旅人天草を往く

崎津天主堂
崎津天主堂。天草を代表する天主堂で、今も人々の祈りを集める。

 朝からくもりがちだった。「早ぐ梅雨開げねべが?」 こういうときは撤収も遅くなる。うだうだとテントをたたみ、七時に出発した。
 上島の南海岸沿いに下島を目指す。道はうねって細く、海のそばであるのが信じられないような山中も通った。さらに行く手に大型のタンクローリーが走っていたので、なかなか距離は稼げなかった。
 そうこうして本渡市(ほんどし・現天草市)の市街地にやってきた。本渡市は天草の中心地で、ちょうど上島と下島をまたぐ位置にある。上島と下島の間はループ橋で結ばれている。
 さすが中心地だけあって、通勤の車でごった返していた。しかもやけに飛ばしている。佐渡や奄美、石垣島の車はもっとゆっくりしていた。同じ島でも、船でしか渡れない島と橋の架かっている島の雰囲気は大いに異なる。橋で渡れる島は賑やかだが一方でどこかせわしない。船でしか渡れない島は、市街地でも時がゆったりしている。橋を渡ってくるのは人や物だけではないのだろう。
 橋の恩恵か、島にはコンビニもある。そのひとつ、「RIC」でツナタマサンドとオレンジジュースのいつもどおりの朝食にした。支払いを済ますと店員さんに「旅の途中ですか?」と訊ねられた。街中で大型ザックを担いでいるのは旅人ぐらいのものなのだ。

新和町観光課の池田さん
新和町観光課の池田さん。天草の名所情報を教えていただきました。

 本渡市役所で休憩してから、県道26号線で下島の南、牛深市(うしぶかし・現天草市)に向かった。県道26号線は下島の東岸に沿って本渡市と牛深市を結ぶ道で、「天草ロザリオライン」の愛称がある。天草でもこのあたりは観光地化が進んでおらず、天草の原風景とでもいうような、漁村を結ぶ静かな道が続いた。
 途中、新和町(現天草市)の役場に立ち寄った。小さな町だが、役場は近年改築されたようで真新しい。ここでは地図をいただいたり、島の見所など教えていただいた。観光課の池田さん、ありがとうございます。
 外に出ると、隣の消防署ではレスキュー部隊が訓練の真っ最中だった。単車に小冊子など詰め込んでいると、「山形から来たんですか!」と、号令をかけていた上長の方が話しかけてきた。「空港ができたおかげで、このあたりは関東からでも日帰りできるようになったんですよ。でも山形ナンバーはなかなか見ませんね。」 橋や飛行機で容易に来られるようにはなったものの、わざわざ山形から自走してここまでやってくるような人は、やっぱりあんまりいないのだ。

ハイヤ大橋と牛深市役所
ハイヤ大橋と牛深市役所。牛深はハイヤ節発祥の地。阿波踊りの源流もここにあるとか。

 かくして牛深市にたどり着き、新和町で教えていただいた名橋「ハイヤ大橋」を渡り、国道266号線で下島の中ほどにある河浦町(現天草市)に出てきた。ここで天草コレジヨ館を見学した。
 戦国時代末期、ポルトガルから来たイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えたということは学校で習っている。ザビエルを皮切りに、日本にやってきた宣教師たちは九州を中心に布教を進め、特に天草には宣教師たちの指導のもと、西洋の進んだ技術を採り入れた学校が建てられた。その学校がコレジヨである。英語で言うところのカレッジだ。コレジヨ館はそのコレジヨを紹介する資料館で、宣教師が使った活字印刷機や写本などの複製品が展示され、当時キリスト教とともにもたらされた、進んだ技術の一端をうかがい知ることができる。

 コレジヨ館を出て間もなく、「EAT730(イートナザレ・注1)」という食堂を見つけ、そこで昼食にした。天草ではラーメン屋の代わり、多くのチャンポン屋がのれんを上げている。ここもそんなチャンポンの名店の一つで、新和町でもらった案内小冊子でも紹介されている。注文したのは名物の一つ、じゃがいもを使ってとろみをつけたチャンポンことじゃがぽんだ。盛りだくさんの具はもちろん、しっかしりた出汁と麺の相性も抜群だ。
 店は羊角湾に臨む風光明媚な場所にある。軒先の露台には立派なドラムセットが一式、壁にはジャズ演奏会のフライヤーがある。店内は小屋風の洒落たもので、そもそも屋号からして「EAT730」。一見チャンポン屋らしくない。

 「どちらからいらしたんですか?」
 「山形からです。東北の。」
 「山形から! これは遠くから来ましたね!」
 「んだっす。日本一周の途中なんですよ。」
 「日本一周! すばらしい経験をしてらっしゃいますね。」
 「若いうちに一度、自分が住んでいる国を隅々まで見でおぎたいと思ったんですよ。50歳になってがら『行げばいがった』と後悔するのだけは嫌でしたがら。」

 昼下がりに仕事が一段落して、「お味はいかがですか?」とご主人が訊ねてきたのをきっかけに、あれこれ話をうかがうことができた。
 ご主人は小林さんという。小林さんには変わった経歴があった。若い頃、プロのジャズドラマーを目指し修行を積んでいたのだ。しかし親の意向や将来への心配から修行をやめ、飲食店の仕事をするようになった。しかし大好きなドラムスへの憧れや想いは到底断ちがたく、仕事のかたわら再びドラムを叩きだした。店の造作はそういうことなのだ。そして今ではアマチュアのジャズバンドを組んで演奏会を開いたりと、地元のちょっとした有名人になっている。
 そういう経歴のある方だから、その言葉には重みがある。

EAT730の店主小林さん
店主小林さん。チャンポン屋の店主は地元で名の知られたジャズドラマー。

 「後悔しないためにも、好きなことに打ち込むのはよいことです。実りある人生のためには、生き甲斐が必要だと思うんですよ。」

 いかなお寒いご時世とはいえ、それなりに働いていれば暮らすには困らないし、欲しい物だってほとんどは手に入れられる。
 そこで小林さんは問いかける。しかし、それでいいのだろうか? と。
 確かになんとなく生きていても、文明や娯楽を享受して、楽しく快適に暮らすことはできる。だが、なんとなく物に囲まれて、なんとなくぬるま湯につかっているような生き方は、実は非常に虚しいことではないのか、と。
 それは荒井が旅に出た理由だった。このまま何もせずに歳を取ってしまうことが、どうしても耐えられなかったのだ。
 生きている以上、思い定めた何かを成し遂げたい。小林さんにはドラムスがある。荒井は旅という方法に気が付いた。「後悔しないよう、思い切って好きなことに打ち込むのはよいことですよ。」という小林さんの言葉に、自分のやっていることが認められたようで、この旅を続けていることにほんの少し自信が持てた。天草で小林さんに出会えたことも、日本一周の忘れ得ぬ思い出の一つである。小林さん、ありがとうございました!

 小林さんに見送られEAT730を出るとすぐ、天草屈指の名所、崎津天主堂が見えてきた。天主堂とはカトリックの教会のことだ。一見してすぐわかる。背の低い建物が並ぶ入り江の鄙びた漁村の真ん中、何でこんなところにと思うようなところに、いきなりゴシック風の尖塔が立っているのだ。
 さっき書いたとおり、天草は日本で早くからキリスト教が広まった場所である。その関係で天草にはキリスト教徒が多く、明治以降には教会も数多く建てられることになった。ここ崎津の天主堂もその一つで、昭和10年に建てられて以来、今でもカトリックの教会として、地元の信仰の拠点となっている。
 見学しようと中に入った。基本的にキリスト教の教会は出入り自由なので、入り口に鍵はかかっていない。床は畳敷きで、その上にパイプ椅子が何脚も並べられていた。教会なのに畳敷きであることが、教会と信仰の歴史を感じさせる。
 平日の午後だったので、中は誰もおらず静まりかえっている。信徒たちは、今頃仕事に精を出しているのだろう。正面には祭壇があり、聖人像、キリスト像、聖母像などが飾られてある。上を見上げると曲線を複雑に組み合わせた天井が美しい。キリスト教の信仰はない荒井だが、不思議と敬虔な気持ちになった。

大江天主堂
大江天主堂。飾り気のない簡素な作りが崎津天主堂と好対照をなす。

 次に寄ったのは大江天主堂、崎津天主堂とともに天草を代表する教会だ。丘の上に建つ真っ白な教会で、晴れた日にはいい絵になることだろう。教会そのものは明治期に創設されたものだが、現在の建物は昭和8年、明治から昭和にかけ、大江を拠点に伝道にあたったガルニエ神父が私財をなげうって建てたものだ。かつては北原白秋や与謝野鉄幹といった詩人たちもこの地を訪れ、大いに詩情を掻き立てられたそうな。
 丘のふもとには資料館がある。見学しようと様子を見てみたら、年に一度の館内燻蒸のため中に入れなかった。

 下島の北に回り込むと、対岸にある長崎の島原が見えた。このくもり空でも見えるのだから、そう遠くはないようだ。海岸には普賢岳から飛んできたという奇岩がいくつも転がっている。通称「おっぱい岩」。女性の乳房みたいな形で、ご丁寧に先っちょまで付いている。だからこの名があるようで、なでさすると母乳の出がよくなるとか、胸が大きくなるとか言われているが、荒井がジョルジュ長岡(注2)ばりに「おっぱい!おっぱい!」とやったかどうかは定かでない。

 本渡に戻ってくると、いつの間にか小糠雨になっていた。今日はどこかの軒先にテントを張ることにしようと、島を横断する県道27号線を西に向かう。心細くなるような曲がりくねった狭い山道を抜けた先に、テントを張るのによさそうな公園が見つかった。一安心したところで風呂に入ろうと、さらに少し西、下田温泉まで足を伸ばした。
 下田温泉の立ち寄り湯「白鷺館」で一息つく。立ち寄り湯の名前は傷を負った白鷺がこの湯で傷を癒したという開湯伝説にちなんでいる。雨の中を走っただけに、ありがたさもひとしおだ。
 ここの大浴場にある、異物混入の注意書きが実に洒落ていた。

 「この大浴場や露天風呂は虫さんや葉っぱさんも大好きで、時々入りにきます。浴室の窓は網戸のあるところ以外開けないでください。また入っている虫さんや葉っぱさんが気になるようでしたら外に逃がしてください。」

 温泉は海に近い場所にある。露天風呂の壁を見ればさっそくフナムシが遊びに来ていた。

 併設の食堂「ラウンジ椿」でビーフカレーの夕食を済ませ、さっき下見しておいた公園に戻った。雨がしのげて人目に付かない場所を選んでテントを張る。雨の日でも軒先にテントが張れるとかなり気が楽である。

切支丹の島

天草切支丹館
天草切支丹館。学芸員さんによる解説の名調子も見所。写真は小冊子から。

 朝になってもまだ雨が降っていた。軒下にテントを張っておいて助かった。いつもどおり撤収して出発する。本渡市のコンビニでいつもどおりサンドイッチとオレンジジュースの朝食の後、雨宿りがてら市役所で新聞を読んでいるうち九時になった。

 今日は天草の資料館をあれこれ見てくる予定だ。まずは本渡市の切支丹館に寄った。
 切支丹館は正面から見ると三角形の形をしており、そこにでかでかと十字架があしらわれている。入ってまず目を奪われたのは天草四郎の絵だ。しがらみやそんな一切を超越したかのような優しげな眼差しと微笑みで、四郎が天から天草の島々を見守っているという絵で、美少年四郎の面立ちは、男の荒井が見ても惚れ惚れする美しさだ。この絵を見るだけでも、ここを見学する価値がある。作者は美人画で知られる鶴田一郎氏だ。鶴田氏は本渡市の出身で、その縁で市の依頼を受けこの絵を描いたらしい。
 天草は日本でも早くにキリスト教が広まったところだが、それゆえ数々の辛酸を嘗めることになった。江戸時代の切支丹弾圧だ。キリスト教は幕府の支配体制を揺るがすものとして江戸期には信仰が禁じられ、見つかれば厳しく罰せられることになった。海外に追放されたり、処刑される者もいた。しかしそれでも神を信ずる意志は固く、信徒たちは人目を忍びつつ、発覚におびえつつ、信仰を守っていった。いわゆる隠れ切支丹だ。
 館内には信徒たちが寄る辺としたマリア観音やロザリオ、信徒を暴くために使われた踏み絵なども展示されている。圧巻は島原の乱で一揆軍が掲げた陣中旗だ。天草四郎を指導者とする一揆軍はこの御旗のもとに戦い、滅んでいったのだ。
 歴史の教科書で写真などは見ていたが、さすがに現物は存在感がある。長年にわたり幾多の人々が、これらに祈りを捧げてきたのだ。小さな像やロザリオでさえ、そこに秘められた歴史の重みや思いの深さは計り知れない。どれもが隠れ切支丹命がけの信仰を語るもので、見応えがあった。

 次に昨日見そびれた大江天主堂併設の資料館、「天草ロザリオ館」を見学した。こちらは隠れ切支丹の信仰の様子を紹介する展示が中心だ。
 隠れ切支丹は信仰を隠しとおすため、ありとあらゆる手段をとった。もちろん大っぴらに教会を建ててキリスト像に祈るなんてことはできない。そこでマリア観音や十字架の意匠を隠した仏像を拝んだ。マリア観音はもともと聖母マリアを象ったものではなく、子安観音像を聖母に見立てたものだ。他には十字型に並べた六文銭や、十字に編み込まれた俵の蓋まで拝んでいた。そんなものまで信仰の対象にしていたのだ。
 特に涙ぐましいのは葬式だ。普段は寺の檀家を装っているから、死んだら仏式の弔いをすることになる。ところがそれでは天国に行けないというので、「経消し」ということをした。僧侶がお経を唱えている間、仲間の切支丹が天井裏に隠れてまじないの言葉を唱え、お経を壷に閉じこめて打ち消すというものだ。もはやここまでくるとキリスト教ではないような気もするが、隠れ切支丹はそこまでして信仰を守りとおしたのだ。
 幕末になって列強の勢力が日本に伸びてくると、キリスト教の神父たちも再び日本にやってきた。そして間もなく隠れ切支丹と出会うことになる。東洋の島国に、永年にわたり密かに信仰を守りとおした人々がいることは驚きと感激をもって迎えられ、時の教皇をして「東洋の奇跡」と言わしめている。明治になって禁制が解かれると、隠れ切支丹の人々は信仰を隠す必要もなくなった。信徒の多くはカトリックに復帰し、今に至っている。
 天草のキリスト教徒の方々は、そうして300年近く信仰を守った人々の末裔だ。崎津や大江の集落は、もともと隠れ切支丹の里である。だからその歴史は筋金入りである。信徒の方にそこまでさせたものはいったいなんだったのか。信ずる意志というものに、恐ろしささえ感じた。

 ロザリオ館の隣には玩具資料館が建っているので、こちらも見学した。こちらは隠れ切支丹とは関係なく、町内の蒐集家が寄贈した全国の民芸玩具を展示している。荒井の地元、東北地方のこけしも並べられていた。米沢名産笹野一刀彫のお鷹ぽっぽまである。これら玩具は、今となってはみやげ屋でしか見かけないが、本来は願掛けなど意味があって作られた、生活に身近なものだったのだろう。

千厳山から見る松島と前島橋
千厳山から松島方面を見る。天草の多島美が一望の下に。

 コンビニでサバ弁当の昼食にしてから、ループ橋を渡って下島を出た。上島から大矢野島に戻る前に、千厳山(せんがんざん)に登った。山頂近くの駐車場までは車で行けるが、そこから先は2〜300メートルほど歩かなければならない。
 標高166メートルの山頂からは、島々がすばらしくよく見えた。陸地はちぎって散らしたように海に浮かび、そこに橋が架け渡されている。下に見える島は「松島」と呼ばれているが、その眺めは日本三景陸前松島にひけをとらない。
 ただし、山頂の展望台の落書きの多さには閉口した。周囲の岩にはここに来た記念か、至る所に名前が刻み込まれて著しく美観を損ねている。訪れた証を残したつもりなのだろうが、残っているのは恥だけだ。

 最後に大矢野町(現上天草市)の天草四郎メモリアルホールに寄った。天草四郎を偲ぶ展示が中心の、文字通りのメモリアルホールだ。
 天草の人々にとって、四郎や隠れ切支丹は非常に身近な存在だろう。先祖代々切支丹という方だっているはずだ。そうした方々は、学校で隠れ切支丹の歴史を学んだとき、どんなことを思ったのだろう。
 神社は全国津々浦々にあると思っていたが、沖縄では御嶽の方が圧倒的に多かった。天草には300年の信仰に裏打ちされた天主堂がある。日本という国を廻ってみると、単一の民族が単一の文化のもと暮らしているということが、全くの幻想であるとつくづく思う。

熊本県庁 県庁食堂の豚ステーキ&八宝菜セット
再上陸後初の県庁となった熊本県庁。さっそく県庁食堂で舌鼓。

 天草を出ると、県庁所在地の熊本市まではすぐである。熊本城を下見して、さっそく県庁に向かった。県庁巡りも本格的に再開だ。だいぶ陽が暮れていたので、食堂は開いていないだろうと行ってみると、なんとまだ開いていた。どうやら残業の職員のため、夕食を出しているらしい。そういうわけで、日替わりのステーキ&八宝菜セットで夕食にした。これからステーキを焼くから時間がかかるよということで、席に座って待つことになった。
 夕方なので利用客は少ない。余裕があったのか、待っている間レジのおばちゃんにあれこれ訊ねられた。「山形から? 熊本はぬくくて大変でしょう?」。熊本は確かに山形よりも暖かい。しかし夏の八重山の日差しを知る荒井、熊本の暑さははるかに凌ぎやすい。
 定食はおろし大根のかかった豚ロースのステーキに八宝菜、ポテトサラダ、油揚げと豆腐の味噌汁、オレンジ一切れと、500円なのになかなか豪華な一品だった。山形からの珍客ということでご飯の盛りもおまけしてくれた。ご飯は熊本産の「森のくまさん」。米どころ山形育ちの荒井も納得の味だ。おばちゃんやコックさんのご厚意に、すっかり満足して県庁を出た。

 この日は郊外のネットカフェに籠もることにした。深夜料金になる十一時まで、ショッピングセンターやリサイクル本屋で時間をつぶす。毎度ネットカフェで夜を明かす時は、深夜料金の時間になるまで、どこかで時間つぶしをすることになる。


脚註

注1・「EAT730」:ナザレとはイエス・キリスト生誕の地とされるエルサレムの街。崎津天主堂のそばということで、教会にちなんだのだと思われる。その後知ったことによると、店の電話番号が「0730」だったことにもちなんだそうな。

注2・「ジョルジュ長岡」:アスキーアートキャラの一つ。おっぱい八段範士。勢いよく左手を振りつつ「おっぱい!おっぱい!」と連呼する無類のおっぱい好き。

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  ( ゚∀゚)彡 おっぱい!おっぱい!
  (  ⊂彡
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   し ⌒J

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