四国一周達成

男だったら

祖谷渓の小便小僧
祖谷渓名物小便小僧の像。その昔、度胸試しに崖っぷちで用を足す奴がいたことにちなんだとか。

 朝起きると、雲海の下にでもなっているのか、空には低く雲がたれ込めていた。島根の単車乗りさんは、剣山スーパー林道の代わりに行く場所を検討していた。本当なら今日走りに行く予定だったのだ。
 撤収し、テント場から少し離れた管理棟前でアイドリングする。管理人のおじちゃん、島根の単車乗りのお二方に見送られ、キャンプ場を出発した。

 「祖谷」と書いて「いや」と読む。このあたり、祖谷渓は秘境と呼ぶにふさわしい場所だった。道は険しい山の中腹に切られ、路肩から一歩踏み出せば、即深い谷底が待っている。人家の類はほとんどなく、心細い山道ばかりが続いていた。もちろんコンビニなんてものはひとつもない。
 ところが世俗の垢を落とすのにうってつけだとでもいうのか、この秘境、観光地としてけっこう人気がある。実際キャンプ場は大盛況だったし、断崖にぽつんと建っている一軒宿の駐車場は、来客の車で満杯だった。

かづら橋
かづら橋。現在は祖谷渓観光の目玉として稼働中。

 祖谷渓名物、断崖の小便小僧の像を見物してから、かづら橋を見に行った。山に生える蔓植物ことかづらで作ったという吊り橋で、アニメや漫画に出てきそうな、いかにも危ない吊り橋といった形をしている。その昔、祖谷渓に逃れてきた平家の落武者が、源氏の追っ手が近づいたらすぐに斬り落として追撃をかわせるように、あえてこんな橋を造ったとも伝わっているが、実際のところ、地元の人々が谷を渡る便宜のため、山で容易に手に入り、加工もしやすい蔓を使って、簡素な橋を架けたというのが始まりらしい。
 橋は掛け替えを繰り返し、永らく利用されてきたのだが、隣に頑丈な永久橋ができたことと、昭和30年代に重要文化財に指定されたためか、現在は「渡れる工芸品」と化しており、観光客が渡るぐらいになっていた。長さは45メートル程度で、通行料は片道500円。渡ったからといって、錦帯橋のように変わった場所に行けるわけでもない。引き合わないと思ったので、隣の永久橋から見るだけにしておいた。
 かずら橋を渡った先には(永久橋でも同じだけど)、琵琶の滝という小瀑がある。平家の落武者がこのほとりで、都恋しやと琵琶をかき鳴らしつつ歌ったからこの名があるという。この時は折からの雨で激しく水が流れ落ち、優雅に琵琶を鳴らすどころではなかった。

橋の上から見る小歩危
小歩危の様子。冗談のような名前だがこうして見れば確かに難所だった。

 国道32号線を高松目指して北上する。大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)はその途中にある。おもしろ地名として紹介されることも多い大歩危・小歩危は、吉野川に沿って奇岩が連続する区間で、四国屈指の景勝地だ。激流下りの名所のようで、この日もモンベルのラフティング(注1)教室が開かれていた。しかし台風のおかげで吉野川は増水して勢いを増し、名前の通り危なくなっていた。遊覧船は欠航だ。こんな中、激流下りをやって大丈夫だったのだろうか。

 再び満濃池に寄ってみると、池のほとりで農家のおばちゃんたちが畑の物を持ち寄って、日曜市を開いていた。手作りのおにぎりが旨そうだったので、それといちじくジュースを買って遅い朝食にした。
 さらに国道をさかのぼる。昨日も立ち寄った綾南町(現綾川町)の道の駅滝宮「うどん会館」で昼食にする。その前に、まずはここの名物、讃岐うどんアイスを食べておく。
 全国各地、ご当地の名物を採り入れたアイスは珍しくないが、中でもここ、うどん会館の讃岐うどんアイスはずばぬけている。うどんを混ぜ込んだアイスクリンで、イロモノ中のイロモノだ。うどんだけならまだしも、出汁まで混ぜ込んである。さすがにウケ狙いであることは作った側も認めているらしく、「さっぱり」「純こってり」「超こってり」と、三段階が選べるようになっている。「さっぱり」はうどん・出汁控えめで、「純こってり」ではさらにいりこと出汁の配合が増えている。さらに「超こってり」に至ってはいりこの粒入りだ。昨日来たときはよりによって一番凄い「超こってり」が売り切れになっていた。いったいどういうことなのか。
 この日食べたのは昨日から気になっていた「超こってり」だ。アイスといいながら出汁の味がする。中には細切れになったうどんが入っているのだが、冷たさのせいで固かった。しかも今度はいりこの粒入りだ。なぜここまで忠実に、アイスでうどんを再現しようとしたのだろう。
 昼食は「道真御膳」というのにした。綾南町には菅原道真公由来の天満宮があって、名前はそれにちなんでいる。押し寿司、天ぷら、かぼちゃの炊き合わせにサラダ、そしてざるうどんが付いてくるという豪華な一品だが、さすがに梅ヶ枝餅は付いていない。

瀬戸大橋
坂出側からみる瀬戸大橋。王子が岳から眺めたときのことを思い出す。

 高松からは海沿いに西に走った。坂出市にさしかかると、瀬戸大橋が見えてきた。たもとは公園になっていて、一角には瀬戸大橋の歴史を紹介した資料館もある。外では家族連れの他、音楽フェスティバルが開かれていたためか、若い人の姿も目立つ。子供らは噴水で水浸しになって遊んでいた。気が付けば、上は真夏らしい青空だ。
 曇天下、対岸王子が岳の国民宿舎から針金細工を眺めて三ヶ月、巡り巡ってようやく橋の向こうにやってきた。あの時四国は対岸の遠い場所だったが、今や四国一周も、北岸を残すばかりとなっている。
 詫間町(現三豊市)の荘内半島では、紫雲山に登った。荘内半島は浦島太郎伝説発祥の地で、山の名前は玉手箱にちなんでいる。天気がよいので、山頂の展望台からは因島まで見渡せた。

観音寺寛永通宝砂形
観音寺名物寛永通宝の砂形。寛永通宝は江戸時代に最も流通した貨幣。

 紫雲山の四阿で昼寝してまた走り出すと、やがて観音寺市にさしかかった。ここでは絶対に見ておきたいものがあった。巨大な寛永通宝の砂形だ。
 その昔、テレビ時代劇「銭形平次」のオープニングで、大川橋蔵(おおかわはしぞう・注2)がこの上で曲者どもと闘うという映像が使われていた。それがよほど強烈だったようで、「あんたでがいぜにがた、どさどうやってつくったんだべ?」と幼心に思ったのものだが、後年、それがどうやら四国の観音寺に実在するものらしいことを知り、四国に行くなら必ず見てやろうと思っていたのだ。
 件の砂形は、燧灘(ひうちなだ)に臨む砂浜にあった。南側の丘には展望台があるので、そこから全容を眺められるようになっている。待望の寛永通宝は、草で青くなっているところもあったが、平次親分が悪党と闘った舞台、そのままの形だった。
 「銭形平次」で有名になってはいるが、もともとはテレビ撮影のために作られたものではない。江戸時代の初め頃、領内視察のため殿様が観音寺を訪れることになった際、地元の村人が歓迎のため一夜で作ったものと伝わっている。その殿様は直後にお家騒動で出羽国に飛ばされることになったのだが、砂形だけはその後も村人によって手入れされ、現在に至っている。今でも年に2回、地元の有志によって掃除や修復がされているのだそうだ。ちなみにその殿様に出羽国での所領として与えられたのが、秋田の矢島(現由利本庄市矢島地区)だったらしい。矢島町の街並みに歴史を感じるというのは、つまりそういうことだったのだ
 下に降りてみる。近くに寄ってみると、上で見たとき以上に草が茂っていた。なるほど、これなら手入れは欠かせないだろう。一周は約360メートルで、真円ではなく南北に長い楕円形になっている。丘の上から眺めたとき、真円に見えるようにという工夫らしい。中に入って銭形平次ごっこをしたいところだが、歴史的文化財だけあって、普段は中への立ち入りが禁じられている。

 日が傾いてきた。近場のスーパーで食料を仕入れてから、近所のキャンプ場に行ってみた。キャンプ場は運動公園みたいな場所にあって、設備はそれなりに整っていたのだが、この時期だというのに利用客はおろか管理人さえいない。しばらく様子をうかがったが、安全に寝られる確信が持てなかったので、別の場所を探すことにした。
 かわりの寝場所はあっけなく見つかった。すぐ近くに農協のライスセンターがあったのだ。人目に付かないところにテントを張って、日記なぞつけていると、遠くの方で珍走団がエンジンをふかす音がする。ここだったら、変な連中に見つかることはないだろうけれど。

四国一周達成

すし丸のさつま汁と麦飯
南伊予名物「さつま」。その名は薩摩伝来だからとか、旦那がカミさんを補佐(佐妻)して作ったからとか言われている。

 さいわい変な連中に絡まれることはなかったが、そのかわり、朝の五時に車の音で目が覚めた。何ごとかとテントから首を突き出すと、目の前に軽トラが停まった。どうやら近くに住む農家の方らしい。ただでさえ怪しい旅人が、さらに怪しまれてはたまらない。軽トラに向かっておはようございますとあいさつする。すると農家のおじちゃんが降りてきて、話しかけてきた。
 事情を説明したら、野宿をしながら日本一周をしていることは判ってもらえたようだ。おじちゃんは「このあたりは変な連中や、暴走族も多いからねぇ。俺だったら交番の脇とか、安全なところにテントを張るね。」と助言してくれた。
 おじちゃんはさやいんげんの世話のため、朝早くから起きているらしい。ともあれ、迷惑にならないようさっさとテントを畳み、その場を後にする。近場の「ポプラ」で牛乳を買い、買い置きのカロリーメイトで朝食にした後、本格的に出発した。

 あとは真面目に走るだけだった。製紙工場が建ち並ぶ工業地帯や海水浴場、田園地帯を次々に抜けた。そして今治を通過して、四国一周のふりだし、波方港に戻ってきた。見覚えのあるフェリー乗り場を目の前にすると、とうとう四国も一周したんだという実感が湧いてきた。

 このまま四国を出てもよかったのだが、ひとつ心残りがあった。愛媛では郷土料理の「さつま」を食べたいと思っていたのだが、まだ口にしていなかったのだ。そこで再び松山市に向かった。
 事前に本や案内小冊子などで、食べられそうな店を捜してはみたのだが、これはという店はなかなかなかった。街中を歩き回ってみても、郊外を走り回ってみても、食べられそうなところは見つからない。数時間捜し回り、昼をだいぶまわってしまっても、さつまを食わせる店はさっぱり見つからなかった。
 ところが荒井は運がよかった。「いい加減腹も減ってだし、もうなんでもいいがら昼飯食うべ...」とあきらめ加減に、道後温泉の「すし丸」という店に立ち寄ったら、ちょうどこの店がさつまを出していたのだ。これでようやく念願のさつまが食えると、喜々として注文した。
 荒井が喰いたかった「さつま」とは汁かけ飯だ。ほぐした焼き魚入りの、味噌と出汁をあわせた汁を、麦飯にかけて喰うというもので、愛媛の南の方に伝わってきた郷土料理である。荒井が頼んだ「伊予さつま膳」は、さつま汁に麦飯、それに天ぷら、炊き合わせ、わかめとそうめんの吸物、おしんこに西瓜が付いてくるという、さつまをお膳仕立てにしたものだった。さつまそのものはすてきに旨いというものではないが、しみじみとした飽きの来ない旨さがあって、何杯でも行けそうだ。これで四国一周も思い残すことはない。
 地方に行くと、その土地土地の郷土料理を食べたくなるものだが、それに反して、郷土料理を食わせる店というものはそう多くないような気がする。郷土料理の多くは家庭料理なので、店で出しているところがあまりないのだ。郷土料理を食べるのに苦労しなかったところといえば、奄美と沖縄・八重山ぐらいだった。
 いつも家で食べているようなものだから、改めて人に出すような料理でないと、その土地の人は思ってしまうのかもしれない。しかし旅人からすれば、そのいつも家で食べているようなものこそが、未知の食べ物であり、食べてみたいものなのだ。荒井が日本一周から山形の実家に帰って驚いたのは、季節の山菜や漬物が並ぶ日常の食卓だった。日本一周に出る前は、ごく当たり前で地味なものにしか見えなかったのだが、その地味な料理は、日本中どこに行っても山形でしか食べられない、地元ならではの味だったのだ。
 普段食べている料理にも、実はその土地ならではのものがある。いつでも郷土料理が食べられるような店が、全国にもっと増えてくれないかなと思う。

松山城
松山城。江戸時代初めに作られ、伊予松平藩の居城として使われた。

 この日は松山市内のユースホステルに予約を入れていたのだが、到着予定時刻までだいぶん余裕があったので、松山城を見物した。
 松山城は四国で最初に訪れた愛媛県庁の裏山にあるのだが、街中であるにもかかわらず、その裏山がやたら高い。山頂に行くためには、ロープウェイかリフトのお世話になる。さらに山頂駅から天守閣までは、10分ほど歩かなければならない。途中には売店や茶店が多く並んでいて、行き交う見物人も数多だった。
 天守閣は幕末の再建だ。急な階段を上り最上層へ行くと、松山市の展望が四方に開ける。わきではボランティアの観光ガイドさんが「松山は最高ですよ!」と強調していた。

松山ユースホステル
松山ユースホステル。様々な工夫が凝らされた面白い宿だった。

 この日の宿、松山ユースホステルは道後温泉に近い坂の上にあって、黄色い壁がひときわ目立つ。談話室の傍らにはペアレントさんの趣味なのか、「波動」「不思議体験」といったビラが置いてある。一見退いてしまいそうだが、宿そのものは非常に快適で利用しやすい。実際この松山ユース、旅人の間では面白い宿として知られており、人気が高いのだ。
 一番の売りは夕食である。「松山ユースの夕食は豪華だよ!」という話は各地で聞いていたので楽しみにしていたのだが、評判通り、手の込んだ料理が品数も豊富に揃っていた。ご飯だけでも三種類、白米、麦飯、玄米が選べる。この日のおかずは焙烙焼き、肉巻きフライ、鰹のたたき、菜っ葉の煮付け、ゴーヤのサラダ、たまごスープ、グレープフルーツかんてんで、つけ合わせのサラダと佃煮は取り放題。豪華な夕食を心ゆくまで楽しんだ。どうもごちそうさまでした!

道後温泉本館
「坊っちゃん」にも出てくる道後温泉本館。温泉そのものは聖徳太子の昔からあるそうな。

 風呂に入りに道後温泉に行った。ユースからは歩いてすぐの距離である。まずは立ち寄り湯「椿の湯」に入った。泉質は有名な本館と同じだが、そちらがあまりに有名なせいか空いており、ゆっくりのんびり入れる。風呂から上がって館内のテレビを見ると、高知よさこい祭りの生中継が放送されていた。世間はそろそろお盆だ。こないだ見た高知県庁前の通りも、熱気に包まれているのだろう。
 旧い木造建築の本館は、道後温泉の中心とも言える存在で、全国各地から観光客を集めている。有名になったきっかけはもちろん夏目漱石の「坊っちゃん」だが、最近はアニメ映画「千と千尋の神隠し」のモデルになったということで人気が上がり、ますます人が押し寄せていた。入口からして混んでいて、玄関は脱いだ靴で足の踏み場もない。風呂場は八百万の神々ならぬ、観光客だらけで芋洗い状態だった。傍らには「坊っちゃん泳ぐべからず」の札が懸けられてあった。もちろん夏目漱石にちなんだ洒落である。
 温泉街には「ハイカラ通り」なるアーケード街があって、観光客が賑やかに行き交っている。路面電車の駅のそばでは、坊ちゃんとマドンナよろしく、昔ながらの書生と女学生の格好をした観光ガイドの方がいて、写真を撮れるようになっていた。通りには「千と千尋」にちなんでか、スタジオジブリの小物屋もある。愛媛名物伊予柑のソフトクリームを売る店があったので、氷水のかわり、こちらをひとつたいらげた。
 岩手が「イーハトーヴォ」を売りにしているように、松山は「坊っちゃん」を売りにしている。ここでも街を歩けば「坊っちゃん」とか「マドンナ」の名を冠する物をやたら見かける。路面電車や野球場の名前にまでなっているぐらいだ。やっぱり漱石も草葉の陰で苦笑しているのではなかろうか。
 一見明るく健全な温泉街だが、これが一歩路地裏に迷い込んだりすると、風俗店や怪しげな酒場、大人の玩具屋が軒を連ねていた。歩いていると、どこからともなく現れた婆さんに、「いい娘がいますよ!」と声までかけられた。温泉街はどうやらそういう場所でもあるらしい。

 ユースの客室は12畳ほどの和室で、この日は数人の旅人と一緒になった。車で四国を廻っているという方、阿波踊りを見に来た東京の大学生、近日開かれる松山のサンバカーニバルに友人が出るというので見物に来た単車乗り、自転車乗りの東大生。夏休みを利用して、遠くに来たという方が多いようだ。旅の話など、あれこれ雑談に興じる。さしづめ部屋の中は修学旅行のようだった。


脚註

注1・「ラフティング」:ゴムボートで急流を下るスポーツ。

注2・「大川橋蔵」:おおかわはしぞう(1929〜1984)。俳優。歌舞伎役者から映画に転じ、人気を博する。その後テレビ時代劇にも出演し、「銭形平次」では主人公の平次を演じた。

前に戻る文頭に戻る目次に戻るトップページに戻る次を読む