美ら島々いつかまた

慰霊の日

ヤエヤマヒルギの若木
若いヤエヤマヒルギ。永い時間をかけ、ゆくゆくは10メートルもの大木に育つ。

 石垣島への帰り船が出る日だった。宿を出てから受付の時間が来るまで、島をもう一周した。与那国島も次はいつ来られるかわからない。
 港の窓口でフェリーの乗船券を買うと、先客のご老人に声をかけられた。「船には売店がありませんからね。島で弁当を買って、西表島の北側を廻る頃に食べるんですよ。その頃ちょうど昼だから。」
 もう一度ゲロ船に乗るということで、あまり腹に物は入れたくなかったのだが、飲み物ぐらいは欲しかったので、空港まで行って、台湾産グヮバジュースを買って飲んできた。
 積み込みを終え、時刻になり、船が動き出した。すっかり見慣れた西崎がゆるゆると遠ざかっていく。

 さっきのご老人が話しかけてきた。「この船は揺れますからね。酔わない方法を教えてあげましょう。」
 ご老公は田中さんと名乗った。船酔いしない方法とは至って簡単。できるだけ船の中央に近い場所で、足の裏をぴったり壁に付けて寝るというものだった。フェリーよなぐにの真ん中の客室はちょうど寝台式になっているので、この方法を試すにはおあつらえ向きだった。

田中さん
与那国在住の田中さん。楽しいお話ありがとうございました。

 「私は昔海軍にいましてね。それはやんちゃしたものですよ。」

 田中さんはこの酔い止め法を旧海軍で覚えたそうだ。話題はやがて、酔い止め術からその半生の武勇伝になった。
 田中さんは生まれは北海道、層雲峡近くの寒村で暮らしていたが、小さい頃から村一番のやんちゃ坊主だったらしい。小学生の頃から柔道をはじめ、中学の頃には高校生も投げ飛ばすほどの強さになっていた。その後札幌に預けられ、雪解け水で増水したと豊平川に飛び込んで泳ぎをものにしたそうな。
 長じて田中さんは海軍に志願した。そこでもやんちゃぶりは止まらない。遠泳大会ではぶっちぎりの一位を記録し、車に乗れば一周27分のコースを7分で廻りきる。嵐の海では、自ら軍艦の檣楼(しょうろう)に登り見事見張役を務めた。千島列島の基地で補給線を絶たれ食料に困れば、浜で昆布を拾ったり、オットセイやタラバガニを捕まえたりして現地調達する。撃墜したB29爆撃機の乗組員を捕まえに行く話が傑作だった。山中で発見した操縦士を得意の柔道で投げ飛ばし、ふん縛って大型二輪のサイドカーに押し込めて、颯爽と山道を下ってきたんですぜと得意げに仰っていた。
 戦後は北海道のハイヤー会社で、示談屋として働いていたそうだ。恐れずなんにでも突っ込んでいく性格なので、北海道の暴力団の総元締めにも顔が利いた。だから北海道では示談役として、ちょっと名の知られた存在だったそうな。
 そして引退した現在、北国とは全く反対側、八重山諸島の与那国島に移住して、北海道に住む孫に与那国のパイナップルを送ったり、地元漁師と一緒に釣りをしたりと、悠々自適の暮らしを楽しんでいるのだった。
 「自分はなにごとも恐れず、どんどんぶつかっていきました。だからいろんなことを成し遂げられました。人生は面白いものですよ!」
 話には誇張も混じっているだろう。どれだけ本当かもわからない。とはいえ、恐れず体当たりで挑んだからこそ様々なことができて、人生を謳歌しているのだという話には、深く感じ入るところがあった。
 田中さん直伝の方法と面白い武勇伝のおかげで、帰り船は酔うこともなく、あっという間に4時間半が過ぎた。田中さん、ありがとうございます。

 石垣港で田中さんと別れ、その足で先日訪れたバンナ岳公園に向かった。
 この日6月23日は、沖縄にとって特別な日である。「沖縄慰霊の日」、太平洋戦争下、日本で唯一地上戦の舞台となった沖縄で日本軍の組織的抵抗が終わった日、つまり沖縄にとっての終戦記念日だ。この日は沖縄の休日になっていて、県内各地で追悼行事が開かれる。摩文仁の平和祈念公園で開かれる沖縄全戦没者追悼式はその最大のものだ。八重山でもバンナ岳公園で追悼式が開かれる。
 実は6月23日が沖縄にとって特別な日であることは、当地に来るまで知らなかった。8月の原爆記念日や終戦記念日同様、日本人だったら知っておかなければと思い、見学に行ったというわけだ。
 公園には来賓用のテントが張られ、慰霊碑前には祭壇が設けられ、花が添えられていた。駐車場には参列客が乗ってきた車やバスが多数停められている。追悼式だけに礼服を着た方が多い。黒いかりゆしウェアの方も多く見かけた。黒かりゆしは冠婚葬祭用で、沖縄ではこれも正装として認められている。参加者は八重山の首長や議長、沖縄の県知事もいる。その他は遺族や関係者、あとは学校代表で参加している小中高生。一方荒井は場違いな旅装備(しかも大型ザック持参)で、異様に浮いていることに気づいたので、隅っこの方でおとなしく参列することにした。
 式典が始まった。全部で二部構成、前半は八重山の戦争犠牲者追悼式、後半は全沖縄戦没者追悼式典となっている。6月末の八重山の午後の日差しは強く、暑かった。

忘勿石
忘勿石。岩に刻まれた文字に、心に刻まれたものの深さを思い知る。

 本島から離れた八重山では、直接戦闘が繰り広げられることはなかったが、やはり戦争で多くの人々を失っていた。「浮沈空母」与那国島の空襲、そして戦争マラリアである。
 大戦末期、劣勢に立たされた日本は一億総玉砕の覚悟で来るべき本土決戦に備えていた。そして八重山でも疎開と称して、島民の強制移住が進められることになった。土地は軍部に接収され、島民は奥地へと追いやられた。
 ところが、当時の八重山で人が住める場所は限られていた。亜熱帯の八重山奥地には、ハマダラ蚊が生息していたのだ。ハマダラ蚊はマラリアを媒介する虫である。奥地に追いやられた人々はハマダラ蚊に刺されてマラリアに感染し、一人、また一人と命を落としていった。この強制移住が原因のマラリアを「戦争マラリア」と呼んでいる。
 特に波照間島民の運命は悲劇的だった。こぞって西表島に強制移住させられ、戦争マラリアによって多くの人命を失うことになったのだ。幼い子供たちも少なくなかった。一家全滅も珍しくはなかったという。
 時の波照間国民学校校長、識名信升(しきなしんしょう)は、次々に教え子達が死んでいくのを嘆き悲しむあまり、波照間島の対岸、南風見田浜の岩場に、「忘勿石 ハテルマシキナ」と刻み込んだ。故郷波照間島を目の前にしながら帰ることも許されず、多くの人々が無念の思いで亡くなっていった。忘る勿れ、未来永劫この悲劇を。かの地を襲った悲劇と望郷の印、それが「忘勿石」である。
 八重山が戦場になることはなかった。しかし、空襲や戦争マラリアで命を落とした人々は、八重山全体で3100人にも及んだ。沖縄戦の惨劇は知られているが、その一方で、このような悲劇が八重山では起きていたのである。マラリアも悲しむべき戦争の爪痕なのだ(注1)。

 前半が終わると、場所を移してひきつづき後半の戦没者追悼式になった。前半は公園に建てられた戦争マラリア犠牲者慰霊碑の前が会場だが、後半はその近くにある戦没者慰霊碑前が会場となる。中学生の平和作文が読み上げられ、平和を祈る歌の合唱があり、参列者が献辞を読み上げるなど、式は粛々と進んだ。

 その最中、荒井は平和を願う人類が争いあう矛盾について考えていた。
 恒久平和は人類の願いである。しかし「平和を守るため、正義のため、国のため」と称して相変わらず争いあっている。平和や正義とは単なる言い訳だ。もっともらしい理由を掲げてはいるが、結局は我が身かわいさ、保身のため争っているのに違いない。そして巻き添えを喰らって多くの人々が亡くなっていく。そんな愚行をどれだけ続ければ、どれだけ繰り返せば人類は戦争を捨てられるのだろうか? 答えは絶望的だ。
 おそらく、人類は絶滅するまで争いを続けるだろう。我々にできるのは、せいぜい、争わないように努力することだけだ。否、だからこそ、争いを止める努力をしなければならないのではなかろうか?

 式典は一般参列者の焼香で散会となった。荒井も慰霊碑の前に作られた祭壇で香を焚き、犠牲者の冥福を祈った。

 知らないうちに八重山の梅雨は明けていた。この日は久々に南夢楽園キャンプ場に厄介になった。沖縄に来てからは屋根の下に泊まることが多く、予想外に宿代の出費が増えていたのだ。テントを張ってから、真栄里の「サンエー」に夕食の買い出しに行った。旨そうだからと惣菜売り場で見切り品のハヤシライスを買ってしまう。DJEBELのハンドルに買い物袋をぶら下げてキャンプ場まで運んだら、案の定というか、見事に中身が寄っていた。


脚註

注1・「マラリア」:マラリア原虫が体内に入ることにより起こる病気。ハマダラ蚊はマラリア原虫を媒介する昆虫。高熱などをともない、場合によっては死に至る。アレキサンダー大王の死因としても知られる。熱帯地方を中心に患者は後を絶たず、地球最大の感染症とも称される。八重山地方のマラリアはすでに根絶されたが、地球温暖化にともないハマダラ蚊の卵が見つかったという報告もあるので、油断するわけにもいかないらしい。

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