後鳥羽上皇を訪ねて

 島後、島前と一の宮を巡り、訪れるべき場所は回ったが、この他にぜひとも見ておきたい場所があった。後鳥羽上皇に関する史跡だ。後鳥羽上皇は鎌倉時代初期の人物で、順徳天皇らとともに承久の乱を起こしたが、これに破れて隠岐に流されている(注1)。隠岐に流された貴人の代表とも言える人物なので、隠岐に来たなら見ておかなければいかんだろうと思ったわけだ。
 ところが、行きそびれていた。「隠岐さ来ればどっかでみられっぺ。」程度の見通しでいたのだが、そのどっかとは主島の島後や西ノ島ではなく、島前の中ノ島だったのだ。一口に隠岐といっても、島前島後、さらに島前は三つの島に別れるので、一つの島に渡れば何でも見られるというわけではない。一の宮巡りを優先し、主島以外に渡る予定は全くなかったので、中ノ島に渡る準備は全くしていなかったのだ。
 本土への船は今日の昼前に出る。時間は差し迫り、渡るのはなかば諦めていた。

国賀海岸摩天崖
摩天崖。とりあえず隠岐に来たなら実物を見ることをお勧め。

 結局ばれることもなく、無事に夜が明けた。いつもどおり跡形もなく撤収する。地図や帰り船の時刻などを調べていたため出発は遅れ、運動公園を後にしたのは七時近くだった。
 帰り船までの時間を利用して、国賀海岸の摩天崖(まてんがい)を見に行った。摩天崖へは通天橋に向かう道から逸れ、崖に切られた細道を何キロか走っていくことになる。
 さして期待はしていなかったのだが、これが大当たりだった。隠岐に来たなら絶対に見ておけ! と言えるほどの絶景が眼下に広がっていた。名前のとおり、摩天崖は高い断崖で、海抜約250メートルある。それだけの高さがいきなり海に落ち込み、通天橋さえはるかに見下ろせる。摩天崖とは巧い名前を付けたものだ。隠岐に来て国賀海岸を見なければ、いったい何のために隠岐に来るのかとさえ思った。
 崖の上は草原になっていて、牛や馬が放し飼いにされている。与那国島の東崎にも、こんなに牛はいなかった。草原にはもちろん、車道にも牛がいて、道路の真ん中で寝ていたりする。ご機嫌を損ねないよう、脇をこっそり通り抜けて帰った。

車道で寝る牛
こんな具合で牛がいる。

 朝食になりそうなものを探そうと別府のフェリー待合所に行ってみると、長距離航路の岸壁の先で、隠岐汽船とは別の会社の船が出航を待っていた。調べてみると、中ノ島に渡るフェリーだということがわかった。隠岐に就航しているのは、本土と島前・島後を結ぶ隠岐汽船だけではない。島前では島どうしを結ぶフェリーが別に就航していて、気軽に島に渡れるようになっていたのだ。
 もしやと思い船便を調べる。隠岐汽船の帰り船は中ノ島にも寄る。この船で中ノ島に渡れば、それまで一時間半ほど島を見て回れることがわかった。出航までもう時間がない。この船を逃したら、もう中ノ島には渡れない。
 あとは勝手に体が動いていた。大急ぎでDJEBELを飛ばし、島前航路の船乗り場に行く。券売機で中ノ島行きの切符を買い、あわてて船に乗り込むと、待っていたかのようにフェリーが動き出した。

 「間に合った! これで後鳥羽上皇さ会いに行げっつぉ!!」

 滑り込みで間に合った。わずか一時間半とはいえ、小さな島で史跡を廻るだけならなんとかなる。なによりなかば諦めていただけに、実際に渡って廻れるということそのものがありがたかった。何もせず諦める前に、まずは悪あがきしてみるもんだなと改めて思った。

 島前の島々を結ぶフェリーは八重山で乗った「ぱいかじ」のような船で、車両甲板は青天井だ。ただ「ぱいかじ」よりは一回り大きくて、列車のような客室まで備わっている。
 10分ほどで、西ノ島の対岸、中ノ島の菱浦港に着いた。フェリー待合所は木造の気の利いた造りの建物で、「キンニャモニャセンター」という妙ちくりんな名前が付いている。中には待合所のほか、島で採れた海鮮や野菜を売る直売所に売店、食堂などがある。まずは腹ごしらえに、売店で島のパン屋さんが焼いたメロンパンとクリームパンを買って朝食にした。
 「キンニャモニャ」とは、中ノ島に伝わる隠岐民謡だ。名前がおもしろいからか、それが待合所の名前になっている。食堂は「船渡来流亭」(せんとらるてい)と、南知多といい勝負の屋号を戴いている。売店でもらったレシートには「島じゃ常識商店」と刷られてあった。島の住民にはあたりまえだが、島ならではのおもしろ物産をそろえた店という意味らしい。ちなみに直売所は「しゃん山・大漁」という。

承久海道キンニャモニャセンター 島じゃ常識商店レシート
キンニャモニャセンターとそこのレシート。なんちゅう屋号だ。

 さっそく島巡りの開始である。まずは集落に向かう途中にあるガソリンスタンドに寄った。店番のおばちゃんは山形ナンバーに目を留めると「せっかく来たんだから、いろいろ見ていくといいよ!」と勧めてくれた。せっかく来られたのだ。もちろん廻れる限り廻っていこう。ついでに郵便局の場所を聞いてみると、親切なことに、カードが使えるかどうか、電話をかけて問い合わせてくれた。おばちゃん、ありがとうございました!

 時間がないのでさっさと廻れるだけ廻る。郵便局で無事お金を補充し、隠岐神社に向かう。昭和初期に創建された新しい神社だが、その由緒は鎌倉時代にさかのぼる。祭神はもちろん後鳥羽上皇だ。
 上皇は隠岐に流された後、19年を中ノ島の寺院で暮らし、この地で崩御された。なきがらは火葬に付され、中ノ島に弔われた。その後も行在所跡や火葬塚は島の人々の崇敬を集めてきたのだが、昭和になって崩御700年を迎えた際、行在所跡のそばに隠岐神社が建てられ、現在に至っている。

 隠岐には政争に敗れた数々の貴人が流されてきたが、その多くは教養人でもあった。こうした人々が数多くやってきたおかげで、隠岐に都流の文化が伝えられ、この地に根を下ろすことになった。
 後鳥羽上皇は大歌人だったが、自分で刀をこしらえてしまうほどの刀剣マニアでもあったらしい。幕府転覆に備えて武装を整える意味合いもあったが、流されてからも刀を作っていたそうで、それが隠岐の刀鍛冶の発展に寄与したそうな。ついでに、当時京都に腕の立つ刀匠がいて、上皇にその腕前を認められ、作った刀に菊の御紋を入れることを許された。それが荒井が京都で砥石を買った「菊一文字」のはじまりだ。
 行在所跡と火葬塚は神社のすぐ隣だ。現在は草や苔に覆われているが、往時、上皇はここに寝起きして、歌や刀など造りながら、都恋しやと過ごしていたわけだ。承久の乱に失敗し、都を追放されたことは失意の極みだったろうが、このあたりは風物や海産物に恵まれているし、歌や刀鍛冶など19年も好きなことをして過ごしていたわけだから、隠岐での暮らしはそれなりに楽しかったのでなかろうかという気がする。

隠岐神社 後鳥羽上皇火葬塚
隠岐神社(左)と後鳥羽上皇火葬塚(右)。上皇は隠岐に流された貴人の代表的存在だ。

 島には天川の水という名水が湧いているというので、探してみたか見つからなかった。結局島の北半分を一周したところで、時間が近づいてきたので港に戻った。例のキンニャモニャセンターの直売所で、昼食用に岩ガキ入りの炊き込みご飯を買い、ついで米も補充しておいた。米は島で採れたコシヒカリを、昔ながらの方法で天日干しして自然乾燥させたものだ。量り売りで、しかも玄米をその場で精米してくれる。
 米の補給もなかなか厄介である。スーパーや米屋さんではまず、最低でも2キロの袋しか置いていない。たまに1キロ入りがあったかと思えばもち米だ。米も荷物になるので、できれば少ない分量をこまめに買える方がありがたいのだ。必要な分だけを、持参の袋に入れて売ってもらうという量り売りは、米に限らずいい方法だと思うのだが...

 やがて港に帰り船が入ってきた。都合二日の短い時間だったが、もっと廻りたかったという気持ちと、その間で廻れるだけ廻ったという満足感とともに、船に乗り込んだ。

 3時間ほどして境港に着いた。船を下りれば鳥取県だ。これで40都道府県目、足を踏み入れていないのは四国と北陸の7県だけとなった。この勢いを買って、本州を横断して四国に渡ることにした。
 ここしばらく風呂に入っていなかった上、洗濯物も溜まっていた。松林の続く道を南下し、米子市の皆生温泉(かいけおんせん)まで来たところで、コインランドリー付きの立ち寄り湯を見つけたので、利用することにした。
 立ち寄り湯「お〜ゆランド」は食堂から休憩室はもちろん、宿泊用の客室まで備えたずいぶん新しい建物だった。温泉は海水浴場が近いせいか、海水浴客も利用するらしい。家族連れが多く、子供らがギャーギャー走り回っている。風呂から上がって洗濯を片づけたところで、いよいよ四国に向かって走り出した。

 米子市は大都市だった。県庁所在地でもないのにテレビ局がある。街中を抜け、市内で国道180号線に乗り換え、ひたすら南を目指す。街を出ると建物の数が減り、道は登り坂になる。峠越えの前に、「ポプラ」でサンドイッチを買い食いして腹ごしらえも済ませておく。
 山を右手に左手にひた走り、大分水嶺を越え、山陰から山陽に入った。山陰では小雨がぱらつくこともあったが、山陽に出ると次第に雲も晴れ、青空も見えるようになった。明日もこの調子で晴れてくれればいいのだが。
 ヒバゴンで有名な西城町(現庄原市)を素通りし、さらに南を目指す。庄原市で国道を乗り換え、旧い宿場町である上下町(現府中市)、甲山町(現府中市)と通過して、御調町(みつぎちょう・現尾道市)にさしかかる頃には、あたりはもう暗くなっていた。この日は三原市の無料キャンプ場に厄介になるつもりだったが、そこに行く途中、農協の集荷場を発見したので、そこにテントを張った。農協野宿ももはや慣れっこだ。手持ちの麻婆春雨と即席麺で夕食にする。この日はけっこうあれこれ食べていたはずなのだが、隠岐から一気に瀬戸内海の近くまで来たせいか、妙に腹が減っていた。


脚註

注1・「承久の乱」:「トキサブレの島」参照。順徳天皇陵が流されたのが佐渡島で、その陵が真野御陵。

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