上五島天主堂巡り

青砂ヶ浦教会
青砂ヶ浦教会。白漆喰と赤れんがの取り合わせが鮮やかな、五島を代表する教会。

 朝から空はどんよりくもって気が重い。撤収すると、津和崎鼻を目指して走り出した。道はあいかわらず山がちだ。ものの見事に田畑というものがない。
 中通島は五島列島の北に位置する島で、肥った長芋のような形をしている。主島の一つ、若松島とは橋で結ばれており、特にこの二つを指して「上五島」と呼んだりする。
 津和崎は中通島の一番北、細長い半島の先端にある岬だ。灯台もあるのだが、そこまでは多少藪の中を歩いて行かなければならなかったので、灯台に行くのはやめといた。

 島の北を極めたところで、今日の天主堂巡りの始まりだ。島の北にある江袋教会は、長崎最古の木造教会で、19世紀末に作られた建物が、今でも現役で使われている。建てられて100年以上経っているが、近年きれいに修復されたため、外側も内側もこざっぱりとしていた(注1)。
 次に寄った青砂ヶ浦(あおさがうら)教会は、中通島を代表する教会だ。赤れんが造りで、見上げると白漆喰で描かれた「天主堂」の文字がひときわ目立つ。
 このあたりの教会は、れんがを使いつつも屋根は瓦ぶきになっていたりと、東西の建築がまぜこぜになっているものが多いのだが、それがちぐはぐにならず、調和がとれた美しい建物になっているのは見事なものだった。こうした和洋折衷の作りは九州の天主堂ならではのもので、文化的な価値が非常に高い。

 教会から中高年の一団が出てきた。話を聞いて驚いた。「山形がら! 自分たちも山形がら来たんですよ!」 一団は互助会の団体旅行客で、なんと、同郷山形から来ていたのだ。荒井は三ヶ月かけてここまで来たが、一行は飛行機と船を使い、ひとっ飛びでここまで来ていた。同郷の方々との対面を喜ぶ一方、日本は広くて狭いとまた思う。
 教会の中では、壮年のおじさんが一人、祭壇を修理していて、ちょうど話をうかがうことができた。五島列島の天主堂はどれもが年代物なので、ちょくちょく修理してやらなければならない。特にここ、青砂ヶ浦の教会は重要文化財に指定されているので、修理には何かと気を遣うところがあるそうだ。こうした人々の努力があってこそ、教会は人々の祈りの場として、これからも続いていくのだろう。
 おじさんには島の名所やおすすめの天主堂まで教えていただいた。忙しいところありがとうございました!

高熨斗山から見る風景
高熨斗山からの展望。リアス式の海岸線と石油備蓄基地。

 おじさんおすすめの高熨斗山(たかのしやま)に行ってみた。山頂近くまで車で行けるようになっているが、道は一車線と狭く、しかも廃棄物処理場に行く道と接続しているため、大型のゴミ収集車も盛んに行き交っている。狭い道路で収集車とすれ違うたび、ぶつからないか、転げ落ちないだろうかと冷や冷やした。
 山頂は見晴台になっている。雲こそ多かったが、島の様子がよく見えた。山がちな島々に入り組んだ海岸線。四角い筏のようなのは、石油備蓄基地だ。平地はほとんどない。人々は入り江を中心に生活し、互いの往来はもっぱら舟に頼ったのだろう。そう考えると、島の道路があまり発達していないのにも納得がいく。

大曽教会 大平教会
大曽教会(左)と大平教会(右)。小さな漁村にもそれだけ信徒がいる。

 木造のとんがり屋根が印象的な冷水教会、おじさん二推しの大曽教会、他に青方、中ノ浦、跡次、大平教会と、次々に教会を見て回った。上五島にはとにかく教会が多い。一つの集落、小さな漁村のようなところにも、立派な教会が建っていたりする。特に大平教会は、一車線の山道を延々と8キロも走った先、決して交通の便がよくない漁村に立派な教会が建っているので非常に驚く。あたかも寺か神社のような感覚で、教会があるのだ。そのかわり、寺はあまり見かけなかった。
 五島列島の切支丹は、迫害を逃れ、江戸時代に島に渡ってきた人々が中心だった。離島には追及の手もなかなか伸びてこない。人々は信仰の楽園を、離島に求めたわけだ。険しい島に住むことも厭わなかったのだから、信仰は何物にも代えがたい宝だったに違いない。
 そういう歴史があるので、上五島では今でもカトリックの信仰が盛んである。祭壇修理のおじさんによれば、上五島のカトリック信徒は総人口の約三分の一から五分の二。相当な割合でカトリック信徒がいることになる。教会は全部で29。まさに信仰の島なのだ。
 跡次教会のそばで興味深いものを見つけた。キリシタン墓だ。見た目は正面に「〜家」と刻まれた、よくある御影石製の日本の墓なのだが、てっぺんに十字架が載っているのが明らかに違っている。
 よく見れば家紋のところにも十字架があしらわれていたり、聖書の文句が刻まれていたりする。戒名のかわりにあるのは、ペドロとかエリザベトといった、カトリックの霊名だ。カメさんはマリヤの名を戴いていた。このあたりでは、一見ただの漁師のおばちゃんが、エレナだったりエステルだったりするわけだ。
 経消しの壺の話を思い出す。こうした墓は、表だってキリスト教風の墓が作れなかった隠れ切支丹の歴史を継いでいるのだろう。新郷村で見たキリストの末裔の墓はもろ仏教式だったが、一見同じような墓でもえらい違いがある。

跡次教会のキリシタン墓
キリシタン墓。和洋折衷の作りに隠れ切支丹の歴史を垣間見る。

 午前中に島を一周し、奈良尾港に戻ってきた。福江島行きの船まではまだ時間がある。港そばの奈良尾温泉センターに立ち寄った。海が見下ろせる絶好の立地で、港や海を眺めながら温泉が楽しめる。湯をなめてみると、海に近いせいか、にがりのように塩辛くて苦かった。
 フェリーターミナルの立ち食いコーナーでうどんの昼食にする。五島列島は手延べうどんが名物で、ここで食べられるかと思ったのだが、出てきたのはただの玉うどんだった。だったら自分で作れということで、売店でみやげ用のうどんを見繕う。店番をしていたおばちゃんが「『どっちの料理ショー』(注2)で採りあげられたこともあるのよ!」と、一推しのうどんを買った。おばちゃんによれば、五島列島でうどんはおなじみの料理で、自分の家でもよくゆでてご馳走するそうだ。
 買ったうどんは乾麺で、「アゴ」こと焼いたトビウオで出汁を取った粉末スープが付いている。これだったら野宿の食料にもうってつけだ。五食分で税込み577円だが、おばちゃんは550円におまけしてくれた。ありがとうございます。
 立ち食いうどんだけでは腹が保たない。第一朝は買い置きのアップルパイを一個かじっただけなのだ。売店でアイスクリームを二個買い食いして、さらに港のそばの食料品店で調理パンを仕入れて腹に詰め込み、ようやく落ち着いた。

 そうこうするうちフェリーがやってきた。中通島から福江島までは1時間。運賃は単車込み二千円で間に合った。佐渡や屋久島に比べ知名度が低いせいか、五島列島はなんとなく、どう行けばいいか判らないという印象を抱いていたのだが、実際に来てみると、非常に渡りやすいことに驚く。実は佐渡同様、ジェットフォイルまで就航しているのだ。
 船では連休を利用してやってきたという単車乗りの方二人と一緒になった。一人は地元の方で、もう一人は神戸の方。神戸の方は船の揺れに閉口していた。
 確かにこの船はよく揺れる。しかも目に付くところ、船室中にアルマイト製の金だらいが置かれてあるのだ。「やっぱりコレって、気持ち悪くなったら使え、ってことなんですかね?」と、単車乗りどうしささやきあった。

船室に置かれた金だらい
船室で見つけた金だらい。いったい何に使えと。

 さいわい金だらいの出番はないまま、福江島に着いた。一行と別れ、フェリーターミナルで島の案内小冊子を手に入れる。外は暗くなりかけていた。街中のビジネス旅館「旅の宿」に転がり込む。近所の商店街のスーパーで、見切り品のトンカツ弁当と安売り品の「午後の紅茶」を仕入れて夕食にした。
 夜になると、雨が激しくなった。低い雲は薄赤く光り、ゴロゴロと雷まで鳴っている。屋根の下に宿を取っておいて助かった。

福江島 楽園と地獄

遣唐使船型電話ボックス
遣唐使船をかたどった電話ボックス。福江島で発見。

 福江島は五島列島の一番南にある島だ。島内に市役所を置く福江市(現五島市)もあり、五島列島では一番開けている。
 昨晩の雨や雷は止み、晴れ間が覗いていた。出がけに宿のおばさんと話をする。そろそろ夏休みだから忙しくなるのではと訊ねると、「盆をはさんだ十日間が忙しくなるんですよ。」と教えてくれた。来客は北九州一円からの海水浴客が中心で、宮崎や鹿児島からの客は少ないらしい。おばさんもそちらの方には行ったことがないそうだ。同じ地方でも、人の往来はその程度のものなのだ。
 意外なのは、離島であっても泳げない人が多いという話だった。「若い頃は家で農作業の手伝いをしていることが多くて、結局泳ぎを覚える機会がなかったんですよ。」 いくら四方が海に囲まれているとはいえ、皆が皆海と親しくしているわけでもない。雪国山形県民の荒井が、スキーが滑れないのと同じなのだ。ついでにこのへんの高校生は、修学旅行では長野付近にスキーを学びに行くそうで、山形在住の荒井よりもずっと心得があるとかないとか。

 福江島は一周道路が発達している。例によって島一周だとこの日も走り出した。街中にはコンビニもあり、すぐ朝食にありつけたが、出来合いのサンドイッチの類は高めの値段になっていた。200円のハンバーガーを食べたのだが、レトルトのチキンハンバーグが申し訳程度のレタスと一緒に挟まっているだけだった。

 開けた印象を受ける福江島も、街中を離れると、商店や家の数はぐんと減る。もちろんコンビニも見かけない。
 いちどきは走っている途中、急に腹が下ってきた。厠を探したものの、公園やコンビニの類が全く見つからず困り果て、結局たまたま見つけた漁協事務所にお願いして、厠を借りることになった。漁協のおじさん、その節はありがとうございました。おかげで助かりました!
 島の北東、土岐浦の海辺に近い山道にさしかかると、道路の上をやたらな数の小さなカニが横切っていた。踏んづけないよう気を遣いながら走ったが、それでもたまに、グシャ、とタイヤ越しに変な感触がある。「カニさんごめんよ!」と小さくなりながら走る。道路には、ぺしゃんこになったカニが、いくつもひっついていた。

堂崎天主堂 水ノ浦教会
堂崎天主堂(左)と水ノ浦教会(右)。名匠鉄川与助は仏教徒だったが、生涯を教会建築に捧げた。

 福江島にも天主堂は多い。堂崎天主堂は、福江島の天主堂の代表格だ。赤れんがの凛とした教会で、海に臨んで建つ姿が様になっている。現在の建物を作ったのは、ペルー神父と鉄川与助という大工だ。与助は教会建築で名を馳せた名工で、他にも天草の崎津教会や大江教会、長崎の浦上教会、見てきたばかりの頭ヶ島教会、青砂ヶ浦教会、大曽教会などなど、多くの天主堂を手がけている。
 次に寄った水ノ浦教会は、真っ白な壁が鮮やかな木造の天主堂だ。中に入ると真正面に、十字架に磔されたキリスト像が飾られてある。物語に登場する教会ではよく見かけるキリスト受難像だが、実はこれまで天主堂巡りをしてきて、こうした受難像を見るのは、これが初めてだった。見てきたところ、祭壇の後ろにはただのキリスト像か大きな十字架を置いてあることが多い。
 こうした像やロザリオは、信徒の方々にとってどんな意味があるのだろう。これを偶像崇拝と考える人もいるのだろうが、そう単純なものではないような気がする。信徒が祈りを捧げているのは、像ではなく、その先にある見えないものなのだと思う。

 水ノ浦教会に近い城岳には展望台がある。山頂には携帯電話の基地局があって、その一部が展望台になっているという変わった作りだ。備え付けの双眼鏡はなんと無料。双眼鏡越しに、リアス式の海岸線が手に取るように見える。来る人もほとんどなく、思う存分展望を楽しんだ。

 島の西は外海に面しているため、断崖が目立つ。福江市街地と同じ島とは思えないほど荒々しい。鄙びている分海はきれいだったが、波は強かった。
 五島列島最西端大瀬崎に着くと、急にくもってきた。岬を望める展望台は相当に高いところにあるようで、雲の中である。ときおり雲が切れ、岬の灯台が少しだけ顔を覗かせた。お子様ランチのチキンライスのようにこんもり盛り上がった半島の上に、旗代わり、白い灯台が載っていた。天気がよければ、眺めもさらによかったことだろう。
 岬の展望台には、祈りの女神像が建っている。五島を祖国の見納めにして大陸に出征し、二度と帰ることのなかった兵士たちや、海難事故で命を失った人々の慰霊碑となっている。
 島には辞本涯(じほんがい)の地がある。福江島は日本を発つ遣唐使船、最後の寄港地でもあった。出航してしまえば、あとは大陸に行くばかり。当時の航海はまさに命がけの冒険で、生還できる保証はない。祖国の見納めとなるのがこの福江島で、もしかすると二度と祖国の地を踏めないかもしれないという、決死の覚悟で遣唐使たちは大陸に向けて旅立っていった。空海もその一人で、福江島を発つ際、万感の思いがこみ上げてきたのか、「日本の果てを去る」という言葉を残した。それが「辞本涯」である。
 空海も橘逸勢も最澄も、大陸に渡った兵士たちも、船の上からどんな思いで島を眺めたのだろう。また、果ての地であるゆえ、迫害された切支丹はこの島々に信仰の楽園を求めた。
 沖の方には灰色の海が広がっている。辞本涯。五島列島は日本最西端の地の一つでもある。

空海上人辞本涯記念碑 五島列島最西端大瀬崎
空海上人辞本涯の地(左)と大瀬崎(右)。五島列島もまた、日本の最果ての地である。

 島の南に回り込み、福江の市街地に近づくと、平地が目立ってきた。畑や水田もよく見かける。このあたりは上五島とまるきり違っている。島の南東にある鬼岳をぐるりとまわって街に戻ってきたところで、福江島一周はおしまいである。
 やっぱり本職の方が作ったものも食べてみたい。今日こそ名物の手延べうどんを食べようと、フェリーターミナルに近い「そば幸」ののれんをくぐった。昨日の失敗を繰り返さないよう、ここでうどんが食べられることは、あらかじめ小冊子で調べている。名店のようで店内はほぼ満席だったが、かろうじて一人分の場所が空いたので、名物にありつくことができた。
 五島列島のうどんは、島特有の季節風で乾燥させた乾麺で、延ばす際に椿油を使ったりと、五島ならではの製法で作られている。様々な食べ方の中でも一番人気は、ゆでた釜から箸で直にすくいあげ、アゴで出汁をとったタレに付けて食べる「地獄炊き」だ。「そば幸」では、温かいタレと冷たいタレの二つがあって、小ネギに生姜、たまごの黄身に天かす、削り節といった薬味を、好みでタレに入れながら食べる。見た目は非常に素朴なのだが、細目のうどんは非常にコシがあって、とてものどごしがいい。出汁の利いたタレもうどんによくからむ。

「そば幸」の地獄炊き
五島名物地獄炊きうどん。ゆでたてをふうふういいながら喰うのは格別。

 フェリーの出航は午後五時だった。それまで市街地を廻った。島内の家電量販店とホームセンターで、電池とメモ帳を補充しておく。さすが市のある島なので、市街地には大きな店がいくつかある。電池を買ったついで、使用済み電池の回収を頼むと、「市の条例で決まっているんですよ。」と、回収名簿への記入を頼まれた。
 その後はコンビニで雑誌を立ち読みしたり、旧跡石田城をざっと見てみたりして時間をつぶした。石田城は日本最後の城で、幕末に外国船対策として建てられた。天守閣などは残っておらず、かわりに石垣の中には地元の高校や図書館がある。この図書館が天守閣のような作りで、なかなか洒落っ気がある。

 時刻が来た。帰りのフェリーに乗り込む。五島列島には都合二日ばかりの滞在で、駆け足で廻ることになった。天主堂や景勝地の数々、島の魅力は、二日ではとても味わい尽くせない。もっとじっくり見てみたかったとは、島を離れる船の上で、いつも思うことだ。
 五島列島は名前こそ知っていたが、山形で日々の仕事に甘んじている限り、ここに来ることはまずなかっただろう。そしてどういう場所か知ることもなかったはずだ。衝動乗りで来た五島列島だったが、それは忘れられない思い出の一つとなった。


脚註

注1・「江袋教会」:2007年2月、残念ながら火災により焼失。復元のための募金活動が進められている模様。

注2・「どっちの料理ショー」:1997年から2006年まで放送された日本テレビ系の料理バラエティ番組。司会の三宅裕司と関口宏が、それぞれに特選素材を使った料理を紹介し、出演者にどちらを食べたいかを選ばせる。支持が多かった方の料理を選んだ出演者はその料理が食べられるというもの。ちなみに五島うどんは2001年6月14日放送分「天ざるうどん対冷やし中華」に特選素材として登場したが、冷やし中華に破れている。

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