朝六時にネットカフェを出た。ネットカフェに籠もる場合、深夜料金で朝までいることになるので、適用外になる早朝には店を出ることになる。近所のコンビニでツナタマサンドと牛乳の朝食を済ませ、道の駅の水飲み場を借りて歯を磨く。身繕いも終わったところで、中津江村(現日田市中津江村)に行ってみようと本格的に走り出した。
中津江村を一躍有名にしたのは、2002年のサッカーワールドカップだ。村はアフリカのカメルーン選手団の宿営地としてその名を全国に知られることになった。選手団の到着が遅れに遅れたことは関係各位のみならず日本中をはらはらさせたし、選手と高校生との練習試合や、村を挙げての壮行会といった交流の数々はほのぼのとした感動を呼んだ。それでどんな場所か荒井も気になったわけである。
中津江村までの道のりは、長くはなかったが険しかった。細い山道とダムを越え、曲がりくねった道を往くことしばらく、ようやく村一番の名所、鯛生金山(たいおきんざん)に着いた。
鯛生金山では佐渡の金山同様、かつて金が掘られていた。掘り尽くしたために閉山されたが、その後観光施設として整備され、坑道見学や砂金採りができるようになっている。村唯一と言ってよい観光施設で、道の駅やキャンプ場も併設されていた。
着いたのは九時前で、めぼしい施設は開いておらず客の姿もない。開いていた建物に入ると、カメルーンを紹介する写真やワールドカップ中の出来事を写した写真、代表ユニフォームなどが展示されていた。食堂入り口の掲示板には「新メニュー カメルーン弁当」なんてビラが貼られてある。立ち食いそばコーナーでは、準備中の店のおばちゃんが、ワールドカップ以来、客が増えたと教えてくれた。今や金山以外にも、村の売りができたようだ。
村役場にも行ってみた。庁舎はそう大きくない。ホールにはカメルーンとの交流を記念したアルバムが置かれてある。交流はその後も続いているようだ。入り口で庁舎の案内図を見ていると、テレビなどですっかり有名になった坂本休村長が不意に村長室から出てきて、目の前を通り過ぎていったので驚いた。
また山道を抜け、そのまま日田市に出てきた。役場に寄ると食堂があったので、ここで昼食にした。何を食べようかひとしきり迷ってから、旨そうだったので日替わりの弁当にする。中身は甘酢あんをかけた鶏の唐揚げに白身魚のフライ、ミートボール、白菜のおひたし、中華風の冷や奴におしんこ、それに味噌汁が付いてきた。これで500円。コンビニ弁当よりもお得である。
役場を出る間際、入り口の黒板の「本日の予定 寒河江市視察団」という文字に目が留まった。寒河江といったら荒井の地元、山形にある街だ。その寒河江の一行が、日田市の役場に来るらしい。いったいここに何を見に来るのだろう。東北から遠く離れた土地で郷土の名前を目にすると、どうも他人事のような気がしない。
阿蘇に戻ろうと、地図で帰り道を調べた。日田からは湯布院まで行って、そこからやまなみハイウェイを利用するのが一番手っ取り早いようだ。途中無人駅で一時間ほど昼寝した以外はまじめに走り、再び湯布院に着いた。
ここでまた岩下コレクションを見ていった。見覚えのある道に見覚えのある建物。二月ほど前「こさ荒木さんのBAJAがあるんだ!」とわくわくしたことを思い出す。荒井のDJEBELも、あれから少しは荒木さんのBAJAに近づけただろうか。
やまなみハイウェイとは、大分県の別府市と熊本県の一の宮町を結ぶ県道11号線こと、別府一の宮線の湯布院町から一の宮町までの区間の愛称だ。その名は九州のみならず全国屈指の名道として旅人の憧れを集めている。
そのやまなみハイウェイは、噂どおりの痛快な道だった。久住山をかすめ、阿蘇外輪山に至るまで、道はひたすら高原の草むらを割って走る。ごみごみした街並みや、ぎらぎらした原色の看板を掲げるコンビニは一つもない。信号もほとんどない。赤信号に邪魔されることもなく、流れゆく草原と走りを心ゆくまで楽しめる。どこまで続くかわからなくなるほど雄大な道を、ただただ無心にDJEBELで駆けた。
阿蘇の外輪山を巡るミルクロードに乗り換え、阿蘇随一の展望台、大観峰からカルデラの内側に下りていく。行く手を見れば外輪山の内側に、心細げにつづら折りの道が一本刻まれてあり、豆粒のような車が張り付くようにして下りている。阿蘇はこれほどまでにデカかったのか。これが天草と同じ県なのか。
自分も豆粒になってつづら折りを下りて行くと、やがて内牧温泉(うちのまきおんせん)が見えてきた。
本日の宿は、この内牧温泉にある阿蘇ライダーハウスだ。この前日にちょうど開業一周年を迎えていた。去年北海道のオートハウスで「阿蘇でライダーハウス始めます!」という開業告知のビラを見て以来、九州に来たらぜひ泊まろうと思っていたのだ。
ライダーハウスというので、オートハウスのようなぼろっちい建物を想像していたのだが、いざ着いてみるとライダーハウスとは思えない、新しく清潔な建物だった。受付しようと玄関をくぐると、眼鏡をかけた管理人さんが出てきて、談話室に案内してくれた。
「ライダーハウスを利用したことはありますか? だったらおわかりですよね。ここはライダーハウスとは思えないぐらいきれいでしょう? これには訳があるんです。」
管理人さんは吉澤さんというが、ここでは吉澤さんのハンドルネームに従い「じゃけん」さんと呼ぶことにする。じゃけんさんはまず、このライダーハウスができた経緯について話し始めた。
もともとじゃけんさんは広島の出身で(注1)、地元広島で旅行関係の仕事をしていた。旅に関わる仕事には大いに満足していたが、会社の枠の中でお客にできることに限界を感じ、2001年、5年ほど勤めた会社を離れ、自分の進むべき道を見極めようと日本一周の旅に出た。
七ヶ月にわたる旅の途中、じゃけんさんは各地で様々な人に出会い、様々なものを見た。旅人との出会いや予期せぬ出来事の数々は、仕事の旅では味わえない魅力だった。北海道ではライダーハウスがあることに感銘を受けた。阿蘇ではカルデラを覆う雄大な雲海にすっかり魅了された。
そして旅を続けるうち、自分が何をしたいのかが見えてきた。北海道や沖縄では旅人向けの安宿が整っていて、旅人に便宜を図っている。しかし全国的にはまだまだ数が少なく、広く一般にその意義が知られているわけでもない。じゃけんさんもこうした宿が全国津々浦々にあればいいのにと思ったそうだ。
人との出会いも旅の大きな魅力だ。旅先では出会った人々に何度もお世話になった。旅人同士の交流は、旅に出なければなかなかできるものではない。自分なりの方法で、こうした旅の魅力を伝えたいという想いは募り、じゃけんさんはついに思い立った。
ライダーハウスを作ろう。場所は自らが日本一周で最も惚れ込んだ土地、阿蘇。こうしてじゃけんさんは大きな夢とともに、故郷広島から単身阿蘇に移住してきたのだ。
「でも急にバイク乗りがたくさん集まって、好き勝手に大騒ぎをするようだったら、地元の皆さんが不安になるでしょう? それだけは避けたかったんです。」
北海道とは違い、内地にライダーハウスの何たるかを知る人はそう多くない。突然旅人宿を始めても、地元住民に受け入れられないおそれがある。事実あの沖縄でさえ、旅人宿が地元民との軋轢の種になったという笑えない話が、多々あるのだ。
じゃけんさんは当初、時間をかけて阿蘇に根を下ろし、地元の理解を得た上でライダーハウスを作ろうと考えていた。まず手始めに行政の理解を得ようと、計画書を阿蘇町(現阿蘇市)の役場に持ち込んだ。
ライダーハウスに泊まりに来る客は、そこを拠点にして動き回るから、町にとっては大事なお客となりうる。その上町が気に入れば、全国に散らばってそのよさを伝えてくれる。ライダーハウスはその土地の魅力を伝える手助けにもなるのだ。
これがじゃけんさんも予期しない奇跡の始まりだった。その観点が評価され、町内で町興しに力を入れる、内牧温泉の民宿経営者を紹介されたのだ。
内牧温泉は阿蘇でも歴史のある温泉地だ。かつては夏目漱石や与謝野晶子といった文人たちも訪れたことがある。往時は大いに賑わっていたが、現在は他の地方の町同様、衰退に悩まされていた。
旅人たちと地元阿蘇の仲立ちとなるライダーハウスを作りたい。じゃけんさんが民宿のご主人に自分の計画を話すと、「何もしなければ町は何も変わらない。だったら今すぐやろう!」と賛意を示してくれたばかりか、なんと民宿の一棟をライダーハウス用に提供してくれることになったのだ。かくて予想以上の早さで計画は進み、じゃけんさんが阿蘇にやってきてからほどなく、阿蘇ライダーハウス開業の運びとなった(注2)。
「でも、このライダーハウスを作るのは並大抵のことではありませんでした。ここがきれいなのは本当に例外中の例外なんです。だからまず、初めてここを利用する方には、長くなってしまうんですけど、このライダーハウスができた経緯とその趣旨をお話して、納得していただいた上で泊まっていただくことにしてるんですよ。」
じゃけんさんがライダーハウスの運営で特にこだわっているのは、訪れる全ての旅人がくつろげる場所にすることと、地元密着型の施設にすることだ。ライダーハウスだから、当然利用客はルールを守るよう求められる。それは利用者どうしがお互いに気持ちよく過ごすための決まりでもあり、阿蘇の人々の共感を得るための決まりでもある。また、じゃけんさんはライダーハウスの管理人だが、昼間は町内で別の仕事をして生計を立てているし、阿蘇や内牧の紹介にも積極的だ。何より阿蘇に溶け込む努力を惜しまない。
「やっぱりその土地で暮らす人が、もうけ抜きで心意気で自分の家に泊めるというのが、ライダーハウスだと思うんですよ。ゆくゆくはこうした宿が欲しいと共感した方々が全国各地でライダーハウスを作ってくれるのが望ましいんですけど、そのためにも、ここでちゃんとした施設を作る必要があると思ったんですよ。」
じゃけんさん自ら「長い!」と認める受付の説明は15分ほどかかったが、その理念と熱意に非常に感激し、長いと感じなかった。こうした高い志に支えられて、阿蘇ライダーハウスは運営されているのだ。川瀬食堂のおばちゃんが阿蘇ライダーハウスを紹介してくれたのは、じゃけんさんの努力が認められているからこそだろう。
こうして受付を済ませ、部屋に荷物を置くと、夕食を食べに川瀬食堂に行った。まただご汁定食を頼んだが、この日は高菜飯だけ食べきれず、余った分はおにぎりにしてもらって持ち帰った。
この日ライダーハウスには、休みを利用して栃木県の佐野市から一気走りでここまでやってきたという消防士さんと、「ツーリングGO!GO!」(注3)で紹介されたこともあるという若い自転車乗りの一団が来ていた。夜になれば誰ともなく談話室に集まりだす。そして阿蘇に来た旅人どうし、旅の話で盛り上がるのだ。
注1・「広島出身」:「じゃけん」とはもともと広島弁の語尾。
注2・「阿蘇ライダーハウス」:2007年3月より、内牧商店街の一軒家に移転予定。その主旨は本文にあるとおり。
注3・「ツーリングGO!GO!」:三栄書房のツーリング情報誌。おすすめの道路や全国各地の名産品、行事予定、読者の旅報告記事などなど、単車旅や自転車旅の情報が載っている。アポロ出版の「ジパングツーリング」と並んで、単車旅人には知られている雑誌。