後鳥羽上皇を訪ねて

隠岐島後巡り

フェリーくにが車両甲板
フェリー車両甲板の様子。車も隠岐に航送中。

 隠岐諸島は島根県の北、約60キロほど沖にある島嶼群で、東西大きく二つの地域からなっている。東にあるまん丸な島が「島後」(どうご)で、西の小島の集まりが「島前」(どうぜん)。隠岐も佐渡や壱岐・対馬同様、旧国の一つで、荒井の日本一周ではここにも早々に渡ることが決まっていた。荒井が乗っている「フェリーくにが」は、現在その島後に向かっている。
 かつては辺境ゆえ配流地になっていたことで知られるが、現在は毎日のように往復便が出ている。本州からはフェリーで二時間半、高速船なら一時間半ほどで行けてしまう。荒井なんかは半日で石見、出雲、島根県庁ととんとん拍子に廻ったところで、さらに隠岐にまで渡ってしまうのだから、古人も羨ましがるに違いない。

 船に揺られた末、島後の入り口、西郷港に降り立った。ついに隠岐にも来てしまった。港を出てまず目に飛び込んできたのは「かえれ竹島!」の看板だった。竹島は韓国との間で領有権が問題になっている孤島だ。竹島の名前は知っていたが、実際に返還運動があるということは、実は当地に来るまで全く知らなかった。思いがけず目にした竹島の看板は、ここにも国境があるということを、まじまじと感じさせるものだった。

水若酢神社
隠岐一の宮水若酢神社。隠岐造りと呼ばれる独特な様式の社殿が特徴。

 あたりはだいぶ暗くなり、空もくもりつつあったが、ひとまず下見ぐらいはしておこうと、島の中心道路、国道485号線を北に走り出した。
 隠岐に来た一番の目的、隠岐国一の宮水若酢神社(みずわかすじんじゃ)は、その国道485号線と、島の西を走る県道が分岐するあたりにあった。時間が時間なので授与所はもう閉まっている。軽く参拝して、翌日もう一度来ることにした。
 県道に折れ、島の西を走る。人通りの少ないうら寂しい道で、海岸には断崖が目立った。西半分を廻って西郷に戻ってきたところで、港近くの食堂「りょうば」で夕食にした。隠岐まで来たからには豪華に海の幸でも食べようぜと、奮発しておまかせ定食というのを頼む。運ばれてきたのは刺身、煮魚、岩海苔をのっけた茶碗蒸し、佃煮、おろし生姜をあしらったもずく、みかん一切れ、味噌汁、おしんこと、どのあたりがおまかせなのかはわからないが、品数豊富で豪勢な一膳だった。久々に海の物をたらふく食って満足した。

 外はもう暗い。野宿場所を求めて走り出した。食費をケチらない分、宿代をケチるのだ。国道沿いに農協の農機センターがあったので、その軒先にこっそりテントを張って寝ることにした。国道そばだから、ときおり車の音が聞こえてくる。島だから車の往来も少ないだろうと思ってしまうのだが、意外にも夜遅くまで車が走っていた。

島後から島前へ

 一夜が明けると、空は灰色になっていた。何でこうもぐずついているのかと、天に向かって腹が立つ。ともあれ撤収を済ませ、六時半には出発した。
 離島なので、この時間に開いている店はない。島で一番栄えている西郷港の近くにも、コンビニはない。開いていたのは港の待合所だけだった。一番早い船が八時前の出航なので、待合所もそれに合わせて開いているのだ。売店を覗いてみるが、売っているのはみやげ用の岩海苔やふりかけ、珍味といったものばかりで、すぐに食べられそうなものはない。仕方なくアイスモナカを買って空腹をごまかした。

都恋崎
都恋崎。島後の名勝地のひとつ。

 島前への船は昼に出る。それまでに島の東半分と、史跡を見て回ることにした。島後は中央部こそ谷がちで耕地も目立つが、島の東と西は山がちで、海岸は断崖が多い。険しい地形だが、その分景勝地に恵まれている。
 都恋崎(みやこいざき)は、東部にある景勝地の一つだ。漁港の隅っこから急な上り坂を通っていく。松林に囲まれた地味な岬だが、眺めはよい。名前は隠岐に流罪になった貴人が、ここから都恋しと東を眺めたことに由来するのだろう。
 浄土ヶ浦は、小さな島々が点々としている景勝地だ。浜は小石や漂着物がごろごろしており荒々しい。しかも背後は切り立った断崖だ。その昔、とんちで有名な一休さんが、ここで隠岐の隠者と問答をしたという伝説が残っている。隣には松林に囲まれたキャンプ場もあって、夏の避暑地に良さそうだ。
 トカゲ岩は、トカゲが岩山をよじ登っているように見える奇岩だ。展望台の入り口が広場になっていて水道もあり、ちょうど一服するのにおあつらえ向きだったので、ここで買い置きの即席麺を取り出して、朝食をやり直すことにした。ところが食べている最中に雨が降ってきて、四阿の軒先に待避する羽目になった。ラジオのニュースでは、本土でもぼちぼち梅雨が明けつつあったが、この日の天気予報は雨で、今日中に回復する気配がなかった。梅雨明け近しと言ってもその実感は全くない。
 雨が弱まってから展望台に行ってみたが、トカゲはガスに隠れてなかなか見えなかった。それでもしんねりと待っているとやがてガスが切れ、山頂を狙うトカゲの影が見えてきた。トカゲ岩は水が岩山を浸食してできたもので、ひょろ長い岩が、浸食を免れた部分で壁面にかろうじてくっついている。それがトカゲの胴体と足に見えるわけだ。
 次に行ったのは島の北にある白島だ。名前の由来は九十九の小島があって、百に一つ足りないから白島とも、島の色が白いからとも言われている。雨のせいでやや霞んでいたが、高いところにある岬の展望台からは、海辺に小さな島がいくつも浮かんでいるのが見えた。

隠岐郷土館
隠岐郷土館。明治18年に建てられた郡役場を移築復元したもの。

 再び水若酢神社に行ってみると、授与所が開いていたので、今度は由緒記をもらうことができた。授与所の番をしていたのは、宮司さんの奥さんとおぼしきおばさんだった。こうした小さな一の宮は、授与所の方々も受け答えが丁寧である。
 神社の隣には郷土館がある。隠岐の旧い役場を移築したもので、民具や郷土資料の展示が見られる。島だから漁具の展示が多そうな気もするが、展示の中心は農具や食器だった。島とはいえ、大きな漁船を出して本格的に魚を獲るようになったのは近代以降のことで、それまでは沿岸で小魚や海草を獲っていることの方が多かったそうだ。
 もう一つ目立ったのは、島やアシカ漁の様子をとどめた竹島の写真だった。竹島は江戸期から日本の領土として認知され、明治末には隠岐からも人が渡って、アワビやアシカを獲っていたが、戦後韓国に占領されて今に至っている。竹島は行政区的には隠岐にある五箇村(現隠岐の島町)に属している。そのため島根県や隠岐では返還運動を進めているのだが、北方領土返還運動ほどの盛り上がりは見せていない。
 その一因は隠岐から遠すぎて、島民の交通がほとんどないことだと言われている。竹島は隠岐の北西、約160キロ沖にある。一方韓国からは、鬱陵島から島見学の遊覧船が出せるほどの距離しかない。納沙布岬や羅臼から、歯舞諸島や国後島がはっきり見えるのとは大きく違い、隠岐から竹島は全く見えない。そのために、問題が今ひとつ現実味を帯びて感じられないのかもしれない。

 国分寺では、散々に打ち毀れた仁王像を見た。寺はこの地に流された貴人の一人、後醍醐天皇が鎌倉幕府転覆を企んで雌伏していたこともあるというほど由緒ある場所なのだが、明治初期の混乱と廃仏毀釈によって破壊され、焼失してしまった。仁王像もその時に壊されてしまったもので、本堂は戦後に再建されたものである。小さな本堂には仁王像を始めとした寺宝が無造作に置かれてあり、物置部屋のようだった。
 近場のスーパー「サンテラス」で酢豚弁当を買い、昼食にした。サンテラスは田舎の幹線道路沿いに建っていそうな大型店で、二階にはなぜか会議室や催事場まで備わっていた。酢豚弁当を片づけて西郷の港に行くと、ちょうど船が入ってくるところだった。手続きを済ませて船に乗り込んだ。

 島前は西ノ島、中ノ島、知夫里島という三つの小島が集まってできている。島後からは10キロほどの距離で、二時間ほどの船旅だ。西ノ島の浦郷港に下りると、乗る前よりも雨脚が強くなっていた。フェリーの待合所でカップかき氷を食べて落ち着いてから、雨の中走り出した。

由良比女神社
島前にもある一の宮由良比女神社。年に一度のお祭り中。

 まずは由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)に行った。隠岐には島後と島前にそれぞれ一の宮がある。島後にあるのが水若酢神社で、島前にあるのが由良比女神社だ。それぞれ一の宮があるというところに、島前と島後の関係が伺える。それは今にも言えることで、平成の大合併で島後の町や村が合併して「隠岐町」を名乗ろうとした際、「隠岐は島後だけじゃないぞ!」と島前の町々から注文が入り、結局合併後の名前を「隠岐の島町」に変えざるを得なくなったという経緯がある。
 神社はちょうど年に一度の例祭だった。この雨にもかかわらず、港には露店も出ている。島の子供や若者たちが多数繰り出し、ずぶぬれになりながらかき氷やお好み焼きなど買って食べていた。街に比べて娯楽施設の少ない離島では、年に一度のお祭りは、大きな楽しみなのだろう。雨ぐらいで中止しては、子供らががっかりするのかもしれない。
 神社は入り江になった浜の隣にある。祭りらしく幟や提灯で飾られていたが、若者で賑わっていた港とはうってかわって、人気もなく静かである。浜には「イカ寄せの浜」という名前が付いている。何でもその昔、季節になると、手で拾って獲れるほどのイカの大群がこの浜に押し寄せたそうだ。現在はそういうこともなくなったそうだが、浜の名前に、往時の記憶をとどめているというわけだ。

イカ寄せ浜の電話ボックス
イカ寄せ浜で発見した電話ボックス。受話器片手にイカがお話中。

 島の東にある港町、別府の先で道は途切れていた。平地があって一周道路がある島後とは大きく違い、西ノ島は山がちで一周道路もない。集落は南の海沿いに発達しており、それらを結ぶ形で道路が伸びている。道路を走る限り、農地はほとんどなかった。同じ隠岐でも、島後とは大きく雰囲気が違っていた。
 来た道をとって返し、島の西にある国賀海岸の通天橋を見に行った。国賀海岸は海による浸食が造り出した奇岩奇景が売りの奇勝で、通天橋もその一つである。由良比女神社の脇を通り、集落が切れると山道にさしかかる。小さな隧道を一つ越え、道なりにちょっと走れば、海岸へ下りる遊歩道の入口が現れる。
 駐車場でDJEBELを降り、長い下り坂を下りていく。草むらになった海岸の先に、それはあった。デカい。高い。低い灰色の空に届くかのように海から立ち上がる姿は、全く天に通じる橋だった。
 この雨であたりには人気もない。休憩用の四阿の下にテントがあったが、主は雨を避けようと籠もったきり、外に出てくる気配もない。一対一、陰鬱な空にその迫力を増す通天橋との対峙を心ゆくまで楽しんだ。

通天橋
通天橋。曇天下圧倒的な存在感を放つ。

 島内のスーパーで夕食用に即席麺と具を仕入れ、暗くなった頃、目星を付けておいた野宿場所に行った。この日テントを張ったのは、西ノ島町の運動公園の片隅だ。体育館の裏手に、目立たず人が来そうもなく、しかも雨がしのげる軒先があったのだ。
 テントを張り終え、今日は祭りだったしもう誰も来ないだろう、雨でさんざんだったぜと、夕食のためストーブを取り出した途端、体育館に灯りが点いた。どうやらママさんバレーの練習らしい。こうなることを想定して、一応中から見えない場所を選び、目立たないように張ってはいるのだが、物音を立てたりなんかしたら、見つからないとも限らない。見つかると何かと面倒なので、こそこそとコーンわかめラーメンを作り、こそこそとすする。炎や音(注1)でばれるといけないから、ストーブの取り扱いにも気を遣う。
 練習は十時頃まで続いた。安全か確保できるまで、こちらも気を抜くことはできない。それまでまんじりともせず、テントの中で待つ羽目になった。


脚註

注1・「音」:ガソリンストーブは機種によって、盛大に音をあげるものがある。荒井が使っている機種は比較的静かな方なのだが、それでも最大火力にすると結構大きな音がする。

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