが、ちょっと見てみたいものがあった。それがフェーレー岩だ。
琉球王朝時代、多幸山は恩納経由で首里とやんばるを結ぶ街道「国頭方西海道(くにがみほうせいかいどう)」の難所だった。それというのも山賊が出没したのだ。山のてっぺん近くには細い道を挟み込むようにして大岩があって、山賊は鉤のついた棒を使って、大岩の上から道行く人々の荷物を釣り上げては奪っていたそうな。
件の大岩は「フェーレー岩」と呼ばれ、往時の難所ぶりを今に伝えている。「フェーレー」とは山賊という意味だ。高さ3メートルほどで、裏の方には山賊が寝泊まりしたという穴ぐらもある。岩のあるあたりは林がちで昼でも少し暗い。なるほど、山賊が出没するには絶好の場所だったろう。
ついでに、現在多幸山の周辺は米軍の弾薬庫地域になっている。さすがに山賊は出没しなくなったが、ある意味、多幸山は今なお難所なのだ。
残波岬は多幸山から少し戻ったところ、読谷村にある。近くに大きなリゾートホテルこそ建っているが、岬の近辺は岩だらけで、灯台と手洗いがある以外、けばけばしい売店の類はなかった。
ここも辺戸岬や喜屋武岬同様風や波の強い岬で、珊瑚礁もなく、波が岩に打ち寄せていた。岩だらけで何もないので、一時期は米軍の艦砲射撃演習場になっていたこともあったそうだ。
灯台が見学できたので登ってみると、上の方はさらに風が強かった。券売所のおばちゃんによれば、この程度の風はまだ序の口らしい。台風になると、あたりに遮るものが何もないぶん烈風が吹き付け、岩場の上にまで波が上がってくるという。残波岬の名前はこういうところに由来するのだろうか。
帰りは嘉手納町(かでなちょう)と宜野湾市を横断してきた。渦中の米軍基地あるところだ。昼食は嘉手納飛行場脇の「ローソン」でペペロンチーノを買って、飛行場を眺めつつ食べた。通りを隔てた金網の向こうには、だだっ広い基地が広がっている。米軍基地はこんな具合に沖縄各地に割り込んでいる。
基地の入り口には、神社の鳥居を模した目印が付いている。日本に配慮したのかもしれないが、その向こうに神社があるわけではない。
柵越しに、軍人さんやその家族たちが暮らしているだろう団地や公園が見えた。世間では基地や飛行場の移転が囁かれていたが、そんなこととは関係ないかのように静まりかえっていた。彼らにとってここは日本ではなく、カリフォルニア州の飛地みたいなものなのかもしれない。
この日の夕食は、沖映通りにある「どん亭」の牛丼カレーだった。カレーに牛丼の具が載っているという、名前の通りの品物だ。沖縄料理と違い味付けが濃い。そういや鹿児島を出て以来、しばらく塩辛いものとは無縁だった。久々に塩辛い物を食べて東北人荒井、満足したといえば満足した。
注1・「『ひめゆり』であり『白梅』」:ひめゆり部隊は沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒からなる部隊で、「ひめゆり」の名前は二校の校友会誌にちなんでいる。「白梅」は第二高等女学校。その名の由来はよく分からないが、同窓会の名前などにちなんでいるものと思われる。
注2・「がじゅまる食堂」:国際通りの区画整備に伴い、残念ながら2004年に閉店。ご主人はその後メルパルク沖縄のレストラン「夕凪」で腕を振るっていらっしゃるとのこと。