沖縄最終日

沖縄記念公園海洋文化館
海洋博公園の海洋文化館。豊饒なる環太平洋文化に目を見張る。

 船が那覇に着いたのは午後十時近くだった。それでも新港付近には、ドミトリーの出迎えがいて客引きをしていた。夜遅いから我が宿にどうぞという寸法だ。「客引きをするドミトリーの中には、怪しいところもあるから注意した方がいいよ!」と、松尾さんが言っていたのを思い出す。ちょうど港のすぐそばに、24時間営業のネットカフェがあったのでそこに籠もることにした。
 ネットカフェだからろくろく寝られるわけがない。2,3時間の仮眠を取るぐらいが精一杯で、朝の五時には出発した。

 近場の「ローソン」でツナサンドの朝食にした。ツナサンドを食うのも久々だ。八重山では材料を手に入れるのが大変なのか、コンビニのサンドイッチは高いので、別のものを食べることの方が多かったのだ。
 那覇港に行き、帰り船の日程を調べる。鹿児島行きの船は那覇行き同様一日一便、マリックスと大島運輸が交互に運行している。那覇石垣間のように数日待つ必要もない。
 この日は荒井が乗ってきたマリックスの番だった。帰る時は大島運輸にしようと決めていたので、船に乗るのは明日にして、この日はまるまる沖縄見物にあてることにした。

 道が混みだす前に本部町(もとぶちょう)まで行こうと那覇港の待合所を出たところ、自称元旅人という男に話しかけられた。こちらは早く話を切り上げてさっさと出発したかったのだが、先方があれやこれやと話すものだから出発が遅れ、渋滞のまっただ中を走る羽目になった。いかなこちらが年中夏休み状態の旅人だとはいえ、いざ出発だ!というときに長話を仕掛けるのは勘弁していただきたい。出鼻をくじかれる。

 そうこうして九時頃本部に着いた。目的は沖縄記念公園だ。通称海洋博公園。1975年に開かれた沖縄海洋博の跡地にできた公園で、熱帯植物園や水族館、博物館などが整備されている。「一度は見に行った方がいいよ!」という噂は何度か耳にしていたので、戻る前に見に来たというわけだ。公園自体は入場無料だが、中にある植物園や水族館、博物館を見学するには、それぞれ入場料が必要となる。
 公園は伊江島の真向かいにある。天気がよかったので、正門をくぐると目の前に伊江島が大きく見えた。平日で開園間もなかったせいか、中はまだがらがらだ。敷地内は手入れが行き届き、ごみ一つ落ちていない。目当ての海洋文化館が開くまでまだ時間があったので、木陰で休んでいた。
 それにしてもこの暑さのしのぎやすさはなんだろう。ここしばらく八重山の暑さに慣れていたものだから、この時期の本島程度の気温では暑いと思わなくなっていたらしい。

 海洋文化館は公園の目玉の一つで、太平洋に点在する島々に伝わる伝統文化を紹介する博物館である。体育館のような柱のない広い建物の中に、太平洋の島々に伝わる舟や民具、儀式の道具などが、解説とともに整然と並べられてあった。民具や舟には、祖霊や自然の力を表す素朴ながら手の込んだ彫刻が施されてある。十何人も乗れるようなカヌーや高床式住居といった大型の展示物も多い。
 太平洋の島々に住む人々の祖先は、こうした手作りの舟に乗り、大陸から島々へと渡り、そこで祖先を敬い、自然に宿る神々を信じて暮らしていたのだそうだ。
 羅針盤や地図といった便利なものはない。大航海時代よりはるか以前から、風や潮の流れ、星の並びを読み、手作りの装備でこれだけの航海を成し遂げていたということにまずは驚く。人間は日頃様々な場所で便利な機械のお世話になっているけれども、頼りすぎるおかげで、己に本来備わっている力というものを忘れかけているのかもしれない。
 これら島々では、大航海時代でヨーロッパに「発見」されるまで、「永遠の今日」、自然と向き合い、海と島の大地から日々の糧を得るという暮らしを永い間営んでいた。これを原始的と見る向きもあるのだろうが、大型の舟や民具の凝った彫刻などを見ていると、そこにはいわゆる西欧式の文明とは異なる、根源的な人間の叡智が詰まっているように思われた。我々の祖先が長年に渡って経験的に培ってきたやりかたというものは、古くさく非合理的なように見えつつも、実は非常に理に適っている場合が多い。「先人の智慧」というやつだ。
 永遠の今日。もともと人間の暮らしとは、それぐらい簡素なものでよいのかもしれない。一月以上沖縄の島旅をしていただけに、余計にそう思った。

なかむらそば
恩納村のなかむらそば。評判の店らしく混んでいた。

 那覇に戻る途中、国道58号線沿いで見かけた「なかむらそば」で昼食にした。平日の昼前だというのに客席はほぼ満杯で、大盛況である。味の方はどうだろうとソーキそばを注文したら、これが絶品だった。沖縄に来て以来、あこがれのそばは何度も食べたが、その締めくくりを飾るのにふさわしい味だった。

 そのまま糸満に行き、摩文仁の平和祈念資料館を見学した。この前来た時は平和の礎を見ただけなので、また来たわけだ。
 資料館の常設展示室には、解説とともに、戦場や当時の街並みを再現した大型の情景模型がいくつも置かれ、沖縄がたどってきた歴史を紹介している。その多くは沖縄戦の悲劇を今に伝えるものなのだが、一番印象に残ったのは占領下の琉球政府時代を紹介するものだった。そこでは人々が戦争の傷跡から強くたくましく復興を遂げた様と、そのために数々の闘争が繰り返されたことが語られている。
 ある意味、沖縄本当の戦いは終戦と同時に始まった。米国支配下に入った沖縄は、極東地方の前線基地として土地を奪われたばかりか、自治権の縮小、米兵の横暴など、数々の抑圧を強いられた。戦争が終わっても、昔の暮らしが戻ってきたわけではなかったのだ。そして自由と自立を求め、沖縄の人々は立ち上がった。辺戸岬では復帰闘争ののろしが上がり、「コザ」こと沖縄市でも米軍に抗議して大規模な暴動が起こった。
 自由を求める気運の高まりは、やがて1972年の本土復帰へとつながっていくのだが、もう一つの悲願、米軍の完全撤退はまだ実現していない。沖縄の闘争は今も続いているのだ。

 次に訪ねたのは、日本百名水にも選ばれた玉城村(たまぐすくそん・現南城市)の垣花樋水(かきのはなひーじゃー)だ。急斜面に開かれた住宅地の合間、石畳の長い下り坂の先に水場がある。水は石造りの樋に導かれ、林の奥から勢いよく流れている。水場の下には池があり、地元の子供ら格好の遊び場になっていた。子供らは服までずぶ濡れになってはしゃぎ廻った末、ついに水場の方までやってきて「修行だ〜!」と、瀧行の真似事までやっている。瀧行なんてどこで覚えたんだろう。
 水場にいるのは子供たちばかりではない。観光客とおぼしきおばさんたちもいる。「この前テレビでやってたのよ。ここの水を飲むと、血液がサラサラになるんですって!」 沖縄でも南部は石灰質の土地が多い。そのおかげで、垣花樋水は日本の名水でも珍しく、ミネラルやカルシウムをたっぷり含んだ硬水が飲めるのだ。荒井に硬水と軟水の味の違いはよく分からなかったが、この水で泡盛を割って飲んだら旨いだろうと思った。

垣花樋水を占拠する子供ら
垣花樋水で遊ぶ悪ガキども。子供らは名水を遊び場にして育つ。

 沖縄巡りの最後に斉場御嶽(せーふぁうたき)に行った。重要な祭祀が執り行われたという、琉球王朝一の聖域である。昔はごく一部の限られた人間しか入れなかったが、現在は一般に開放されている。王族でもなければウチナーでもない荒井でさえ見学できるのだから、時代は変わったものである。
 王朝一の聖域は、奇岩巨岩が所々に顔を覗かせる森だった。日はまだ高かったが、木が茂っているおかげであたりは薄暗い。人工物といったら石造りの簡素な祭壇があるぐらいのもので、神殿や塔楼の類は一つもない。沖縄の先人たちは、この森に人智を越えた自然の威力や精霊を見いだし、あるまがままにしておくことで、それらに畏敬の念を表したのだろう。何もない森はその何もなさゆえにかえって神々しかった。
 感慨深く聖域の岩など眺めていたら、捕虫網を持った子供たちが現れた。森が残る斉場御嶽には、様々な虫も棲んでいるのだろう。子供たちは沖縄随一の聖域も遊び場にしてしまっているようだ。さきほどの垣花樋水といい、こんな場所を遊び場にして育つ子供たちがうらやましかった。

 那覇に戻り、定宿なるみ旅館に飛び込むと、受付のおばちゃんに「だいぶ灼けましたねぇ。」と言われた。三週間も八重山にいたおかげで、すっかり日焼けしていたらしい。部屋のテレビをつけると「ドラえもん」をやっていた。ドラえもんものび太ももちろん日本語でしゃべっていた。

沖縄いつかまた

なるみ旅館のおばちゃん
なるみ旅館のおばちゃん。那覇ではお世話になりました。

 本島中部の本部から南部の糸満まで、久々に一日で長距離を走ったおかげか、夕食を済ませて国際通りから宿に戻ってくると、くたびれてそのまま寝てしまっていた。そして起きたのは、朝の七時近くのことだった。
 船が出るのは午前八時。「このままだど間に合わねぇぞ!」と、いそいそと荷物をまとめ、受付のおばちゃんに礼を述べ、なるみ旅館を引き払った。港に近い「ローソン」でシーチキンロールとオレンジジュースの朝食を済ますついで、船内で食べようとカップ麺を仕入れてからあわてて港に行き、これまたいそいそと切符を買い、いそいそと船に乗り込んだ。
 今日出航するのは大島運輸の「フェリーあかつき」だ。なんとか間に合ったぞとほっとして、甲板から港を見渡す。

 当初はすぐに廻りきれるだろうと思っていたが、沖縄は北海道並みに奥が深かった。気が付けば北海道を廻る以上の時間を費やしている。
 沖縄は北の大地北海道とともに、旅人にとってあこがれの土地だ。北海道が「夢の大地」なら沖縄は「夢の島々」。夕闇の中はじめてこの港に降り立った時、とうとう沖縄に来たと大喜びしていた。病み上がりの身体を引きずった本島一周、台風で何度も待たされた八重山行き、日本最南端と最西端の島巡り。そしてかれこれ一月。あこがれの島々をこの目に収め、またこの港に戻ってきた。広いところを思いきり走り廻りたいと思う一方、まだまだ島を廻りたかったという気持ちが入り交じる。この船が出れば、この旅でもう沖縄に戻ることはないのだ。
 汽笛が鳴り響き、煙を上げて船が動き出した。夢の島々ともまずはお別れである。これからの旅は、郷土山形目指して東と北に向かうことになる。
 とはいえ九州はまだ半分以上廻っていないし、山陰、四国、北陸も全く手つかずなのだ。この旅の大きな目標である県庁巡り、一の宮巡りも忘れるわけにはいかない。東西南北端踏破こそ達成したが、全県庁訪問、全旧国巡り、海岸線一周という目標がまだ残っている。日本一周はまだ終わっていない。とりあえず次の目標は対馬・壱岐渡航と九州脱出、再び本土での旅が始まるのだ。

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