この日は週三便の波照間フェリーが出る日だった。もっと波照間島でゆっくりしたかったが、日本一周はまだ終わっていないし、他の島も見てみたい。思い切って島を出ることにした。
ところがこの日は風が強かった。北の沖に西表島が見えるくらい空は晴れていたのだが、強風のため高速船は軒並み欠航という知らせが西浜荘に届いていた。果たしてフェリーはと心配していると、引き続き、フェリーは通常通り出航したとの知らせも届いた。
波照間発は午後だったので、それまで島内を見て廻った。
王朝時代の見張り台だったコート盛、島の南北の浜、ぶりぶち公園、シムスケー、島の英雄オヤケアカハチ生誕の地、戦争中フィリピンから小舟で波照間に脱出してきた兵士の「大東亜戦争転進記念碑」、日本最南端の波照間灯台、サトウキビ畑、最南端高那崎、風力発電の風車、浜シタン群落。潮が大きく退いた西浜。次はいつ見られるかわからない。とにかく島を廻った。
はっきり言ってこれら島の名所は、遊戯施設ではないし遊園地でもない。塚や石積みが、ただそこにあるだけである。そこがいいのだと思う。
昼食はすっかりお世話になった青空食堂の野菜そばにした。八重山そばで作った味噌ラーメンというかんじで、あまり違和感がない。
島は内地と比べてゆったりとしている。都会のようにせかせかしていない。それというのも、島の暮らしにはどんなに人間が焦ったところで、風や潮の流れが変われば何もできなくなるという「風まかせ」なところがある。そんな自然を目の前に暮らしているから、秒単位で焦ることが詮無く見えてくるのだと思う。
船はいつもどおり午後三時に出るというので、二時頃港に行ってみると、来る時一緒になった旅野さん一行とまた一緒になった。同じ船で島を出るらしい。島に来て以来全く顔を合わせることがなかったのだが、その間西浜でシュノーケリングを楽しんでいた模様だ。旅野さん一行は島内の民宿「たましろ」に泊まっていて、「毎度山ほど食事が出て、食べ切れませんでしたよ! ふつうのおかずと丼ご飯の他に、大盛り八重山そばまで付いてきましたよ!」と笑っていた。こちらが泊まっていた西浜荘の話をすると「そっちもよかったかもなぁ。」と興味深げだった。
出航時刻が近づき、搭乗が始まった。今回車両甲板に載るのは、やっぱり自転車と単車と車が何台かと、なぜか牛。牛は車両甲板の一隅に繋がれるのだが、なかなか思うように動いてくれず、船員さんたちが何人も集まって引き綱を引っぱったり、トラクターで押してみたり、あれこれ苦戦しながら車両甲板に連れて行った。同じ牧畜が盛んとはいえ、こんな積み込み風景は北海道行きのフェリーでは絶対見られない。券売所に張り出された料金表には、車や単車はもちろん、山羊や牛といった動物の料金もしっかり載っていた。
乗り込んだらそれまでの疲れが出たのか、三人とも石垣島に着くまでひたすら寝ていた。
石垣港で旅野さん一行と別れてから、宿を探した。南夢楽園キャンプ場に戻ってもよかったが、熱帯夜に閉口していたのと、すぐに次の島に渡ろうと考えていたので、離島桟橋を出てぱっと目に入った「まつや旅館」に転がり込んだ。家族経営の小さな宿で、離島桟橋の目と鼻の先にある。受付に行くと中年のおかみさんが出てきて、手続きをしてくれた。
夕食を食べに、近所の「南ぬ島(ぱいぬしま)」という居酒屋ののれんをくぐる。飲み屋さんらしく、カウンターには生ビールのジョッキが並べられてあるが、島料理も頼むことができる。まずはポークたまごを注文して、突き出しのナベラーとこんにゃくの煮物を肴に梅チューをちびちびやった。
店には有名人も何人か来ているようで、壁には島出身の歌手BEGINや夏川りみのサインや生写真が飾られてある。店のおかみさんは日本でただ一人の女性勢子(せこ・注1)で、島のちょっとした有名人だったりする。
ポークたまごをたいらげてから、八重山そばで締めようと八重泉を飲みながら待っていると、隣の席にミンサー柄の青いかりゆしウェアを着た白髪の紳士がやってきて、親しげに話しかけてきた。
「ご旅行ですか。どの島に渡りましたか? 『波照間に。』 ありがとうございます。ようこそ竹富町においで下さいました。」
そう言うとミンサー柄かりゆしの紳士はおもむろに名刺を取り出して荒井にくれたが、我が目を疑った。
「竹富町長 那根元」
ここで八重山地方の行政区について軽く説明しておこう。八重山地方は大きく三つの市と町からなる。石垣島を市域とする石垣市(注2)、日本最西端の与那国島の与那国町、そして竹富島や西表島といった島々が属する竹富町だ。町域がてんてんばらばらの離島であるため、八重山の中心地石垣市内に町役場があるという、日本でも三例しかない「行政区外に役場がある地方自治体」(注3)の一つで、日本最南端の町でもある(注4)。波照間島はこの竹富町に属している。で、その竹富町の町長さんが、荒井の隣で八重泉を飲んでいるミンサーかりゆし紳士だったというわけだ。
普通に生きている限り、居酒屋さんで町長と直に話をする機会というものはまずなかろう。それがしかも、日本最南端の町長と来た日には!
那根さんは多くの旅人が八重山を訪れることこそ知っていたが、実際に会って話をしたことはほとんどないそうで、旅人が八重山のどんなところに魅力を感じているのかに興味津々だった。「何もない鄙びたところに魅力があるんですが、島としては鄙びているままというわけにもいかないんでしょうね。」というようなことを荒井が話すと、「島の雰囲気を残したまま受け入れ態勢を整えていかないといけないね。」と仰っていた。
話したいことはいろいろあったが、隣の席にいた酔っぱらいがしきりに絡んできたおかげであまり話ができなかったのが残念だった。
後で知ったことだが、ちょうどこの頃竹富町に属する西表島では、リゾート開発問題が持ち上がっていて、那根さんは推進派として渦中の人物となっていた。旅人は鄙びたところや豊かな自然に魅せられて竹富町の島々を訪れる。そういうものを壊しかねないとして開発に反対する声は強く、八重山の合併問題も絡んで、結局次の選挙で那根さんは新人候補に敗れている。
こうしたことは何も竹富町に限ったことではない。繰り返し言うが、我々はあまりにも、自分が住んでいる場所について何も知らないのではなかろうか?
地元の人間が見向きもしないようなものや、ありふれて目も留めないようなものにこそ、旅人は魅力を感じるものだし、余所者の方がかえって住民よりも詳しいということさえある。一方で地元民は「これで人を呼び込もう」と、わけのわからないものをこさえては失敗する。
見たいのは作られたものではない。そんなものは求めていない。無理して作るまでもなく、素晴らしいものが眠っていることにどうして気付かないのだろう。必要なのは、それを見つけて、ほんの少し磨いてやることだけだ。
一方で旅人が情緒とかそういうものを期待するあまり、結果としてその土地に不自由さを強いるのもどうかと思う。田舎にも未来を築く権利はある。どういう未来を築くかは、住民が大いに吟味しなければならないけれど。
自分には那根さんを「自分の町が旅人に大人気だというのに、旅人と話をしたこともないのか!」と笑うことができなかった。
注1・「勢子」:闘牛士。琉球圏には闘牛の風習が残っていて、奄美大島の徳之島の闘牛が特に知られている。
注2・「石垣市」:たまに領有権問題に上る尖閣諸島も実は石垣市。
注3・「町の外に役場がある町」:ほかの二例は竹島・硫黄島・黒島の三島村(鹿児島市)、吐カ喇列島の十島村(鹿児島市)。
注4・「日本最南端の町」:最南端の村は沖ノ鳥島を擁する東京都小笠原村。村役場は竹富町役場より北にある。