通潤橋

通潤橋の放水を上から見る
通潤橋の放水。上から見ると弩迫力。

 この日は矢部町(現山都町)にある通潤橋(つうじゅんきょう)を見に行った。買い置きのカップ焼そばで朝食にして、朝八時にライダーハウスを出発した。
 目的地矢部町までは、阿蘇町から1時間半ほどの距離である。給油のため内牧のガソリンスタンドに寄ると、「雨が止んでよかったねぇ。」と声をかけられた。くもってこそいるが、ここ数日の大雨は止んでいる。閉じこもってばかりでは、尻に根っこが生えてしまう。
 まずは高森峠で蘇陽町(現山都町)に出る。そこで幣立神宮(へいたてじんぐう)という神社を見つけた。境内の案内看板によれば、天照大神が天の岩戸から出てきたとき、その御霊が鎮座した場所とのことで、天孫降臨とも縁が深いとある。たいそうな由緒を秘めた神社なのだが、はためには山上の人気のない神社である。
 例の看板によれば、水はこの峰を境に東西に分かれ、あまねく世界を巡るのだという。このあたりは大分水嶺に近い。実際、湧水トンネルの高森峠は大分水嶺の峠である。先人はどうやってここが大分水嶺だと知ったのだろう。先人の勘と観察の鋭さには驚くばかりである。

幣立神宮
幣立神宮。境内の巨木の森が歴史の旧さを語っていた。

 目指す通潤橋は矢部町の中心部近くにある。轟川という小川の上、高さ約20メートルほどのところにかかる立派な石橋だ。名所だけあって、橋のそばには道の駅や国民宿舎が建っている。見物客も数多く、団体客を乗せてきたバスも何台か停まっていた。

 通潤橋という名前を持ち出すよりも、「橋の真ん中から派手に水が噴き出る橋。」と言った方がわかりやすいかもしれない。その様子はテレビや雑誌でときどき紹介されている。荒井もその印象が強くて、永らく正式名称は覚えていなかった。その橋が「通潤橋」だとわかったのは、日本一周を決意してからだ。
 もともと通潤橋は、農業用の用水路として作られた水道橋だ。このあたりは谷の上の台地に農地が拓かれているため、慢性的な水不足に悩まされていた。そこで幕末になって、篤志家の庄屋さんが、橋を架けて谷の対岸から水を引っぱってくることを思い立った。
 橋には様々な工夫が盛り込まれた。石の積み方には熊本城の石垣の技術が応用された。地形を上下して水を運ぶための仕組みも考案された。水圧がかかる通水管は、試行錯誤の末、石造りのものを特殊な漆喰でつなげて使うことになった。
 このあたりはいい石材に恵まれたため石工が発達し、至る所に旧い石橋が残っている。通潤橋は言わばその石工の技の粋を集めたもの、と言うこともできる。
 そうして作られた通潤橋は庄屋さんの狙い通り、台地を沃野に変えた。そして今でも、現役の水道橋として使われているのである。

 件の放水は、通水管にたまった土砂を取り除くためのもので、橋に盛り込まれた工夫のひとつである。本来そう頻繁にやる必要はないのだが、その様がちょっとした見物なので、これが見たいという人も多い。そういう方は役場に頼めば一回5000円で放水してくれるのだが、さすがに大きな出費である。そこで観光客向けに、毎週日曜日、正午に無料放水をやっているのだ。荒井はこの無料放水が目当てで、阿蘇から矢部町までやってきたわけである。

 正午まではまだかなり時間があったが、着くとさっそく放水していた。団体客の一団が予約していたのだろう。橋の中央部から滝か水鉄砲のごとく水が噴き出し、轟音をあげて弧を描き、下の川に流れ落ちている。
 現物はやはり迫力が違う。「これが通潤橋が! 現物ば見でるんだよな! 本当に水が噴ぎ出ったぞ!」 テレビや雑誌で何となく知っていた水を噴き出す橋も、今や自分の目の前である。

放水する通潤橋
放水する通潤橋。歓声が轟音に入り交じる。

 周りには遊歩道が整備され、橋の上を歩くこともできる。橋の下には功労者の庄屋さんの像が建っている。橋の上は舗装されておらず欄干もない。飽くまで水道橋なのだ。通潤橋の水は今でも農業に使われているので、水が必要となる皐月の頃や、渇水時には放水も休みとなる。
 橋の両側には放水のからくりを生む貯水池がある。池は橋よりも若干高い位置にある。橋よりも高い場所に水を送れるのは、この二つが地下の通水管でつながっているためだ。橋中央の放水口の栓を抜くと、両側の貯水池から水が橋の方に押し寄せ、勢いよく放水するという仕組みになっている。

 正午が近づいてきた。橋の中央に、係の方らしいおじちゃんがやってきた。おじちゃんが放水口に詰めてある木製の栓を、木槌で叩きながら引っこ抜くと同時に、勢いよく放水が始まった。至るところから歓声が上がる。放水口は全部で三つ、轟川の上流側に一つ、同じく下流側に二つあって、栓も同じ数だけある。
 欄干がないので、橋の上からは放水口の様子が間近に見える。水はしぶきを上げ、想像以上に激しく噴き出している。橋の両側の貯水池に行ってみると、みるみるうちに水位が下がっていた。これだけの早さで水が流れ出しているのだから、あの激しさも納得である。
 噴き出しきって水が細々と落ちるぐらいになると、さっきのおじちゃんが再び放水口に栓をして、放水は仕舞いとなる。その間約15分。言ってしまえば単なる放水風景なのだが、一部始終、ひとときたりとも目が離せなかった。

 放水を二度ばかり見物して、すっかり満足したところで、阿蘇に引き上げてきた。川瀬食堂で昼食にする。今回食べたのはカレーである。肉入りのカレー汁といったもので、それがご飯の上にかかっている。付け合わせは手羽元の煮物ともやし炒め、それに大きな胡瓜の浅漬けと、わかめの酢の物だ。家で作るようなカレーともずいぶん違っていたが、これはこれで旨かった。
 その後近場の本屋で立ち読みをして、コンビニで夕食を仕入れてからライダーハウスに戻った。

まほろの町へ

大観峰
大観峰。天草が女性的なら、阿蘇は男性的な風景が広がる。秋には見事な雲海が見られる。

 雨こそ降っていなかったが、例によって梅雨の空は朝からはっきりしなかった。にもかかわらずここしばらくの雨続き、雨が降っていないというだけで、泊まり客一同「いい天気だ!」と大喜びした。
 この天気を逃すまいと連泊組はみな出支度を始め、ライダーハウスは急に慌ただしくなった。「久々にライダーハウスらしくなったなぁ。『漫画喫茶阿蘇ライダーハウス』も店じまいですね!」とじゃけんさんが笑っている。ライダーハウスのおかげで、旅ならではの出会いと阿蘇を存分に楽しめた。じゃけんさんには感謝するばかりである。
 これから出発する旅人が集まり、玄関前が賑やかになる。毎朝恒例の写真撮影だ。面白そうと思ったのか、「阿蘇の湯」ご主人の息子さんの双子の坊やも様子を見に出てきた。この坊や、荒井のことを「おじさん」と呼びやがる。年端のいかない子供さんにすれば、三十間近の男などおじちゃんなのだろう。荒井もいつまでも若くはない。

 そういうわけで荒井も出支度をして、じゃけんさんやヘルパーさん、旅野さん、泊まり客の皆さんに礼を述べ、一週間ほど長居した阿蘇を後にした。日本一周はまだ終わっていない。熊本を出れば、次なる目的地が待っているのだ。
 来る時に通った道で外輪山を登る。阿蘇を出る前に大観峰に寄っていった。眼下には世界最大級のカルデラが広がっている。一隅には小さく内牧温泉が見えた。自分はしばらくここで過ごしていたわけだ。ほとんどがこのカルデラの中で事足りてしまう。さまざまな暮らしがこの中にある。阿蘇のカルデラは大きかった。
 大観峰から見える阿蘇中岳の山容は、釈迦の涅槃図に似ていると言われる。人も車もほんの豆粒。さしづめこのカルデラは、お釈迦様の手のひらだろうか。

「広東」の太平燕
太平燕。熊本県民が全国どこにでもあると勘違いするほど浸透しているご当地の味。

 ミルクロードで外輪山の上を走り、大津町で国道57号線に合流した。あとは佐賀方面目指して走るだけだ。
 昼近かったが、まだ朝食を食べていない。熊本を出る前に太平燕を食べておこうと、県庁近くにある味千ラーメン本店に寄った。本店だったら太平燕ぐらいあるだろうと思っていたのだが、なんと献立になかった。またしても当てが外れてしまった。
 入ってしまった以上何か頼まないわけにはいかない。仕方なくこの夏の限定商品、カレー冷麺を食べる。冷たい麺を濃いめのカレー味のタレで食べるつけ麺だ。具はチャーシューに赤ピーマン、錦糸卵、胡瓜に千切りキャベツと、冷やし中華のそれに近い。まずくはないが、カレーの味がややきつい。限定商品の反応が気になるのか、レジで「お味はいかがでしたか?」と訊ねられたので、そう答えておいた。
 今食べなければ、当面食べる機会はない。やっぱり太平燕が諦めきれず、食べられそうな店を15分ほど捜し回った末、「広東」という中華レストランに入った。店の前に「太平燕」の幟があったから、今度こそ大丈夫だろう。朝食15分後に昼食。前代未聞である。
 太平燕は汁物の扱いで、単独で頼めるようになっている。酢豚やチャーハンと組み合わせた定食もあるのだが、15分前にカレー冷麺を食べたばかりなので、おとなしく太平燕だけ頼んでおいた。
 待ちかねた太平燕は、野菜たっぷりの白湯スープに、ラーメンのごとく春雨が入っていて、これだけでもお腹が一杯になる。念願の太平燕を胃に収めたところで、これで思い残すことはないと、熊本県を後にした。

 海沿いの国道に出て、一路佐賀県を目指す。地図で見る限りそう距離はないのだが、車や信号が多く、なかなか先へは進めなかった。熊本から佐賀までは、一度福岡県を通過することになる。背の低い建物が続く道を通り抜ける。佐賀との県境に近い大川市で古賀政男記念館を見つけた。見ていこうかと思ったら、休館日だったのでひとまず素通りした。

大和町役場
大和町役場。一部ネットワーカーの間で絶大な知名度を誇る。

 そろそろ夕暮れが近い。佐賀県庁は翌日に回して、先に佐賀市の北にある大和町(現佐賀市大和町)に行った。大和町には肥前国一の宮、與止日女神社(よどひめじんじゃ)があるのだが、ネット上では「大和くん」と「まほろちゃん」を生み出した町としてその名を知られている。
 大和くんとまほろちゃんとは、大和町のマスコットキャラクターだ。地方自治体がマスコットキャラを作ると、たいがいはあたりさわりのないものになってしまうのだが、ここ大和町には絵心のある職員さんがいて、アニメ絵調のやけに可愛い男の子と女の子のキャラクターを生み出してしまった。それが大和くんとまほろちゃんだった。
 二人は当初、町の広報誌やサイトで細々と使われていたにすぎなかったのだが、ある日あるネットワーカーが大和町のサイトを見たのをきっかけに、「役場のホームページにこんな萌えキャラが!」と一部ネット上で大騒ぎになり、人気に火が点いた。それから後は新聞や雑誌で紹介されたりと、佐賀の一地方都市にすぎなかった大和町の名は、大和くんとまほろちゃんとともに、一部で一躍有名になったわけである。

與止日女神社
肥前国一の宮與止日女神社。川縁の小さくて雰囲気のいい神社。

 町内には高速道路のインターチェンジや映画館付きの大きなショッピングセンターもある。佐賀市までは道一本で行ける間合いで、町は県庁所在地佐賀市の衛星都市という性格が強い(注1)。
 とりあえず役場に行った。商工観光課で町の見どころを紹介する小冊子を山ほど戴く。與止日女神社以外にも、町にはあれこれ見どころがある。衛星都市ゆえ一見目立たないが、町内には古墳や史跡が点在し、歴史ある町であることを主張している。小冊子にはもちろん大和くんとまほろちゃんが登場しているものもあった。ついでに町の名物白玉団子のおいしい店も教えてもらった。
 日没前に與止日女神社に行った。町を南北に流れる嘉瀬川の右岸にある。時間のせいか、境内に人気はない。一見したかんじは、よく手の入れられた村のお社である。お参りしてカメラを取り出していると、感じのいい地元のおばさんがやってきて、写真を撮ってあげましょうと申し出てくれた。自分が写真に写りこむのは苦手なのだが、せっかくだからと一枚撮ってもらった。
 神社の少し北には、道の駅もできていた。直売所になっていて、大和町で採れた野菜や名産品を売っている。町特産の干し柿を使ったソフトクリームも売っていたので食べてみる。細かく砕いた干し柿をジェラートに混ぜ込んだもので、干し柿特有のしつこさがなく食べやすい。
 大和くんとまほろちゃんは町内至る所で見かけた。神社の境内にある案内看板にも顔を覗かせていたし、道の駅ではまほろちゃんが「扉に注意してください」と注意を促していたりする。ネット上で見た時は、本当に地方自治体のマスコットなのかよと思ったものだが、当地で予想以上の活躍ぶりを見ると、それは本当だったのだと思い知らされた。

大和町マスコット大和くんとまほろちゃん
大和くん(左)とまほろちゃん(右)。萌えを狙ってないところがかえってツボを直撃。町の案内冊子から。

 すっかり陽が落ちて暗くなった頃、町内の「セブンイレブン」の牛ごぼう飯で夕食にした。朝昼が豪華だったから、夕食は控えめである。
 周りでは部活帰りの中高生が家路を急いでいる。荒井もそろそろ寝るところを探そうと、暗い中野宿場所を探し回る。県の免許センターに近いところで、首尾良く農協のライスセンターを見つけたので、その一角にテントを張った。ライスセンターはたいがい田んぼの真ん中にあって、しかもそこだけ高い建物になっているから、暗くなっても、遠くからでも見つけやすいのだ。

 ところでじゃけんさん。ライダーハウスに農作業用の緑のゴム手袋を置き忘れたのは自分です。ごめんなさい!


脚註

注1・「衛星都市」:2005年10月、大和町は編入される形で佐賀市と合併した。それにともない大和町のホームページは廃止され、大和くんまほろちゃんの去就が注目されたが、2006年4月、佐賀市ホームページ内の子供向けページにて復活を遂げた。

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