与那国一周

与那国島東崎 立神岩
東崎と奇勝立神岩。岩の多い与那国は黒っぽい島という印象を受けた。

 この日は朝の七時に目覚めたが、あたりはまだ薄暗かった。日が暮れるのが遅い分、日が昇るのも遅いのだ。レーズンぼうろの残りで朝食を済ませ、九時に宿を引き払ったところで、島を一周することにした。
 祖内の集落を出ると、とたんに建物の数が減る。かわりに畑が増えてきて、道路も細くなってくる。東に行くにつれ道は高度を上げ、間もなく東崎(あがりざき)に着いた。
 東崎は与那国島東端の岬だ。荒々しい断崖で、海からはかなりの高さがある。岬一帯は牧場になっていた。牛のほか島の在来種、与那国馬が放し飼いにされている。寒立馬が棲む本州の最果て、青森の尻屋崎を思い出した。
 あたり一面草原というのはいかにも気持ちよかったが、足元を見ればそこらじゅうに牛や馬の落としものがあるのも尻屋崎と同じだった。地雷原を進むがごとく、踏んづけないように気を遣うので、最東端の展望台まで行くのに手こずった。牛さんや馬さんもよくこれだけ喰って出すものだ。
 島の東には軍艦岩や立神岩といった奇勝がかたまっている。それまで見てきた隆起珊瑚礁の島々とはうってかわって、与那国島は岩がちな島である。昔の人々はこの断崖に、近寄りがたいものを感じたのかもしれない。

島の案内板のヨナグニサン
比川で発見、巨大ヨナグニサンをあしらった案内板。蛾なのに町蝶とはこれいかに?

 島の南にはヨナグニサンの生息域が広がっている。ヨナグニサンは与那国島一帯に生息する蛾で、翼長20センチ越、世界最大の鱗翅目(りんしもく)である。蛾なのだが、どういうわけか与那国町の蝶の指定を受けている。生息域付近は藪がちな林になっていて、人気のない舗装路が一本通っている。一頭ぐらいいないかと、DJEBELを降りて林のあたりを見回してみたが、残念ながら巨大な蛾はいなかった。
 林のところどころには、バケツのようなものが吊り下げられていた。ご多分に漏れずヨナグニサンも絶滅危惧種なので、保護活動が進められている。おそらくはヨナグニサンと関係があるのだろうと一人で納得した。
 ヨナグニサンは見られなかったが、そのかわり、色とりどりの蝶は何頭も飛び交っていた。奄美以南を走り回っていると、とにかく蝶が多いことに驚く。暖かい気候はもちろん、気流や風に乗り、南から島にやってくる蝶が多いのだそうだ。あの小さな身体で、それほどの旅をするということにも驚かされる。
 島の南にある比川の集落を抜けると、海を見ろす道に出る。背の低い蘇鉄越しに青い海を見ながら走るのは、まったく気持ちのいいものだった。

 名跡も見た。まずは久部良バリ。地面にぱっくりと口を開けた巨大な岩の裂け目で、幅は約3メートル、深さも同じくらいある。底には堅そうな草が生えていて、落ちたら非常に痛そうだ。
 その昔、島に人頭税が敷かれた頃、口減らしのため妊婦はここに連れられてきて、その上を跳び越すよう命じられたのだという。身重なので跳び越すのは難しい。転落してお腹の子供もろとも絶命した者もいれば、跳び越せても恐怖で流産してしまう者もいたそうだ。荒井に伝説の真偽はわからないが、島には人頭税廃止記念碑もいくつかあったから、人頭税がよほど過酷なものだったことは違いない。一方でレトロゲーム愛好家荒井、地割れを目の前に「こさ落ぢだら、宇宙さ行げるんだべが?」と思ったかどうかは定かでない。
 祖内のティンダハナタはちょっとした見物だった。岩山の中腹が天然の露台のようにえぐれていて、そこから祖内の集落が一望できる。こちらには与那国を治めた女酋長のねぐらだったという伝説が残っている。
 ティンダハナタの壁面には、与那国島を讃える詩を刻んだレリーフがあった。「与那国島は南海に浮かぶ浮沈空母だ。」といった旨の文句が並んでいる。戦前に作られたもののようだ。

祖内から見るティンダハナタ
ティンダハナタ。祖内を見下ろす場所にある。

 後で知ったことだが、与那国島が日本最西端になったのは、太平洋戦争での敗戦以降である。戦前の台湾は「大日本帝國」の版図だった。台湾に近い与那国島は格好の中継地として、大いに栄えていたのだ。件のレリーフはその名残だ。
 ところが敗戦によって台湾は異国になった。与那国台湾航路は途絶え、与那国は日本最西端のどなん島になってしまったわけである。一方で島に活気を取り戻そうと、現在は台湾航路の復活運動も進められているそうだ。

 島を一周し、祖内の「マツキ食堂」で昼食にした。食べたのは冷やし長命草そばだ。長命草とは八重山に自生する野草で、特に与那国島には多く生えていて、島の名物になっている。この長命草を練り込んだ八重山そばが長命草そばだ。
 注文すると、白身魚の刺身とゴーヤの浅漬けの小皿と一緒に、八重山そばを使ったつけ麺が運ばれてきた。緑色でやや苦みのあるそばを、泡盛風味のタレで食べる。麺が長くてちょっとたぐりにくい。しかも長い麺を箸で持ち上げ、タレにつけようと難儀していると、どこからともなく蝿がやってくる。蝿を追っぱらいつつ麺をたぐってすすりこむので、手と頭を動かしっぱなしの昼食となった。

 昼食をしたため、祖内にあるコミュニティセンターの軒先で休んでいると、地元のオバーさんがスクーターに乗って現れた。荷台にはさんぴん茶が3ケースばかり積まれている。「そんなにたくさんどうするんですか?」と訊いてみると、「ドラマの撮影班に振る舞うから、今のうちに冷やしておくんですよ。」と教えてくれた。
 話によればちょうどこの頃、島ではテレビドラマ「Dr.コトー診療所」の撮影が進んでいて、撮影班が大勢島を訪れていた。島の一角には撮影用のセットもあるそうだ。そういえばどんぐりと山猫やマツキ食堂には、出演者の泉谷しげると店の方々が一緒に写った写真や、柴咲コウのサインなど飾られてあった。フジサンケイグループの目玉焼き印をつけた撮影車両も島内随所で見かけている。おそらく東京から船でここまで運んできたのだろう。荒井はDJEBELで二ヶ月かけて山形からここまでやってきたわけだが、日本最西端の島で多摩ナンバーの大型車両を何台も目にすると、アムンゼンの後塵を拝したスコット(注1)はこんな心境だったのかという気もしてくる。

ひがし荘
簡易宿泊所ひがし荘。南の島にはこうした旅人向けの簡易宿泊所が多い。

 「いや、いつもはこんなことはないんですけどね〜。滅多にないことですから、こっちも大わらわなんですよ。」
 この日の宿の手配は、祖内にある町の観光協会にお願いした。ドラマ撮影のため近々撮影隊が100人近く来るというので、島の主だった宿はいっぱいいっぱいだという。そこで町内のコミュニティセンターに撮影班の方を押し込んで、それで観光客の分の宿を確保するなど、島の方も受け入れにてんてこまいしている様子だった。
 多くの方は「もうちょっと島にいれば、柴咲コウが見られるかも!」とか喜ぶのだろうが、荒井は旅人だ。ここでも「取り込み中のどさ渡ってきだみだいだなぁ。」と苦笑した。70年ぶりの寒さに凍えた北海道、お盆の佐渡、ぎりぎり間に合った乗鞍、積雪が心配だった晩秋の帰り旅、梅雨直撃の沖縄、振り返れば荒井の旅はいつもこんなもんである。
 とはいえ宿は首尾良く見つかった。今度の宿は「ひがし荘」という、旅人向けの素泊まり宿だ。さっそく教えてもらった場所に行ってみるとおかみさんが待っていて、宿についてあれこれ説明してくれた。
 ひがし荘は典型的な旅人宿だ。平屋建ての宿舎に簡素な個室がいくつかあって、煮炊きやシャワー、厠等は共同となっている。部屋は基本的に寝るだけの場所なので、テレビの類は置いていない。さすが柴咲コウはこうした宿には泊まらんだろう。

 部屋で一眠りしてから、祖内の町中に出かけた。平らげたレーズンぼうろのかわり、ふくやまスーパーで長命草天ぷらを仕入れる。天ぷらとはいうものの、中身は長命草入りのサーターアンダーギーだ。
 夕食のため「女酋長」という飲み屋ののれんをくぐる。屋号はティンダハナタの伝説にちなんでいるのだろう。まずはお通しのツナ和えほうれん草を肴にオリオンビールを呷る。店内を見回すと、座敷で撮影班らしき団体客が盛り上がっていた。そういや昨日もどんぐりと山猫に撮影班の一団が飲みに来ていた。与那国で食事ができる場所は限られている。しかも団体で来ているものだから、夕食が宴会になってしまうのだろう。
 麩チャンプルー・ご飯セットを食べて満足したところでひがし荘に戻った。部屋で長命草天ぷらをかじり、残りの花酒を空けつつ日記を書く。部屋には何もない。呑んで喰って日記をつけてしまえば、あとは寝るよりほかにすることがない。

日本一遅い夕暮れの日

後ろから見る日本最西端之碑
なかなか見ることのない日本最西端之碑後ろ側。昭和50年代、地元の中学生達が卒業記念に寄贈したものらしい。

 この日もひがし荘に泊まるので、荷物を置きっぱなしにしてまた島を廻ることにした。

 西崎に行ってみた。年に数回対岸の台湾が見えることがあるそうだが、残念ながら雲に阻まれ、陸地は何も見えなかった。詮無く最西端の碑を観察してみると、台座の岩のくぼみに、真っ青になった十円玉がいくつか置かれてある。賽銭かトレビの泉のつもりだったのだろうか。異国の地を望める岬でも、人のやることはあまり変わらないのかもしれない。

 立神岩展望台にある四阿で朝寝を決め込むが、なかなか寝られない。しょうがないので、たまたまそこにひっくり返っていたメスカブトムシをからかって遊んだ。カブトムシのつま先は鉤爪のようになっていて、がっちり物を掴むのに都合よくできている。このメスカブトも荒井の親指にしがみついてなかなか離れず、外すのに難儀した。これが人間のお姉ちゃんだったらよかったのに。

 日が高くなってきた頃、比川の海岸の防波堤に腰掛けて、朝食がわり、長命草天ぷらを二個ばかりかじった。喰っていると脇にフナムシが一匹現れた。驚いて跳び退くと、奴さんも驚いて、防波堤の下にさっさと逃げていった。

 昼食のため一度宿に戻る。手持ちの食材を掻き集めて、醤油マヨネーズスパゲティを作った。食事を終えて洗い物をしようと部屋を出る際、間違って部屋の鍵を中に閉じこめてしまった。あずま荘の客室の扉は自動施錠式なので、部屋を離れる時は鍵を持ち歩かなければいけない。困った困ったと言っていると、土方風の宿泊客の方が「管理人さんに連絡を取ってみましょう」と管理人さんを呼んでくれて、事なきを得た。ありがとう、土方さん。

 夕方まで部屋に籠もっているつもりだったが、手持ち無沙汰は否めない。部屋備え付けの扇風機を分解掃除してみたり、沖縄県庁でもらった日本地図ジグソーパズルで遊んだりと暇を潰してみるが、それでもまだまだ日は高かった。だんまりを決め込むのはやめて、また島を走り廻ることにした。

 何か面白いものはないかと、祖内の「崎原商店」を冷やかす。ふくやまスーパー同様、雑貨店や食料品店を大きくしたようなところで、食べ物はもちろんのこと、文具や瀬戸物がごちゃっと置かれてある。ビールや泡盛も置いてあるが花酒はなかった。みやげ屋でも花酒はただの泡盛よりも格段に値が張る。島人にとっては、普段飲むような酒ではないのだろう。
 ひととおり与那国を廻ってみたが、荒井がよく行くようなおもちゃ屋やゲーム屋、電気屋や本屋は見当たらなかった。そうしたものが欲しくなった場合、島の方々はどうやって買っているのだろう。やはり石垣島まで買いに行くのか、送料を払って取り寄せるかするのだろうか。
 店で30円のアイスクリームを買い、軒先で食べた。店は駄菓子屋も兼ねているようで、近所の子供達が何人か集まっている。休み中らしい撮影班の兄ちゃん達と、3オン3のバスケで遊んでいた。きっといい思い出になることだろう。

宇良部岳
島の東にそびえる宇良部岳。てっぺんに見えるのは携帯電話のアンテナ塔。

 久部良まで走り、そこから島の内陸を通る道に入っていく。与那国島の内陸は東に宇良部岳(うらぶだけ)、西に久部良岳という二つの山があって、その真ん中が高原になっている。麓の方には水田もある。まだ6月末だったがすでに実っていて、コンバインで刈り取りをしているところもあった。田んぼの様子も米どころ東北とは違っていた。東北では、稲が成長するにつれ田んぼの水を抜いていくのだが、ここでは実った田んぼでも水が張りっぱなしだった。もともと稲は南の作物だ。本来の稲作はこういうものだったのだろう。

 山道を走っていると、今度は目の前に体長1メートルほどの大蛇が現れた。ニョロニョロと道路を横断している。「ハブだべが?」と大いに焦る。とりあえず邪魔にならないよう、DJEBELの速度を落として踏んづけないよう、尻尾の方をそろそろと抜けようとすると、奴さんも驚いたのか、それまでの3倍ぐらいの早さで茂みに逃げていった。

志木那島診療所オープンセット
ドラマのために作られた「志木那島診療所」。与那国の新名所。

 再び比川に出る。浜に行くと片隅に、「志木那島診療所」の看板が掛かった小さな建物があった。話に聞いていた「Dr.コトー診療所」のオープンセットだ。壁の褪せ具合や、入り口にある火屋(ほや)の割れた電灯など、時代がかってボロっちい。上手いことこさえたものだ。「材料の板を焼いたり、薬につけたり、ペンキを塗ったりして、上手い具合に古びた感じを出してましたねぇ。」 北海道の中富良野で「鉄道員」のオープンセットを見た時、いもだんごを売っていたおばちゃんはそう言っていた。ここもそんな塩梅で作ったのだろう。
 こんなセットがあって、しかも有名な俳優さんがわんさと島に来るのだから、島の方々はさぞや盛り上がっているだろうと思いきや、意外にそうでもないらしい。「邪魔にならないよう、島の人はあまり見学に行かないんですよ。」という話は観光協会でうかがっていた。もっとも、島の方々にも仕事があるので、見に行けるほど暇な人もいないらしい。
 そういう有様なので、エキストラの手配は大変らしかった。ちょい役とはいえ、撮影は一日がかりになる。仕事を一日空けて撮影に参加できる人が少ないから、必要な人数を集めるのも一苦労なのだそうだ。
 マツキ食堂ではこんな話もうかがっている。「ちょうど同じ頃、柴咲コウさんが東京の方でCMに出ることになってたんだけど、ドラマの撮影が長びいて日程の都合がつかなくなって、結局島でCMを撮ることになったんですよ。エプソンの『カラリオ』なんですけど、見たことありますか?」 島での撮影は、内地での撮影とはなにかと勝手が違っているようだ。
 さておき、ここもやがては「北の国から」のセットや幾寅駅のような、島の名所となるのだろう。そういや「Dr.コトー」の主役、後藤医師を演じるのは「北の国から」で純を演じた吉岡秀隆だった。

与那国診療所
ちなみにこっちが本当の与那国診療所。当然ながら、作りは志木那島診療所より立派である。

 廻るうち夕方になった。「どんぐりと山猫」でみそかつ定食の夕食にしてから、祖内の浜で夕日を眺めた。浜ではまだ子供らが遊んでいる。撮影班の方々もキャッチボールをして遊んでいた。時計は八時を回っても、あたりはまだまだ薄明るかった。

 すっかり暗くなった頃、また「女酋長」に行った。昨日店に寄った際、ビール一杯がただで飲めるというサービス券をいただいたので、島にいるうちに使ってしまうつもりなのだ。お通しは昨日と同じ、ツナ和えほうれん草だった。お品書きを見れば、昨日よりも売り切れが増えている。離島では仕入れや補充もままならないのだろう。
 この日の肴はカジキの刺身だ。黒潮のおかげで与那国ではカジキがよく獲れるそうで、町の魚にもなっている。淡い桃色の厚目の切り身は、適度な油っぽさとさっぱりした後味が同居していて、マグロよりも癖がなく食べやすい。

 隣の席ではバックパッカーとおぼしき男女三人組が、あれこれと旅の話をしていた。東南アジアの国々の名前があたりまえのように飛び出してくる。アジアを縦横無尽に旅する彼らにとって、与那国はどなん島ではない。
 しかし荒井にとっては、ここが日本一周で訪れる一番遠い場所だった。この旅でこれから先、もうこれより西に行くことはない。この日は夏至だった。これから冬に向け日は短くなる。去年の今頃は日本で一番最初に日が昇る街にいた。今年は日本で一番最後に日が落ちる島で日本一遅い夕暮れを眺めていた。
 そして果てなく見えた荒井の日本一周も、大きな折り返し地点を迎えていたのだ。

与那国島の夕暮れ


脚註

注1・「アムンゼンの後塵を拝したスコット」:ロアルド・アムンゼン(Roald Amundsen・1878〜1928)とロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott・1868〜1912)は、どちらも20世紀初頭の探検家。人類初の南極点到達を懸け、同時期に南極に渡った二人だが、その栄誉はアムンゼン隊のものとなった。その一月後南極点に到達したスコット隊は、アムンゼン隊の痕跡を見て愕然としたとか。

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