神楽の里と平家の里

 もてなし用に部屋に置いてあった和菓子「たぬき」と、昨日ハーレー乗りのご夫妻にいただいた草餅で朝食にする。草餅は昨日食べたかったのだが、だご汁定食で腹一杯になってしまったため持ち越しとなった。おかげで少し固くなっていた。
 今日は波野村で月一度の神楽があるので遠くへは行けない。宿を引き払ったのは九時近くだった。

 神楽が始まるのは午後からだ。その前に三好達治で有名な草千里でも見物しようかと、DJEBELを走らせた。
 昨日も走った国道325号線でカルデラの南に回り込み、途中で山を越えてカルデラを縦断する県道に乗り換える。登るにつれて草が目立ってきた。

阿蘇山中岳遊歩道の待避壕
中岳の待避壕。阿蘇が活火山であることを思い知る。

 ついでだったので中岳を見物した。中岳はカルデラ中央にある主峰、阿蘇五岳の一つで、今なお盛んに煙を上げる火口は阿蘇観光の大きな目玉だ。県道からは有料道路が伸びているので、車でも間近に行けるようになっている。索道も開通しているので、こちらを利用することもできる。
 駐車場にDJEBELを停め、歩いて火口の方に行ってみる。山の上なのでガスがかかっていたが、じきにところどころ晴れてきて、周りが見えるようになってきた。「今日は昨日よりいいよ〜。雨もないしガスも途切れるから。」とは、駐車場整理にあたっていたおばちゃんの弁だ。
 周囲はもはや草もない。荒れた地肌が目立ち、赤茶けた岩がゴロゴロしている。こんなところにも露店があって、山で採れた硫黄を売っている。美肌や虫除けに効くらしい。
 遊歩道は火口を見下ろすように切られてある。火口の内側は深い崖で、火山性のガスかなにかで白く変色している。底は火口湖で、黄緑色の水が湯気を上げていた。
 今でも火口からは硫黄ガスが吹き上がっているため、心臓や呼吸器を患う方は立ち入り禁止になっている。有料道路の入り口には「心臓疾患の方は見学できません」といった旨のものものしい看板まである。そうでなくとも、硫黄ガスが遊歩道の方まで漂ってくることがあるので、風向きによっては、火口付近は立ち入り禁止になる。火口は何台もの無人カメラやセンサーで常に監視され、遊歩道の至る所にはコンクリート製の待避壕まで設けられてあった。後で阿蘇ライダーハウスのじゃけんさんに伺った話だが、ガスや硫黄ガスに遮られることが多いため、一発で阿蘇の火口湖が見られるというのは、けっこう運がいいことらしい。
 有料道路から再び県道に戻ると、ひどくガスがかかっていた。草千里はあたり一面霧の海と化している。こうもガスがひどいと見物する気にならず、とっとと波野に向かうことにした。

 昼食は波野村の道の駅のざるそばにした。このあたりでも蕎麦が採れるようで、道の駅では蕎麦打ち体験もやっている。山形県民だけに蕎麦にはうるさい荒井だが、九州の蕎麦はなかなかいけた。温泉、食べ物、地理と、やっぱり九州は東北と似ている。
 蕎麦をたぐっているといきなり大雨になった。あわてて勘定を済ませ、DJEBELの振り分けバッグの中のものをゴミ袋でくるむ。ところがにわか雨だったようで、すぐに止んでしまった。

波野村中江神楽殿の舞台
中江神楽殿の舞台。後ろのハリボテは天の岩戸の書き割り。

 神楽の会場、中江神楽殿に着いたのは一時少し前だった。舞台右手に大きな提灯がかけられ、後ろには書き割りが置かれてある。舞台の前は空き地で、そこがそのまま客席になっているのはかけ唄大会と同じである。先客は50人ほど。かぶりつきには立派な一眼レフカメラを三脚に据えて写真愛好家が陣取っている。神楽殿の隣の建物では、舞台の準備か、地元の方々が何かと忙しくしていた。神楽を紹介するポスターには「これは神々のディスコだ!」という謳い文句が躍っている。
 そのうち神楽が始まった。波野村の神楽は日本神話に題材を採ったもので、全部で三十三場面ある。もともとは農閑期の娯楽として村に伝わっていたものらしいが、過疎化によって消えゆく運命だった。ところが何年か前、熊本県立劇場の館長に就任した鈴木健二氏(すずきけんじ・注1)のてこ入れにより存続の道が模索され、今もこうして見物できるというわけだ。月一の定例公演は、その三十三からいくつかを抜粋している。ちなみに全部を通しで舞うと、一昼夜かかるそうな。
 神楽を舞うのは地元の方々だ。神楽というには雅やかでないが、そのかわり力強い舞いが特徴だ。舞台の最中、頻繁に客席の方に下りてくるのは村芝居のようである。また、近所の悪ガキどもが舞台に上がっては提灯の裏からちょこまかと顔を出してみせたり、いちどきは書き割りを倒してしまった。しかしそれでも咎められた気配はない。このおおらかさも村のお神楽ならではなのだろう。

天岩戸神社
高千穂の天岩戸神社。高千穂にある神話がらみの名所のひとつ。

 時間が迫ってきた。途中だったが名残惜しく神楽殿を出発する。山中の県道と国道を乗り継ぎ、県境を越え、宮崎県の高千穂町に出てきた。ここで天岩戸神社にお参りした。
 引きこもってしまった天照大神を、他の神々が知恵を集めて窟から引っぱりだしたという天の岩戸のくだりは、日本神話でも特に知られている。その岩屋を祀ったというのがこの天岩戸神社なのだそうだ。
 神社は例の岩戸の向かいに、川を挟んで建っている。木が多いため境内から岩戸はさっぱり見えない。拝殿の真裏に行けば正面に見えるのだが、そこへ行くには社務所に届け出た上で、面倒な手続きが要るらしい。そんなに見せたらありがたみが失せるということなのだろう。
 そのかわり、神々が集まって相談したという河原を見てきた。神社のすぐ近くに、天照大神が岩戸に籠もった際、神々が集まって天照大神救出作戦を練ったところと伝えられる河原があるのだ。
 河原は峡谷の底にある。岩壁には大きな窟があき昼でも薄暗く、中には賽の河原のごとき石積みが無数に建っていた。神社の聖域というよりは、仏教か修験道の霊場だ。もともと神社は岩に宿る霊を崇拝する、素朴な民俗信仰を始まりとしているのだろう。
 高千穂は天孫降臨の舞台となった場所で、他にも高千穂峡など見所が多い。しかしこれらは素通りして先に行くことにした。

 砂利道県道で国道に戻り、さらに山奥目指して走る。山中の寂しい国道をひた走った末、椎葉村(しいばそん)の中心部に着いた。
 椎葉村が秘境であることは秋野さんからうかがっていた。あたりには山しかない。中心部は川沿いの険しいところで、どの建物も山腹にへばりつくようにして建っていた。「ツーリングマップル」を開いてみると、あたりは未舗装路を示す赤い道路だらけである。もともと村は平家の隠れ里で、村には落ち武者の伝説が残っている。
 秘境の村ではあるのだが、民宿だけはずらりと並んでいる。しかしほとんどは開店休業中だった。山奥だけに前もって予約を入れておかないと、部屋の準備や食べ物の手配などができないのかもしれない。
 「平家の里」という食堂で、いのしし丼の夕食にした。猪肉を使った他人丼だ。山奥らしく、つけあわせにはきのことそばがき入りの味噌汁が付いてきた。
 店のおばさんによれば、椎葉は観光の村なのだそうだ。民宿が多いのはそれゆえだ。今のご時世、秘境であること自体が観光の売りになってしまう。

 村の真ん中であるにもかかわらず、野宿場所はすぐに見つかった。民俗芸能博物館という施設のそばにちょうど人目に付かない場所があったのだ。村の真ん中で国道を見下ろす一角にあるにもかかわらず、一晩中人の通りはなかった。

九州内陸一周

椎葉村中心部
九州の秘境椎葉村の中心部。山腹の狭い土地に建物が並ぶ様は圧巻。

 テントを張った場所が場所だけに早めに出発しなければならない。天気にも恵まれたおかげか、撤収はやたらはかどった。
 民俗芸能博物館は村に伝わる神楽を紹介する施設だ(注2)。村には何かと見所もあったが、開館時刻まで待っている性分でもないので、起きてから一時間後には民俗芸能博物館を後にしていた。
 ひとまずの目的地は、宮崎県南の大都市都城市だ。都城で折り返し、熊本方面に戻ってくるつもりである。

 そこからはひたすら山また山の道が続いた。国道も山道なら県道も山道。おそらくはもともと林道だったところを昇格させたのだろう。民家は全くない。左右には木か崖かという山中を走り続けること約一時間半、里に下りてようやくコンビニを発見して、なんとか朝食にありつけた。サンドイッチにかぶりついていると、地元のおばちゃんがやってきて「山形から来たの!?」と声をかけられた。確かに九州のこんな山奥で、山形ナンバーなんて滅多に見ることもなかろう。

 多良木町で給油の後、再び山道を走る。天気はよかったが、標高の高いところはまだ路面が濡れていて走るのに気を遣った。なにしろ去年三陸ですっころんでえらい目にあっている。前輪が跳ね上げる水でズボンや靴がびしゃびしゃになってしまうのも、毎度ながら頭が痛い。

須木村すきむらんどかじかの湯
すきむらんどのかじかの湯。山間で偶然出会った小さな立ち寄り湯。

 かくして山道を通り抜け、須木村(すきむら・現小林市)に出てきた。役場に寄ってみると、近所の「すきむらんど」に「かじかの湯」という立ち寄り湯があるというので入っていくことにした。
 「かじかの湯」は、村でやっている小さな立ち寄り湯だ。隣にはキャンプ場や山小屋、小さなゴーカート場なんかもある。これが「すきむらんど」らしい。「すきむらんど」とは人を喰った名前だが、入浴料は300円とお手頃である。泉質は覚えていないが、のどかな村らしいこぢんまりとした温泉で居心地は悪くない。旅先では有名温泉よりも、こうした小さな立ち寄り湯の方が利用しやすいので、ちょくちょくお世話になる。
 番台のおばちゃんに山形から来たんですよと言うと、「小泊村は知ってる?」と訊かれた。確か青森県は津軽半島の北の方、権現崎のあるあたりだ。おばちゃんによれば、須木村は小泊村(現中泊町)と姉妹村提携を結んでいるとのことだった。
 休憩室は座敷になっていて、平日の午前中なのにけっこう多くの方々がくつろいでいる。大半は地元にお住まいの方のようだ。片隅で日記を書いていると、壮年のご夫婦に声をかけられた。「山形から? 私たちも東北に行ったことがあるんですよ。」 以前パック旅行で東北に行ってきたが、二泊三日という駆け足の日程だったので、どこを廻ってきたかよく覚えてないんですよと苦笑していた。こんな九州の奥地でも、どこかで東北と縁がある。
 ところで、この「かじかの里」の売店で「愛す栗夢(あいすくりーむ)」というアイスを買って食った。砕いた栗を混ぜ込んだアイスで、村の名物として売り出している。「すきむらんど」同様人を喰ったような名前だが、温泉同様、侮れない逸品である。

 温泉で一息つき、延々と続く山間の峡谷を走り抜けた末、ようやく国道10号線に合流した。朝から長いことDJEBELを走らせていたせいで尻が痛い。コンビニでカルボナーラを買い、休憩がてら昼食にした。ここまで来れば都城はすぐである。
 都城に着いたものの、実は目的は全くない。さしあたり役場だけ見て帰るつもりだったが、その役場で近所に関之尾の瀧という名瀑があることがわかったので、せっかくだからと見物していくことにした。
 関之尾の瀧は、落差は18メートルほどで、原尻の滝と比べて一回り小さいが、勢いよく轟々と流れ落ち、激しく水しぶきを上げる男らしい滝である。上流には甌穴群がある。甌穴といえば西表島のカンピレーの滝で見たような穴を思い出すが、こちらは穴というよりも、岩に穿たれた溝といったもので、どのあたりが穴なのかはちょっと判りづらい。この甌穴には、その昔粗相を恥じて腰元が入水自殺したという伝説が残っているが、甌穴の水深はそれほど深いわけでもなく、いったいどうやって入水したのか気になった。

関之尾の滝
関之尾の滝。都城まで来た甲斐があったというもの。

 関之尾の瀧から県境を越えて鹿児島に入り、霧島を経由してえびの高原を抜けるまでは、高所ならではの気持ちのよい道が続いた。坂本龍馬も新婚旅行でやってきたという霧島神宮にもお参りした。
 えびのからさらに山を越え人吉市に入る。ここで最上川、富士川と並ぶ日本三大急流の一つ、球磨川を見た。
 荒井は地元なので見慣れているせいか、最上川が急流と言われても今ひとつぴんと来なかった。ところが全国には深く淀んで流れているのか判らない川もあれば、さらさらと流れる川もあったりで、水を集めて滔々と流れる川というものが、実は珍しいものであることに気が付いた。日本三大急流は、やっぱり急流だったのだ。

 日は傾きかけていた。このあたりで日程を切りあげてもいいのだが、まだ真っ暗になったわけでもない。そこで今日中に熊本市に戻ろうと、がんばってさらに走ることにした。
 心細くなるような山道国道445号線を北に走る。「五木の子守歌」の五木村で県道25号線に乗り換え、東陽村(現八代市)の中心部に出てくる頃には、相当暗くなっていた。
 ここで「とうよう苑」というよさげな食堂を見つけたので夕食にした。これから熊本市までもう少し走るからと、豪華にステーキ御膳を張り込んだ。鉄板の上でじゅうじゅうと音を上げ油を跳ねるステーキは、景気づけには十分すぎるほどだった。

「とうよう苑」のステーキ御膳
「とうよう苑」のステーキ御膳。景気づけは盛大に喰うに限る。

 この日は山道ばかり走っていた。東北に住んでいると、九州がどういう場所かはよくわからない。ところが実際に走ってみると、その奥深さは東北に引けをとらない。否、東北以上のものがあるかもしれない。ますます九州と東北は似ていると思った。
 全く暗くなった中、熊本市を目指す。国道3号線と国道266号線を乗り継ぎひた走る。途中今日二度目の給油を済ませる。日暮れて道遠し、熊本市はなかなか近づかなかったが、それでも前方に街灯りが見えてきて、標識の距離も次第に減っていった。
 熊本市の国道57号線に出たのは、午後九時を回った頃だった。リサイクル本屋で時間をつぶしてから、こないだも利用したネットカフェに籠もる。
 この日は370キロ走っていた。今日一日で九州の秘境から鹿児島県をかすめ、さらに山を越えて熊本市まで戻ってきたのだ。そのせいか寝づらいネットカフェにもかかわらず、後は机に突っ伏してひたすら寝ていた。


脚註

注1・「鈴木健二」:元NHKアナウンサー。80年代初頭のベストセラー本「気配りのすすめ」の著者として有名。NHK退職後は全国の郷土芸能の保存に力を入れている。

注2・「民俗芸能博物館」:波野村や椎葉村など、九州の内陸には郷土芸能として神楽が残っている場所が多い。

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