宿の食堂で和食の朝食にする。スポ小の子供たちと一緒になったため、食堂は賑やかだった。
出発前に宿の隣にある大歳神社に参拝した。その昔、源義経が壇ノ浦の合戦に先だって戦勝を祈願したという由緒ある神社だ。境内は小山の上にあって、街のちょっとした展望台になっている。
外はすばらしくよく晴れ、青空が眩しい。九時に宿を引き払い、街の西にある彦島を軽く一巡りしてから市街地を離れた。
出発して程なく、本日最大の目的地、毘沙ノ鼻に着いた。本州最西端の岬だ。日本最西端、辞本涯の岬、JR最西端、本土最西端、最西端の港町、鉄道最西端、韓国展望所と続いた最西端巡りも、ここでひとまずお仕舞いである。
岬の展望台は、記念の落書きでいっぱいだった。「メモリアルベンチ」と称して、落書きし放題のベンチまであるのが面白い。最西端の記念碑は展望台の下にあって、ゴミ処分場を抜けていった先にある。碑は防波堤はずれの岩場に建っていた。脇では多くの釣り人が糸を垂れている。
これからの旅は、日本海側を本格的に東に向かうことになる。東に向かうということは、それだけ山形に近づくということだ。当初はどれだけ走れば日本一周できるのか見当も付かなかったが、いつの間にか山陰、四国、中部北陸を残すのみとなっていた。これまで最西端の地をいくつも廻っていた分、最果ての地に来たという気はしなかったが、そのかわり、この旅が終わりに近づきつつある寂しさを強くした。
海辺の道は緩やかなカーブを繰り返した。小さな峠もいくつか越えた。夏休みの週末だったせいか、随所の海水浴場はどこも賑わっている。八重山ほどとはいかないが、このあたりの海も青く澄んでいる。
「旅の途中かい? よかったら長崎にも来てくれよな!」 長門市で信号待ちをしていると、いきなり水色のボックス車が近づいてきて、窓越しに運転していたおっちゃんが励ましてくれた。「長崎が。行ってきたんだげどな。」と一人苦笑しつつおっちゃんを見送る。車には九州のナンバーが付いていた。このあたりでは九州ナンバーの車をよく見かける。関門トンネルをくぐって遊びに来る人も多いのだろう。
市内の「セブンイレブン」でツナサンドを腹に詰め込む。隣の萩市で「松陰神社」にお参りした。
萩市は長州藩のお膝元で、松陰神社は長門国が輩出した幕末の思想家、吉田松陰を祀る神社だ。
「維新の嵐」ではまず吉田松陰でプレイした口だ。松陰が明治維新に大きな影響を与えた人物で、尊皇思想を唱えたゆえ、時の大老井伊直弼による安政の大獄で獄死したということは荒井も知っている(注1)。
神社はその吉田松陰が私塾「松下村塾」を開いた場所にある。境内にはその建物が残っていて見学もできる。「こごで伊藤博文や高杉晋作が日本の将来ば熱ぐ語り合っていだなが。」と感慨深く見ていたが、知ってか知らずか、猫が一匹、窓のひだまりで気持ちよさそうに昼寝していた。
松陰は旅の先達でもある。見聞を広めようと外国船で密航を試みたという話は有名だ。若い頃には全国を旅して廻り、山形では米沢にも来ていた。そして松陰が松下村塾を開いたのが、当時の荒井と同じ歳のことだった。青年松陰は何を思って旅を続けたのだろう。偉大なる旅の先達に、旅の無事をお願いしておいた。
萩ではもう一つ、笠山を見物した。標高112メートルという、世界最小の火山である。一見ただの小山だが、火山だから山頂には火口がある。直径30メートルと、山の規模に不釣り合いなほど大きなもので、すり鉢状のくぼみの奥でぱっくりと大きな口を開けていた。山は永らく休止しているようで、観光化が進んでいた。ふもとにはみやげ屋や旅館がいくつもあって、山頂には鉄筋コンクリート製の展望台まである。もし噴火したら大変なことになりそうだ。
ここで山口県を一度横断して、瀬戸内海側の周南市に向かうことにした。思うところあって、再び周防大島に渡るためだ。
萩から周南市までの国道は快適そのものだった。山中を横断しているにもかかわらず、幅員も広くてよく整備されてある。しかも交通量が少ないから、距離が稼げる。走る車はどれも飛ばしていた。荒井も130キロほどの道のりを、3時間程度であっという間に走りきってしまった。
周南市の街角で「回天記念館」の看板を見つけた。この看板は来るときも目にした覚えがある。そういや見てなかったなと、案内に従って行こうとしたが、街はちょうど祭りの最中で、中心部では至るところで道が封鎖されており、やすやすと行けなかった。
交通整理をしていたおじさんに場所を訊ねてみると、意外なことがわかった。「回天記念館? それだったら島にあるよ。」 どうやら船でなければ行けないらしい。この日はもうだいぶ陽が傾いていたので、船着き場で船の時刻だけ確かめて、翌日行くことにした。
市内のスーパーで食料を仕入れてから、来るときも利用した緑地公園のキャンプ場に行く。こないだは雨で撤収に苦労したなと思い出しつつテントを張る。テントを張っていると、お孫さんを連れて散歩に来た地元のおばちゃんに「日本一周してるの!? 長旅だとお家の人も心配でしょう。」と声をかけられた。
祭りを見に行くこともなく一人夕食を作る。ガソリンストーブを取り出すのも久しぶりのことだ。天草で自炊したとき以来だから、かれこれ二十日は経っている。
買い置きの即席つけ麺に、さっきスーパーで買ってきたネギチャーシューをぶち込む。さすがにそれだけでは足りず、カップ麺を一個追加してようやく腹一杯になった。やっぱり野宿と外飯はいい。
朝から晴れていた。この前のように雨が降っていないから、べしゃべしゃになったテントに煩わされることもない。撤収を終えて徳山港に行き、DJEBELを港に置いたまま、7時40分の船で大津島に渡った。
日曜日だからか、乗船客には釣り人が多い。徳山は山のふもとに開けた工業港のようで、海から陸を眺めると、山を背後に、銀色をした化学工場のタンクやら精製塔が林のように建っている。その一方で沖には小さな島がいくつかあって、浜にはすでに釣り人が陣取っていたりする。
ほどなく目的地、大津島に着いた。小さな船着き場には「ようこそ回天の島」といった看板が建っている。乗客は三々五々、釣り場やキャンプ場に散らばっていった。荒井は看板で場所を確かめてから、回天記念館目指して歩き出した。
大津島を有名にした「回天」とは、大戦末期に実戦投入された人間魚雷、つまり神風特攻隊の魚雷版、人間が乗って自殺的攻撃を仕掛ける魚雷の名前である。大津島はその回天の基地があった場所で、知覧町同様、多くの若者が集まっては、訓練に明け暮れていた。記念館は回天の歴史を後世に伝える施設だ。
島にはキャンプ場があって、夏休みを楽しみに来た家族連れで賑わっている。記念館はキャンプ場の先、階段の小径を上った丘の上にあった。港からは歩いてすぐの距離である。
記念館に入ると、立派なヒゲを立てた学芸員さんらしい方がやってきて、あいさつがわり、「知覧町の特攻平和会館は見たことがありますか? ここは知覧と同じです。広島や沖縄ともちょっと違うんですよ。」と、記念館の趣旨を説明してくれた。そのとおり、館内の展示は特攻平和会館同様、戦争を云々するよりは、人間魚雷に乗って散っていった若者たちの紹介や遺品の展示に力が入れられていた。記念館前には回天の大型模型や、搭乗員の慰霊碑がある。そして島内には回天を運んだという旧い隧道や、発射基地となったコンクリートの建物など、数々の当時の遺構が残っている。今は家族連れや釣り人で賑わうこの島が、かつて軍事基地だった名残である。山口県には、他にもこうした人間魚雷の基地が随所に残っているそうだ。
「回天」は軍の上層部の号令で作られた兵器ではない。戦局の悪化を見るに忍びなく、かくなる上はと思い詰めた青年士官たちの提案によって生まれた兵器である。乗員が必ず犠牲になるので、上層部も開発にはなかなか首を縦に振らなかったという。それでも戦局のさらなる悪化と、青年士官たちの度重なる嘆願によって、とうとう回天が開発されることになったのだ。
搭乗員は全て志願して集まってきた若者たちだったという。提案者である青年士官も自ら乗り込んで訓練に臨んでいたが、そのときの事故で殉職している。回天はある意味、命を張ってまで祖国を守ろうとした若者たちが生み出したものなのだ。
ここで、なぜに彼らはそこまでできたのか、という問いが浮かんだ。若者たちは、死してまで、何を成そうとしたのだろう。
思うに、彼らは変えたかったのではなかろうか? 日本が負けると判っていたとしても、自分の力があまりに微力で、何かしたところでとうてい大局を変えられないことなど判っていたとしても、それでも、何かせずにはいられなかったのではないだろうか?
明治維新を担った志士たちの多くは若者だった。それと同様、若者たちはただ、息の詰まりそうな世界を、なんとかしたかったのではないだろうか。変えられるかどうかは判らない。むしろ絶望的である。しかしそれでも何かせずにはいられないし、何もしないのは耐えられない。そうしたもどかしさと情熱を抱え、何もしないで朽ち果てるよりはずっとましだと、若者たちは還らぬ空や海に旅立っていったのではなかろうか?
「回天」は、「天を回らせ、戦局を逆転させる。」という意味で名付けられたという。しかし若者が変えようとしていたのは、戦局という小さなものではなく、もっと大きな「未来」だったのではないか...そういう気がする。
午前十時の船で大津島を後にした。島と徳山とを結ぶ往復船には、島にちなんで「回天」という名前が付いていた。不帰の人間魚雷の名前も、往復船の名前になっている方がずっといい。
ところで、記念館で展示を見ようとした矢先、地元の婆さんがやってきて、荒井相手に「島にキャンプに来る家族の連中といったらうるさくてかなわんね。全く迷惑だよ...」と愚痴りだした。こちらは心静かにじっくり展示を見たいので、適当な頃合いを見て話を切りあげたかったが、愚痴は果てるともなく続いた。これではこちらが迷惑かなわないので、一言、「あの。ゆっくり展示を見たいので、話しかけないでいただけますか?」と言って追い払った。確かに昼夜の別なく騒ぐ、迷惑なキャンプ客もいるだろう。しかしこの記念館は、愚痴をこぼしに来る場所ではない。
徳山から道を乗り継ぎ周防大島に向かう。目指すは道の駅、サザンセトとうわだ。日曜日になると、宮本常一氏のご子息が東和金時の焼き芋を売っているというので、食べられるかなと行ってみたのだ。
サザンセトとうわも観光客の車で混んでいたが、残念ながら焼き芋は売っていなかった。そりゃ夏休みの始まりに、寒いときに恋しくなる焼き芋なんか売れるわけがない。
かわりに前来たとき食べ損ねたじゃこ天とみかんソフトを買い喰いした。じゃこ天はじゃこ入りのさつま揚げで、鶴御崎で食べたすり身揚げの仲間である。屋台で揚げながら売っているので、その場でできたてのあつあつをかじられる。みかんソフトは大島特産、みかん入りのソフトクリームだ。
それだけでは足りないので、道の駅の売店で、地元のパン屋さんの作ったパンを二つばかり買って喰う。一つは「フライパン」と名付けられたカレーパンで、もう一つは「ビタミンロール」という細長いパンだ。カレーパンは揚げて作るから「フライ」パンなのだろうが、クリームをはさんだドッグパンのどのあたりが「ビタミンロール」なのかはよくわからなかった。
結局軽い昼食を摂っただけで周防大島を出る。そこからは三桁国道と県道を乗り継ぎひたすら山口を縦断した。山村や農村を縫うような道だったが、やはり道はよく、迷うことも足止めを喰らうこともなく、再び萩市に戻ってきた。市内のカメラ屋で、こないだ対馬で落っことした分のフィルムを補充してから、山陰目指して走り出した。
傾いた日を受け、ひたすら走る。時折目にする道の駅や観光施設は、どこも観光客だらけだった。途中夕食のためコンビニに寄った以外はただ走るばかりで、いつの間にか島根県に入っていたことも忘れていた。
陽はとっぷり暮れ、海も夕陽色から夕闇の色に染まっていった。浜田市に着く頃にはもう真っ暗で、このあたりで寝る場所を探すことにした。市内のキャンプ場は、受付をするには遅すぎた。かわりの場所を探しながら国道を走っていると、町はずれで県の歯科医師会の建物が見つかった。この日はその片隅にテントを張って寝た。
注1・「維新の嵐」:九州編2「九州再上陸」脚注参照。ちなみにMSX2版では、プレイヤー要人として吉田松陰を選ぶと、間もなく安政の大獄が起こるのだが、捕まって死ぬということがなかったので拍子抜けした覚えがある。ちなみに98版では井伊直弼でプレイする場合、一定の条件を満たすと安政の大獄をするかしないかの選択ができるのだが、MSX2版ではそういうことがない模様。MSX2版や88版は98版から移植されるにあたり、相当に簡略化されたり自由度が低くなった部分が多いため、これを指して98版が最高というファンも多い。移植版も非常に出来はいいんですがね。