どなんの光

日本最西端へ

久部良港から見る西崎
与那国の久部良港。目の前の丘が日本最西端西崎。

 何気なく日本地図を見ていた。石垣島や西表島のさらに西に、豆粒より小さく描かれた島がある。「よなぐにじま」というようだ。隣はもう台湾。どうやらここが日本の一番西らしい。「んだがったんが! おぼえでおぐべ。日本の一ばんにしは、よなぐにじまっていうどごなんだぜ!」

 沖縄に来て以来続けざまにやってきた台風も一段落したようで、この日は朝から晴れていた。この様子なら無事与那国行きの船も出そうだと、まつや旅館を出発した。「ホットスパー」で簡単な朝食を済まし、DJEBELに給油しておく。八重山に来てからあまり走っていないので、給油するのも久しぶりだ。
 離島桟橋の窓口で与那国行きの切符を買う。乗るのは福山海運の「フェリーよなぐに」だ。9時にDJEBELともども船に乗り込んだ。10畳ほどの広さの船室の片隅に陣取り、備え付けの雑誌を読んでいるうちに出航時刻の十時になった。船は石垣港を出て西に向かう。とうとう与那国島に渡るのだ。
 与那国島は日本最西端の離島である。台湾までは海を隔ててわずかに100キロあまり、もはや石垣島の方が遠いという場所にある。また、本当の最北端択捉島や最東端南鳥島、最南端沖鳥島は、さまざまな理由で一般人はなかなか立ち寄れないが、ここ、最西端与那国島だけは普通に人が住んでいて、貨客船や旅客機も普通に就航しており、一般人でも普通に行ける唯一の「本当の最果ての地」となっている。

 フェリーよなぐにはよく揺れると評判で、旅人の間で「ゲロ船」として恐れられている。与那国着まで4時間ほど。その間寝て凌ごうと思い、出航するとすぐに横になったのだが、2時間ほどで目が覚めた。船は外洋に出たらしい。外洋特有の大波で、何度も上下に揺さぶられた。目をつむっていても大きく上下しているのがわかるほどで、次第に酔ってきた。
 それでも無理してもう1時間ほど寝ていたが、気持ち悪くてもう寝られない。あと1時間はどうすんだと思いつつ外に出た。さいわい、外で風に当たっている方が楽だった。
 噂どおり、フェリーよなぐにはよく揺れた。多少楽になったとはいえ、あいかわらず酔いはひどい。時々波しぶきを上げては、甲板に叩きつけてくるのでおちおち座っていられない。とばっちりを喰らい、頭から波しぶきをかぶることも二、三回だった。
 進行方向に軍艦のような陸地が見える。しばらく見慣れた珊瑚礁の島々とは違い、切り立った断崖がそこだけ海から高く突き出たようになっていて、一見船がつけられそうな入り江や浜が見当たらない。豆粒からは想像もつかない立派な陸地である。それが与那国島だった。

 与那国島は日本で唯一、一般人でも普通に行ける「本当の最果ての地」だが、かといって東京や大阪のように普通に暮らしていれば普通に訪れる機会があるような場所ではない。
 古来与那国島は「渡難(どなん・どぅなん)」の異名をとってきた。文字どおり「渡り難し」。与那国島は外洋にぽつんと浮かんだ孤島で、船がつけられる場所がごく限られている。しかも黒潮の強い海流が島を取り巻いているため、渡るのも難しい場所とされてきた。ゲロ船とはそういうことだ。大きな船や飛行機がある現在でも、船は石垣島との往復便が週二便、飛行機は那覇および石垣島との間に一日数便が就航しているにすぎない。当然、天気が荒れれば即欠航。与那国島は今でも「度難」なのだ。

貨客船フェリーよなぐに
「ゲロ船」フェリーよなぐに。よく揺れるのにはそれなりの理由がある。

 自分はその与那国島に渡ろうとしている。荒井が与那国島の存在を知ったのは、小学2年の時だった。その頃は「日本の一ばんにしは、よなぐにじまっていうどごなんだぜ。」と、ささやかな知識欲を満たすだけで十分だった。「どうせ行ぐなら日本の端っこも見で来っぺ!」 日本一周を志した瞬間、それは「どんたどごだが見でみだい!」に変わった。旅を始めた頃、与那国は沖縄以上に遠かった。事実、日本一周で訪れる一番遠い場所だった。しかし旅を始めて約1年、最東端、最北端、最南端はすでに廻った。残るは最西端のみ。豆粒より小さかった島も、今やあれほどまでに大きい。
 とっとと揺れない地面に上がりたかったが、知ってか知らずか、西の果ての島はやけにゆっくり近づいてくる。ゲロ船の面目躍如、別の意味でも与那国はどなん島だった。

 石垣港を出て4時間半、船は島の北岸を巡って島の西、久部良港(くぶらこう)に着いた。与那国上陸である。そしてさっそく、最西端の島の最西端の岬、つまり日本の最西端、西崎(いりざき)に行った。久部良港の目と鼻の先なので、あっという間である。岬には日本最西端の碑がある。写真はツーリング雑誌で何度か見たことがある。そのたびごとに「いづがこれば見に行ぐんだ!」と憧れた。
 そして今、その現物が、目の前にある。

波濤の西崎の
潮はなの清うさ
与那国の美童の
容姿の清うさ

 大歓迎が待っているわけでもない。何か変わったものがあるでもない。最西端の碑は、ただ、あたりまえのようにそこにあった。

 「来てしまったなぁ。本当にこごまで来られるもんなんだねぇ。」

 与那国は遠い夢だった。しかし手の届かない異世界にあるわけではない。そうなのだ。行こうと思い立ち、実際に行ってみたら、普通に行けたのだ。だからこうして自分はここにいる。与那国島がどなん島である一番の理由は、気持ちの問題なのだと思った。

日本最西端之碑
最西端の岬に立つ日本最西端之碑。ここからまた歩き始めよう!

 西崎を後にして、島の中心部、祖内(そない)に行った。久部良からは単車で10分ほどかかる。ちなみに一周は約30キロだ。地図では豆粒よりも小さい島も、実際に走ってみると意外に広かった。日本最西端の町役場、与那国町役場で地図や観光案内を仕入れ、さらに情報を集めようと、島の北の中ほどにある与那国空港に向かった。
 空港は波照間のと比べて大きく立派なもので、ターミナル前にはレンタカー屋まである。サトウキビやパイナップルを売る売店もある。面白いものはないかと物色していると、店番のおばちゃんが出てきて花酒を勧めてきた。
 花酒は与那国特産の泡盛だ。アルコール度数60度。火をつければ燃えるので「火気に注意」という但し書きまでついている。日本で一番きつい酒で、法律の都合上、泡盛ではなくスピリッツということで製造許可が下りているという曰く付きの代物だ。小さな島だが酒蔵は四つもある。それぞれ花酒を作っていて、島人それぞれ贔屓の銘柄があるそうな。売店では大きなものから小さなものまでさまざまな花酒を扱っていたが、一人で飲むのにちょうどよさそうな180mlの小瓶を一つ買った。ちなみに買ったのは崎元酒造の「与那国」だった。

燃える花酒
燃やしてみました。本当に燃えます。

 早めに寝るところを確保しておこうと、祖内の「こみね旅館」に飛び込みで転がり込んだ。この宿が少し変わっていて、フロントで携帯電話を売っていたりする。ご主人にお話を伺うと「うちはNTTドコモの代理店も兼ねてるんですよ。最近携帯電話が使えるようになりましてね。」とのことだった。アンテナは島に三本立っていて、集落ならなんら問題なく携帯電話が使えてしまう。日本の西の果てにも携帯電話が進出しているのに驚き呆れてしまった。

こみね旅館フロントの様子
こみね旅館の受付の様子。どなん島にも携帯電話の波が押し寄せていた。

 買い出しのため、祖内の中心部にある「ふくやまスーパー」に行った。店では店員さんが品出しの真っ最中で、せわしく手を動かしては品物を棚に並べていた。
 並べる片端からお客の手が伸びてきて、品物を引っ掴んでは篭に放り込んでいる。店内は満員御礼、レジには篭を手にしたお客が行列をなしていた。どの篭にもパンや牛乳といった日配商品(にっぱいしょうひん・注1)が入っている。
 荒井が乗ってきた船は福山海運という会社が運営していて、この店の隣に事務所がある。同じ会社が経営しているのだろう。どうやらこの品物は、荒井と一緒にさっきのフェリーで島に運ばれてきたようだ。並んでいる人々は台風で入荷が遅れた品物を待ちかねて、荷物が着くのを見計らって買い物に来ていたのだ。
 「スーパー」とはいうものの、ふくやまスーパーは荒井が勤めていたスーパーとはかなり違う。町の食料品店を少し大きくしたような店で、品物は肉や魚、野菜といった生鮮食品よりも、レトルト食品や缶詰、お菓子といった加工品が多かった。肉は冷凍肉とポーク缶しかない。もちろん惣菜部門なんてものもないので、できあいの弁当や揚げ物は置いてない。運送費が上乗せされる分、値段は石垣島や沖縄に比べて高めだった。まつや旅館のおかみさんが「与那国は店も少ないし値段も高いから、石垣で買い溜めしてった方がいいよ〜。」と言っていたことを思い出した。

 レーズン入りぼうろを一袋買って宿に戻ってきた。部屋備え付けのテレビをつけると台湾の放送が映った。海を隔ててわずか100キロあまり、単車だったら3時間あれば十分たどりつける距離である。その間電波を遮るものがないから、与那国島では台湾の放送があたりまえに受信できるのだ。ラジオをつければ日本語の放送はほとんど受信できず、荒井の知らない言葉ばかりが聞こえてくる。
 台湾の放送は台湾語でしゃべっているものの、映像でだいたいのことはわかる。漢字の字幕がついているものも多いので、字面を見ていればおおよそこんなことを言っているのだろうと察しはつく。
 広告は日本のものとあまり変わりがない。化粧品、歯磨き粉、カップやきそば、缶ジュースやお茶、ガソリンスタンド、自動車などなど、台湾が身近に見えるようで面白い。セブンイレブンの宣伝もやっていた。台湾にもセブンイレブンがあるなんて初めて知った。
 SARSに注意を促す広告も見た。ちょうどこの頃SARS禍が世界中に広まっていて、台湾でも少なからず犠牲者が出ていた。台湾と沖縄を結ぶ旅客航路が凍結されて観光業界が打撃を受けたとか、台湾の旅客船が一度那覇までやってきたが入港できずにそのまま台湾に帰っていったというニュースも那覇で耳にしている。国境を越えてやってきた現地の広告を目にすると、問題の深刻さが肌身で感じられる。
 ドラマやアニメ、ニュースにバラエティ番組といった番組もやっている。ドラマは台湾制作のもののようだ。現代風の恋愛物語から時代劇まで。時代劇は三國志や西遊記といった中国物だ。アニメは和製アニメの吹き替えだった。「ドラえもん」をやっていたので見てみると、登場人物はみんな台湾語でしゃべっているのだが、たいしたことにドラえもんは大山のぶ代(注2)さん似、のび太は小原乃梨子(おはらのりこ・注3)さん似の声の方が声を当てていた。

 夕食は祖内にある食堂「どんぐりと山猫」に食べに行った。ここも波照間の青空食堂やあやぱにモールの「石垣島キッズ」と同じく、与那国に惚れ込んだナイチャーのご主人が島に渡って開業した店で、店内にはアジアの飯屋!という雑多な雰囲気が漂っている。アヤしげな名前に惹かれて「アフリカ巻き定食」を注文した。運ばれてきたアフリカ巻きとは、パン粉のかわり、春巻きの皮を衣にしたメンチカツに、チリソースをかけたものだった。たぶん春巻きの皮とチリソースのあたりがアフリカなのだろう。
 宿に戻り、花酒を空けながら日記を書いた。さすがアルコール度数60度。そのままを少量口に含めば、舌から胃まで灼けるように熱くなる。さっきの売店のおばちゃんは「気付け薬にもなるよ!」と言っていた。
 空はまだ薄明るい。台湾のテレビの時刻表示は一時間前を指していた。時差があるのだ。ここは日出づる国で一番最後に日が落ちる場所だ。そしてわずか100キロ先は、もう流れる時さえ異なっている。


脚註

注1・「日配商品」:スーパー用語。生鮮食品以外で、鮮度管理が必要な加工食品のこと。毎日配送されて売り場に並べられる品物だから「日配」という。牛乳、パン、豆腐、納豆など。特に牛乳や乳製品、パンといったものを「洋日配」、豆腐や納豆、練り物の類を「和日配」と呼ぶ。

注2・「大山のぶ代」:言わずと知れたテレ朝版「ドラえもん」の声優。2005年に水田わさび女史に交代するまでドラえもんを演じた。雀士でタイトー「アルカノイド」の達人。

注3・「小原乃梨子」:同じくテレ朝版「ドラえもん」の初代のび太の声優。のび太の他には「ヤッターマン」のドロンジョ役でも有名。のび太は2005年から大原めぐみ女史が演じている。

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