長崎は今日も雨だった

がまだす島原

仁田峠展望台から見る雲仙普賢岳平成新山
雲仙普賢岳平成新山。溶岩ドームの異質さに言葉を失う。

 テントを張った場所がいけなかったのか、朝から臭かった。近くに堆肥置き場があったのだ。風がないとたちまち臭いが滞り、たまったものではなかった。
 一方、新兵器蚊取り機の威力は絶大だった。テントとフライの間には、蚊の死骸が数匹分転がっていた。この調子なら、この夏は快適に野宿できそうだ。

 ここから長崎市まで、直線距離ではそれほど長くないのだが、海沿いに沿って走っていこうとすると、途端に距離が増える。それというのも長崎県は西彼杵半島と長崎半島、それに島原半島と三つの半島がくっついてできているので、その分海岸線が長いのだ。長崎市のある西彼杵半島の付け根までは、島原半島と長崎半島をだいぶん回り込むことになる。

 久方ぶりにすばらしく天気がよい。朝六時には撤収を済ませ、すぐに見つかったコンビニでサンドイッチと牛乳の朝食にして、海沿いに走ることしばらく、あっという間に島原半島の東、島原市に着いた。街中は登校中の中高生で賑わっている。
 ここで島原城に寄った。城郭には資料館がいくつかあるのだが、開館にはまだ早いので軒並み閉まっている。天守閣は昭和39年の再建で、中はキリシタンや郷土の歴史資料館となっているらしい。結構な深さの掘が周りを囲んでいる。その一角には蓮がびっしり植わっていた。花が咲いたら見事なことだろう。

 隣の深江町(現南島原市)でもDJEBELを停めた。陸の方に雲仙普賢岳がくっきり見える。普賢岳は島原半島の中央にある活火山だ。平成に入ってから大噴火したことは、荒井もニュースで知っている。茶けた山のてっぺんは、後からかぶせたようにそこだけ異様に岩が盛り上がっていた。噴火でできた平成新山だ。
 眺めているうち、もっと間近で見たくなった。ちょっと予定を変更して、山の方に行ってみた。
 つづら折りになった国道57号線を登り、仁田峠の展望台に出てきた。下を見れば深江町の中心部が、沖には天草の島々が見える。普賢岳は振り返って目の前だ。平成新山はセメントか何かのように山頂付近にこびりついている。よく見るとあちこちから、細く噴煙が上がっていた。活動はおとなしくなったものの、山はまだその勢いを地下に秘めているのだ。

 深江町には平成大噴火を記念する施設がいくつかある。
 普賢岳の噴火が始まったのは、平成2年のことだった。あふれだす火山灰は土石流となって町に押し寄せ、火砕流の熱風は集落を焼き尽くし、多くの人が避難を余儀なくされた。深江町はこうした幾多の噴火災害に苦しむことになった。隣の島原市では、当時の市長さんがこの惨状に耐えかねて、「噴火が収まるまで髭を剃らない!」と宣言し、支援活動に奔走していた。灰色の巨大な煙がもくもくと町に迫ってくる様や、土砂とともに巨岩がぷかぷかと川を流れていく様は、テレビで何度か見ている。

旧大野木場小学校と砂防みらい館 土石流被災家屋保存公園
旧大野木場小学校と被災住宅。平成大噴火の証人として後世に伝わっていくことだろう。

 火砕流とは、火山から噴き出た火山灰や軽石が高温のガスと一緒に流れてくる現象だ。旧大野木場(おおのこば)小学校は火砕流で被災した小学校の廃墟で、保存処理を施された上、見学に供されている。
 遠目には鉄筋コンクリート製の立派な建物なのだが、近づくにつれ、窓という窓にガラスがないことに気が付く。よく見れば外壁は熱に灼かれて変色し、アルミサッシの桟(さん)は曲がっている。教室をのぞき込むと天井は焼け落ち、机が乱雑に転がっていた。廊下には瓦礫が散乱し、扉は塗装が剥げている。その焼けぶりはすさまじいものがあった。もちろん児童の姿はなく、保存処理されているのを知ってか知らずか、かわりに虫や鳩が住み着いていた。
 隣の「砂防みらい館」の展望台には双眼鏡が備え付けてあって、普賢岳の様子を間近に見られるようになっている。大野木場と普賢岳の間はそう離れていない上、遮るもののない急斜面になっている。だからもろに火砕流の直撃を受けることになった。いちどきは、このあたりで取材や観測にあたっていた報道陣や学者のところに火砕流が流れてきて、多くの人命が奪われた。
 校庭のかたわらでは、火砕流をくぐり抜けたイチョウの木が、青々とした葉を付けていた。この木がどれだけ人々の支えになったことだろう。

 噴火に伴い、大量の火山灰が山体に降り積もった。雨が降るとそれが押し流され、土石流として町の方に流れてくる。
 町内の道の駅「みずなし本陣ふかえ」では、土石流に埋もれた集落がそのまま見学できるようになっている。被災地跡に作られた保存公園には、いくつものかわら屋根が、あり得ないほどの低さで地面から生えていた。その下にはまるまる一軒分、住宅が埋まっているのだ。部屋は土石流ですっかりいっぱいになっている。埋もれているものがなまじ新しいだけに生々しい。桜島の鳥居を残した村長さんは、残すことで噴火の猛威を後世に伝えようとした。この埋もれた民家も鳥居と同じく、大噴火の記念碑なのである。
 土石流の流路となった水無川は、川幅が拡張された上、河底や堤防はコンクリートと導流堤で固められていた。上流には砂防ダムが設けられている。災害の教訓を生かし、土石流を安全に受け流せるように改修されたのだ。

雲仙災害記念館がまだすドーム
がまだすドーム。島原の心意気を示すべく作られた災害記念館。

 雲仙岳災害記念館、通称「がまだすドーム」は、土石流が海を埋めてできた新しい陸地にある新しい施設だ。見た目は一面ガラス張りの未来的な建物で、中にはコンパニオンさんまでいて、ちょっとしたテーマパークのようである。ここでは平成大噴火のあらましを、豊富な展示で追体験できるようになっている。焼けこげた四駆車の実物や、すすけた町の再現情景など非常に見応えがあった。
 目玉は平成大噴火シアターだ。大型のスクリーンに映し出される映像や音声に合わせて観覧席が上下左右に揺れたり、目の前から熱風が吹き出したりして、普賢岳の大噴火を疑似体験できるという遊園地顔負けの施設で、入館料の半分はこれの維持費に消えているんじゃなかろうかと思うほど立派なものだった。

 平成大噴火が収束したのは、噴火から6年経った平成8年のことだった。噴火は普賢岳の山容を変え、町の姿を変えた。
 それでも人々は普賢岳のふもとで暮らすことを選び、見事に復興を遂げた。荒れ野原になった普賢岳にも植林が進められ、次第に緑が戻りつつある。猛威を振るった山は、今も昔も郷土の誇りなのだ。
 山もゆくゆくは緑で溢れるだろう。平成新山も、長い時をかけて見慣れた風景へと変わっていくのだろう。将来再び噴火する時には、どれほどの人が平成の大噴火のことを覚えているだろうか?
 「がまだす」とは島原の言葉で「がんばる」という意味だ。「がまだすドーム」の名前には、災害から立ち直り、これからも普賢岳とともに暮らしていくぞという決意が込められている。数々の記念施設は、災害を乗り越えた人々が、それから得た教訓を後世に伝えていくためのものなのだ。

「万福亭」の具雑煮定食 「キャンティ」のろくべえ
具雑煮(左)とろくべえ(右)。島原の歴史に育まれた郷土料理。

 このあたりには郷土料理を出している店も多い。道の駅の食事処「万福亭」で、具雑煮の昼食にした。天草四郎が島原の乱で戦った際、陣中食として作ったのがはじまりと言われている。目の前に出てきたのはそのとおり、肉に野菜にきのこが山ほど入った具だくさんの雑煮で、しかも刺身まで付いてきた。
 具雑煮の次は、がまだすドームの食堂「キャンティ」で、「ろくべえ」を食べた。江戸時代、普賢岳が噴火して島原が飢饉になったとき、人々を救うべく、庄屋さんがさつまいもで麺のような料理をこしらえた。庄屋さんは六兵衛さんといって、それが料理の名前になっている。
 注文すると、黒っぽい細切れの麺が入った丼が運ばれてきた。これがろくべえさんだ。見た目はうどんにも似ているが、中身は芋すいとんに近い。芋麺はもそもそしており、決して旨いもんではないが、それがこの料理が生まれた背景を語っているようだ。もとが非常食だけに、がまだすドームの食堂で出す品としてはうってつけだろう(注1)。現在は作る人も少なくなったそうだが、珍しいからか、島原にはろくべえを食わせる店がけっこうあるらしい。

 だいぶ時間が過ぎていた。まだまだ見物したかったが、今日中に長崎県庁へのとっかかりを付けておきたかったので、名残惜しく深江を出発した。

 原城に立ち寄る。原城は島原の乱最終決戦の地だ。島原の乱は江戸時代初期の、日本最大級の一揆である。圧政と切支丹弾圧に苦しんだ島原の領民が蜂起すると、それが天草に飛び火し、やがて一揆軍は3万8000人もの規模にふくれあがった。その指導者となったのが天草四郎だ。一揆軍は原城にたてこもり、三ヶ月にわたって鎮圧軍に抵抗したが、最後は四郎を筆頭に、全て壮絶な討ち死にを遂げることになった。
 城は今や石垣と戦没者を弔う墓が残るにすぎず、草ぼうぼうになっている。下の海からは、静かに波の音が聞こえてきた。400年前は血の海だったのだろうか。ここで一時間ばかりのんきに昼寝した。枕は切支丹の歴史である。昼だったからだろう、幽霊も出てきやしない。
 「ブルーシールアイスあります」の幟に惹かれて、千々石町(ちぢわちょう・現雲仙市)のドライブインで一息入れた以外、あとはひたすら走った。島原半島を出て、今度は長崎半島に入っていく。急斜面に切られた細道の左右には、枇杷や蜜柑畑が広がっていた。曲がりくねった山道を走った末、半島の先端野母崎にたどり着くと、日はだいぶん傾いていた。野母崎からは暮れゆく海と、港町の様子がよく見えた。
 今度は長崎半島を西岸に沿って北上する。沖には「軍艦島」の名前で知られる端島がぽつんと小さく見える。
 「海の健康村」という立ち寄り湯に入った。風呂に入ってさっぱりし、売店で名産枇杷アイスを食べてから、長崎市に向けて出発した。夕食は途中で見つけた「ファミリーマート」の「よくばり丼」で済ませた。揚げ物がごっちゃり載っかった丼で、なぜかお好み焼きまで載っていた。
 暗い中を走る。建物や商店は数を増し、次第に市街地に近づいているのがわかる。地図によると長崎市の郊外に無料キャンプ場があるというので、そこを目指して走った。しかしこれがなかなか見つからなかった。いつの間にか住宅街に迷い込み、道がわかりづらくて仕方がない。試行錯誤の末、ようやっとそれらしい道を見つけたが、なぜか通行止めでそれ以上先に進めなくなっていた。結局キャンプ場はあきらめ、別の場所にテントを張ることにした。
 真っ暗な中、テントが張れそうな場所を探して、住宅街をとぼとぼ走る。ふと横を見ると、目の前に長崎の夜景が広がっていた。街は谷がちな入り江にひらけており、その谷底が煌々と輝いている。灯りで縁取られた港にはどこかの客船だろうか、電飾をつけた船が停泊していた。寝場所が見つからない心細さはあったが、見事な夜景に少し慰められるような気がした。

星取方面から見る長崎の裏夜景
長崎裏夜景。これも本物を見ることをお勧め。

 結局この日は市街地からだいぶん引き返したところで自転車道を発見し、その入り口にある物置みたいな建物の脇にテントを張った。昨日テントを張った場所のせいか、テントが堆肥臭くてかなわなかった。


脚註

注1・「がまだすドームの食堂」:「キャンティ」の一番人気は溶岩ドームカレーだとか。旨いと評判なので、どなたか荒井の代わりに食ってきてくださいな。

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