屋根の下なので起きるのは遅かった。皆が起きだした頃、泊まり客全員で記念写真を撮った。ライダーハウス毎朝の恒例行事、ライダー図鑑用の写真撮影だ。撮影後、目的地目指して出て行く旅人もいれば、連泊するため部屋に戻る旅人もいる。これから関東に戻るという消防士さんを見送ると、十時近くになっていた。
荒井はしばらく、ライダーハウスを拠点に熊本を見て回る予定だ。まずはその手始めに、後まわしにしていた熊本城見学に出かけた。
熊本市は予想以上の大都市だった。まず、街中を路面電車が走っている。県庁所在地だけあって、銀行や大企業の建物も建ち並んでいる。そして行き交う車の多いこと。渋滞もあたりまえで、もしかすると東京よりも渋滞しているんでなかろうか。旧い城下町ならではの、入り組んでわかりづらい道も拍車をかけている。車の流れをかきわけ、わかりづらい道をさかのぼるように走っていると、路面電車の軌道の向こう、建物の林を伐り拓くようにして、緑の小山が現れた。熊本城だ。
熊本城は街の真ん中にある。周囲を走ってみると、苔むした石垣と掘がひときわ目立つ。近場にDJEBELを停め、重文のやぐらを横目に、天守閣目指して歩き出す。入り組んだ城郭を曲がり、いくつもの石段を登った。こうした作りが外敵の侵入に備えてのものだということは、松本城で知っている。城塞としては堅固だったようで、西南戦争では五十日もの籠城戦に耐え、ついに落城しなかったという話が残っている。そういやどこかのゲームにも、熊本城決戦なんてのがあったような。ともあれ、現在は公園として一般の見学に供されており、一角には県の美術館も建っている。
市内は暑く、本丸に着く頃にはすっかり汗だくだった。天守閣を見物する前に、売店でアイスを食って一息ついた。
城は江戸時代の初め、名将加藤清正公が建てたものだ。江戸時代になると、改易された加藤氏に代わって、細川氏が城の主となった。今ある天守閣は昭和に再建されたもので、清正公が建てた天守閣は、明治の西南戦争で消失している。再建された城ではよくあるとおりで、中は城の歴史や細川藩の文化を紹介する歴史博物館になっている。だから天守閣の中の様子はあまり覚えていない。さっきの売店で熊本名物いきなりだごを買い食いして、城見物を締めくくった。
熊本市役所の展望レストランで昼食にした。市役所は城のはす向かいである。レストランは最上階なので、窓からは熊本城が目の前だった。ちなみに食ったのはスペシャルランチセットという品で、ステーキに味噌汁とご飯が付いてきた。
外に出て駐輪場に戻ろうとした途端、雨が激しく降ってきた。近くのアーケード街に逃げ込む。不意打ちのような雨に、街行く人もみんな駆け足である。てきとうな軒先で雨が弱まるのを待っていると、市の自転車指導員のおじいさん二人組が話しかけてきた。アーケード街での駐輪指導も、突然の雨に一休みといったところだ。
「山形から? それはずいぶん遠くから来たねぇ。」 一人は定年後車で西日本の方々に出かけ、もう一人は昔新聞配達の仕事でバイクに乗っていたという方で、山形から来た単車乗りの旅人には、何かと思うところあったらしい。雨宿りがてら、配達用のバイクで転んで転倒に気をつけるようになったとか、転ぶと積み荷が崩れるから積み方に苦心したなど、あれこれ面白いお話をうかがった。こういう雨も悪くない。
にわか雨が止んでからも熊本市内を走り廻り、阿蘇に戻ったのは六時前だった。ライダーハウスに着いてから、隣の温泉民宿「阿蘇の湯」で風呂に入る。「阿蘇の湯」は件のご主人がやっている民宿で、ライダーハウスはこの「阿蘇の湯」の別館を借りて運営されている。そういうわけでライダーハウス利用者は、大浴場に通常料金の100円引きで入れるのがありがたい。夕食は近所のコンビニ「ローソン」で、牛肉&塩焼きそばセットとオレンジジュースを買ってきて簡単に済ませた。
この日はもう一つ、驚きの出会いが待っていた。「またお会いしましたね!」 なんと薬研と波照間のフェリーで一緒になった自転車乗りの旅野正人さんが来ていたのだ。八重山を出て以来全く別々に旅していたのだが、阿蘇でまた再開を果たした偶然にお互い驚いた。日本一周をしていると、こうした偶然が本当にたびたび起こる。
夜になり、皆で旅野さん提供の八重泉を飲んで盛り上がる。肴は荒井がまつや旅館のオバーさんからいただいた波照間産黒糖だ。「まさか阿蘇で八重山気分が味わえるとはなぁ〜。」と黒糖をかじりつつ、じゃけんさんもしみじみ八重泉を味わっていた。旅野さん、八重泉ごちそうさまでした!
「内牧には11の町湯があって、それぞれ源泉が違うんですよ!」
ライダーハウス受付の折、じゃけんさんは手作りの内牧見どころ地図を指し示しながら教えてくれた。歩いて廻れる範囲にこれだけ共同湯があって、しかも全部源泉が違うというのなら、廻らない手はない。この日は町湯巡りをすることにした。
全部で11ある共同湯のうち、そのひとつ「入船」は改装につき休館中だった。残るは十ヶ所だ。
タオルを首に巻き、じゃけんさんからいただいた案内図を片手に、朝十時にライダーハウスを出発する。ライダーハウスそばの天満宮で前途の無事をお願いしておく。財布の小銭も確かめておいた。町湯は基本的に無人なので、入浴料の釣り銭が出ない。だから釣り銭がいらないよう、あらかじめ小銭を多めに準備しておくのだ。
まずは景気づけ、朝食がわり、町のお菓子屋さん「味幸(みゆき)」で、クッキーシューとソフトクッキーを食べた。クッキーシューは注文すると、その場で皮にクリームを詰めて売ってくれる。皮のさっくりした食感とこくのあるクリームの味が絶妙な、じゃけんさん一推しのお菓子だ。ソフトクッキーは干しぶどうと木の実が入った柔らかめのクッキーで、生地に混ぜ込んだコーンフレークが、歯触りに変化を付けている。
町湯巡りの皮切りは、その名も「一番風呂」だ。本当は「ライダーハウスさ近いどごがら入ってぐべ。」と、別の町湯を目指していたのだが、道を間違えここに来てしまった。第一湯が「一番風呂」になったのも、何かの縁だろう。
「一番風呂」は国道212号線沿いにある。内牧の町湯では一番大きい。荒井がちょくちょく利用するような新しめの立ち寄り湯で、風呂場は明るく大きめだ。泡風呂、ジェットバス、電気風呂などの浴槽があるが、混雑時でなかったからか、動いていたのは泡風呂だけだった。設備が整っている分、入浴料は町湯の中では一番高くて500円。そのためか、入っているのは荒井だけだった。
二番目の「薬師温泉」は、白壁の落ち着いた木造建築が印象的な町湯だ。浴室は六畳ほどの広さで、その半分が浴槽になっていて、端っこに申し訳程度に洗い場がある。洗い場といっても洗面器があるぐらいのもので、石鹸やシャンプーといったものは置いていない。もともと町の方々の風呂場なので、保養施設のように何から何までそろっているわけでもない。一部例外を除き、内牧の町湯はこんなかんじである。
三番目は薬師温泉のすぐ隣り、「新穂湯」だ。入浴料はなんと100円。まずは裏の家で大工仕事をしていたおじさんに代金を支払う。おじさんの家が湯の管理にあたっているようだ。浴室は明かり採りがよく非常に明るい。しかも安いためか、2、3人の先客がいた。隣の薬師温泉が200円なので、さらに安いこちらに流れてくるらしい。壁の注意書きには「入れ歯を洗わないでください」とあった。誰か洗った方でもいるんだろうか。
立て続けに三つの町湯をはしごしたところで、少し体を冷やそうと、新穂湯の隣にある造り酒屋さん「大津酒造」に寄った。熊本の酒と言えば焼酎だが、その中でも日本酒を仕込んでいるという、珍しい造り酒屋さんである。
中に入ると店のおばさんが出てきて、ご自慢の酒「神の杉」の試飲をすすめてくれた。歩きなので遠慮なくご馳走にあずかる。すっきりした味の「杉」、やや辛口でこくのある「神の杉原酒」。最近売り出し中の純米焼酎「福の神」は、すっきりした泡盛といった味わいだ。
「熊本は日本酒が仕込める南限なんですよ。」 日本酒は麹菌で米の澱粉を糖分に変え、それを酵母でアルコールに変えることで醸している。ところ日本酒の酵母は、温度が上がると活動が鈍るので、暖かい南の方では仕込めない。九州で焼酎が作られているのはそういうことである。奄美の黒糖焼酎、沖縄の泡盛もしかり。その土地に適した酒を造っているのだ。そういや駿河の英君酒造のサイトでは、冬になると「今年の冬は寒いといいな。」と言っている。熊本でも阿蘇のあたりは冬になると冷えるので、いい日本酒が仕込めるというわけだ。
「この近くに『福の神』の由来になったお地蔵さんがあるから、見に行くといいですよ。」と送り出してもらったので、そのお地蔵さんを拝みに行くと、いきなり雨が降ってきた。手近な軒先に避難すると、たまたまそこに自販機があったので、アクエリアスを買って飲みつつ、雨が止むのを待つ。車に乗った観光客の方が寄ってきて「大観峰はどこですか?」と訊ねてきたので、自分が通ってきた道を答えておいた。これからあの外輪山を、豆粒のようになって登っていくのだろう。
雨が止んだので、再び歩き出す。件の福の神地蔵は、内牧のはずれの方にあった。俵に座って、手にした富くじを勘定しているという変わった地蔵像である。なんでも長年地中に埋もれていたのを、地元の方がたまたま掘り起こしたので祀ったら、ほどなく宝くじで大当たりしたそうで、以来宝くじに御利益のあるお地蔵さんとの噂が広まった。お参りしたら当たったという評判が評判を呼び、今では内牧温泉のちょっとした名所となっている。富くじにでも当たったのか、お地蔵さんはにこやかな愛らしい笑顔を浮かべている。一応旅の無事と、開運をお願いしておいた。
街中に戻る途中、「森本かしわ店」で唐揚げを買い食いした。衣にパン粉が混ざっているのでさっくりしている。それと近所の「渡辺まんじゅう店」でいきなりだごも買って食べた。こちらのいきなりだごは手作りのようで、昨日熊本城で食べたのよりしっとりして格段に旨い。これらの店は、どちらもじゃけんさんから教えていただいたものだ。このあたりには面白い食べ物を売る店が多い。
十分休んだところで、町湯巡りの再開だ。四番目の「大阿蘇」は開削に手間取り、ならば神頼みだと阿蘇山頂の神社に祈願したところ、見事に源泉を掘り当てたという逸話があって、風呂の名前はそれにちなんでいる。入り口には番台があったが管理人は座っておらず、代わりに料金箱が置かれてある。それをいいことに、ちゃっかり只で入ろうとする輩でもいるのか、目の前には「ビデオに撮ってます。見たかったらどうぞ。」という、妙に怖いが笑える看板が添えられてあった。料金は100円。100円ケチってさらし者になるのはいかにもカッコ悪い。
休み休みとはいえ、さすがにはしご湯は疲れる。昼食のため「商(あきない・注1)」という店に寄った。「商」は内牧温泉街活性化のため、地元の商店主の方々が経営者となって作られた店で、軽い食事が摂れる。
店に入ると「おや、いらっしゃい!」とじゃけんさんが出迎えてくれた。じゃけんさんはライダーハウスの管理人だが、昼はこんな具合に町興しの仕事をしている。「商」では店長として運営を任されていた。地元特産の黒牛・赤牛の肉を使った牛丼がおすすめですよということで、黒牛丼を食べることにした。
「商」では食事も出しているのだが、もともと町興しの拠点として作られた店なので、それ以外にもいろいろなことをやっている。自転車の貸し出しをしていたり、観光案内をしていたり、インターネットも利用できたり、ときには催し物も開かれる。じゃけんさんは冗談交じりに「いったい何屋だかわかりません。」と店を紹介していた。
牛丼というと、吉野家で出してるような、飯に牛肉の煮込みを載っけたものを想像するのだが、ここの牛丼は煮込みではなく、牛肉と玉ねぎの炒め物が載っかっている。柔らかい牛肉に濃いめの味付けがご飯とよく合って箸が進む。隠し味に針生姜が混ざっているところも憎い。ついでにライダーハウス利用者へのおまけとして、カルピス一杯が付いてきた。
店の中にいるうちに、雨がやたらと降ってきた。九州は梅雨の真っ最中で、毎日空模様も気まぐれだ。雨が止んだ頃を見計らい、ごちそうさまと言って再び外に出た。
町湯巡りの五番目は「七福」だ。温泉街を流れる黒川のほとりにある。町湯の中では一番熱く、少し入っただけですっかり茹でダコになった。
このあたりで雑事も済ませておこう。映画「黄泉がえり」のロケ地になったという川縁をぶらつきながら郵便局に行き、小包用の箱を買った。広島で一度荷物を送り返して以来、各地でもらった小冊子が溜まりに溜まっている。沖縄県庁でもらった日本地図パズルも手元に置いたままだ。それに旅日記もずいぶん増えた。旅日記は金銭以上に貴重なものなので、とっとと安全なところに置いておきたい。これからは暑くなるだろうから、羽毛の寝袋も必要ないだろう。再び「味幸」でシュークリームとチーズケーキを食ってからライダーハウスに戻ると、溜まった荷物と一部装備を箱に詰め込み、郵便局から山形の実家に送りつけた。
懸案を片付けて一安心したところで、残る町湯も片付けてしまわねばならない。六番目の「宝湯」は、郵便局隣の料理屋「がね政」の中にある変わった温泉だ。料理屋のカウンターで料金を払ってから湯船につかる。露天風呂も併設で、内湯と二倍楽しめる。
七番目「親和苑」は民宿併設の趣ある露天風呂である。待合室の炉には炭火が注がれ、鋳物のやかんで沸かした茶を飲むこともできる。最近知名度を上げている黒川温泉を監修した方が手がけたという話に納得した。
八番目「田町温泉」は内牧を代表する町湯だ。民家の建ち並ぶ路地裏で、昔ながらの温泉銭湯といった雰囲気を漂わせている。目立たないところにあるのだが、中は地元の方々で賑わっている。浴室には源泉が注ぎ込む上湯と、そこから湯をもらっている下湯の二つの湯舟がある。入る時は下湯から入って上湯に移る。
九番目「おふろやさん」は名前がいい。酒屋さんの中にある温泉で、入る時はお店の方に料金を払う。町湯の中ではけっこう大きい方で、シャワーやサウナもあったりする。
十番目はライダーハウスと縁の深い「阿蘇の湯」だ。こちらは昨日入ったということで、この日は割愛した。これに休業中の「入船」を合わせて、全部で11になるわけだ。
内牧温泉の町湯を全て廻り終え、頭はくらくらだった。温泉もこれだけ続けて入ると、疲れてしまうものらしい。しかしそれだけに「全部入ったぞ!」という達成感はひとしおだった。もちろん日本一周で一日にもっとも多くの風呂に入ったのはこの日、内牧温泉となった。
夕食は町一番のラーメン屋という、「彦しゃん」のラーメンにした。塩風味のあっさりしたとんこつラーメンで、細目の麺を使っている。そして帰り道、町にあるもう一軒の唐揚げ屋「永富食品センター」で、唐揚げを買い食いした。ここの唐揚げも衣にパン粉が混ざっている。このあたり独特の作り方らしい。前職では毎日のように唐揚げを作っていた荒井でも、こうした唐揚げは阿蘇に来るまで全く知らなかった。
内牧の温泉街は、一見どこにでもある寂れた町だが、自分の足で歩いてみると見所満載で、一日だけとか、一回来たぐらいでは味わい尽くせないほど面白い。見過ごしてしまうような場所も改めて見てみると、驚いてしまうような宝で満ちている。そしてさらに注目するべきなのは、それが基本的に地元の方々御用達のもので、飽くまで地元に根ざしたものであるということだ。
全国各地で中心街の衰退が叫ばれている。中心街には魅力がないと地元の人間は言う。しかし内牧温泉しかり、瀬戸田のしおまち商店街しかりで、よく見てみれば面白いものがたくさん見つかるのだ。実は内牧温泉は全国各地にある。ただ、それに気付いている人間がいるかいないか、さらなる魅力を産みだそうと思う人間がいるかいないかの違いなのだ。
荒井の地元山形にも、まだまだ見知らぬ宝が埋もれているはずだ。日本一周から戻ったら、とことん山形を見て回りたいと思った。
ところで、その後温泉街ではじゃけんさんたちが発起人となって、「Tomaっとべりーな街」という町巡り企画を始めている。一見何もないように見えるけれど、立ち止まって歩いてみると、魅力的なものがこんなにあるよということで、商店街の店々に協力を仰ぎ、季節代わりで名産品を用意してもらったり、お楽しみ企画をやったりしている。
その日ライダーハウスは大盛況で、7人ほどの来客があった。夜になって談話室のテレビをつけると、ドラマ「Dr.コトー診療所」をやっていた。画面には見覚えのあるセットに港、岬が映っている。物語の筋書きはさておき、「実物以上にきれいに映ってるなぁ。」と、こないだ行ってきたばかりの西の果ての映像に見入っていた。
注1・「商」:残念ながら2003年8月に閉店している。
自転車で長旅をする方も数多いです。荒井は自転車で旅をしたことがないので詳しいことは何も言えませんが、自転車乗りの方々と話をしてみると、徒歩と同じく人力で移動する自転車は、日本の広さのみならず地面の起伏まで身をもって実感できるのが大きな魅力のようです。坂を上るのは大変ですが、その分下りの爽快感は、自転車でなければ味わえないものの一つでしょう。また自転車を分解して袋に入れて持ち歩く「輪行」という技を使えば、乗り物を自弁しながら電車やバスを利用することさえ可能です。
旅用の自転車としては、マウンテンバイク、ランドナー、スポルティーフなどがありまして、それぞれに特徴があります(自転車乗りの方々が言うに「凝り出すと単車以上にお金がかかる」そうで)。このあたりは自分の好みと旅のやり方、予算との相談となります。とはいえ中にはママチャリで旅をすることにこだわる剛の者もいます。