山陰内陸一周

江の川に沿って

弥留気地蔵
佐治村の弥留気地蔵。一見何の変哲もないお地蔵さんだが?

 夜降り出した雨はいまだ止まず、朝になっても激しく降っていた。岐阜の単車乗りのお二方も、この雨でどうすればよいか頭を抱えていたが、とりあえずフテ寝を決め込んでいた。しかも追い打ちをかけるかのように、彼らの単車が一台見事に倒れていたのだ。降り続く雨で、スタンドのところの地面がぬかるんだせいだ。これじゃますますやる気もなくなろうというものだ。
 こんな天気なので起きるのも遅ければ、テントを畳むのも遅かった。彼らとおしゃべりしたりなんやらでぐずぐずした結果、キャンプ場を出発したのは、朝の十時近くだった。

 とにかく寒かった。今はお盆の真っ最中だというのに異様に冷え込み、気温は20度を割っている。何をする気も起きず、何するでもなく、ただ走った。酷使したおかげで合羽は至るところから水漏れするし、長靴には穴まで空いている。距離だけは稼げるが、こんなんだから全く面白くない。甲田町(現安芸高田市)の「セブンイレブン」でようやくDJEBELを停め、ハムたまサンドを買って朝食にしたのは、昼近くのことだった。
 ここから江の川に沿って北上した。江の川は中国地方を縦断して流れる大河で、素戔嗚尊が退治した、かの八岐大蛇の正体だとも言われている。幾度となく氾濫する暴れ川を、古人は異形の大蛇に例えたわけだ。
 中国地方の大分水嶺は、基本的に中国山地に従い、日本海寄りのところを東西に通っている。ところがちょうど江の川流域のところだけ中国山地を離れ、大きく瀬戸内海側に寄ってしまっている。これを賀曽利隆さんは「中国山地を突き破って流れている」と表現した。そのとおり、衛星写真で江の川を見てみると、幾筋にも分岐した支流が瀬戸内海のそばまで広がり、まさに八本首の大蛇のように見える。八岐大蛇は山さえ食い破っていたわけだ。
 道はただただ、細く長く続いていた。隣を見れば、中国地方一の大河が、靄の中を滔々と流れている。車の数はそこそこ多かったはずなのだが、ヘルメットのせいか雨のせいか、騒音さえ聞こえやしない。

鴨山 斎藤茂吉鴨山記念館学芸員のおばちゃん
鴨山と茂吉記念館のおばちゃん。里山には万葉の謎が隠れていた。

 邑智町(現美郷町)で少し寄り道して、湯抱温泉に行った。寒さが堪えたので、風呂にでも入ろうかと思い、立ち寄り湯を探したがさっぱり見つからない。ひとまず温泉はあきらめ、邑智町に来たもう一つの目的、斎藤茂吉記念館を見学した。展示室は一部屋だけで、中には管理人のおばちゃんが一人いるだけという小さな記念館である。入るとそのおばちゃんが「寒かったでしょう。」と、熱いお茶をごちそうしてくれた。親切が身にしみる。おばちゃん、ありがとうございました。
 斎藤茂吉は荒井の地元、山形が輩出した歌人だ。その記念館が、山形から遠くれた島根の山中にあるのには訳がある。茂吉の業績の一つに、奈良時代の歌人、柿本人麻呂の研究がある。人麻呂は「万葉集」きっての大歌人で、石見国の鴨山という場所で亡くなったとされている。そこで茂吉は当地を調査した結果、鴨山とは湯抱温泉の付近であると結論づけた。そうした縁で、ここに記念館が建っているわけだ。
 規模は小さいながらも展示は充実しており、茂吉の絶筆や歌集「白き山」の肉筆原稿など、見応えのある展示が揃っている。所蔵している資料も相当なもので、「『「アララギ』(注1)のバックナンバーを見るため、わざわざここに来る方もいるんですよ。」と、管理人のおばちゃんは言っていた。
 人麻呂の生涯は謎が多く、その大部分は明らかになっていない。実際のところ臨終の地については諸説あって、茂吉の説もその一つに過ぎず、平成の代になっても、まだ不明のままである。
 しかし「万葉集」でもひときわ輝く人麻呂は、「万葉集」を理想とする茂吉憧れのスターだった。だからこそ、茂吉は謎多き人麻呂臨終の地を探すのに夢中になったのだろう。湯抱温泉の鴨山を目にした茂吉は、その喜びや興奮を詠った句も残している。

温泉津温泉泉薬湯
温泉津温泉の泉薬湯。一見ただの温泉銭湯だが長い歴史を誇る。

 再び江の川に沿い延々と走った末、河口の街江津市に出てきた。いつの間にかあれだけ降っていた雨もあがり、薄曇りになっている。山陰巡りも本格的に再開である。
 温泉津でようやく待望の立ち寄り湯を見つけた。年季の入ったコンクリート造りの小さな温泉銭湯なのだが、人気があるのか、中は地元のおじちゃんから観光客に至るまで、利用者でいっぱいだった。温泉津は奈良時代の昔からある温泉地で、最近は近所の石見銀山と併せて世界遺産入りを目指しているらしい。

 陽が暮れてきた。仁摩町(にまちょう・現大田市)で夕食の買い出しをして、寝場所を求めて走る。出雲市近隣のキャンプ場に転がり込むつもりだったが、途中で人気のない農機センターを見つけたので、そこにテントを張った。夕食はまたエリンギカレーを作って、さっき買ってきたおにぎりをぶち込んで喰った。

大根島

八雲の三食割子
名物出雲そば。箸を使わない拍子木食いという変わった食べ方もあるそうな。

 晴れてはいたが朝から肌寒かった。8月ももう半分を過ぎている。夏とはいえ、この頃になればそろそろ秋風が吹いてくる。
 出雲市の「ローソン」で、いつもどおり、ツナタマサンドと牛乳の朝食にする。それから再び出雲大社にお参りに行った。夏休みなので駐車場も大盛況だ。全国各地からやってきた車で、ナンバープレートの見本市になっているのも前来たときと同じである。
 こないだ食いそびれた出雲そばを食べることにした。寄ったのは「八雲」という店で、皇太子殿下もいらしたことがあるそうだ。
 出雲そばはせいろの代わり、割子に盛られて出てくる。割子は何段か重ねられていて、それぞれ違う薬味が載っている。荒井が食べた三色割子は三段重ねになっていて、それぞれ山かけ、うずらのたまご、天かすが載っていた。喰うときは上からそばつゆをかけ、そのまま割子から啜る。

日御碕灯台 日御碕灯台から見る岬の様子
日御碕灯台と上から見た岬の様子。白い灯台と緑の入り江はどこを取っても絵になる。

 こないだ出雲に来たときは、さっさと松江市に行くことを考えていたので、出雲大社以外にはほとんど寄っていない。改めてあたりを見て廻った。
 歌舞伎の創始者出雲の阿国の墓を見物してから、引佐の浜に行く。海水浴の時期だからか、砂浜はきちんと片づけられ、こないだ来たときと比べてゴミの数が減っていた。さすがに地元の方々も、神話の海岸がゴミだらけではいけないと思っていたようだ。
 日御碕は風光に恵まれた岬で、真っ白で背の高い石造りの灯台が建っている。灯台は明治36年(1903年)にできたもので、この年にちょうど百歳を迎えたばかりだった。にもかかわらず43.63メートルという高さは日本一を誇り、もちろん今でも現役だ。灯台の中も見学できるが、高さのせいか、多くの人が息を切らしながら、急な階段を登っていた。上からは緑の山に囲まれた入り江、ふもとの国民宿舎やみやげ屋街など、岬の様子がよく見えた。
 岬のそばには日御碕神社があって、天照大神と素戔嗚尊を祀っている。出雲大社が国つ神を祀っているのに対し、こちらは天つ神を祀っている。出雲も日向同様、神話の舞台となった土地なので、各地に神話ゆかりの神社や名所がいくつもある。ちなみにさっきそばを食べた「八雲」の屋号も、素戔嗚尊の伝説にちなんでいる。

大根島 溶岩洞窟管理人の門脇さん
大根島と門脇さん。中海に溶岩由来の島があることは、ここに来るまで全然知らなかった。

 日本海沿いに東に走る。空気が澄んでいたせいか、海の向こうの隠岐まで見えた。しかし道は狭く、しかもわかりづらく入り組んだところもあって、時間がかかる割になかなか先に進めなかった。
 秋鹿というところの郵便局から、溜まった小冊子類を実家に送り返す。再び日本海沿いに東に走り、こないだ隠岐に渡った七類を経由して、隠岐から戻ってきた境港市に出る。さらにそこから中海を横断した。
 中海は宍道湖の東にある汽水湖だ。小さいにもかかわらず、江島と大根島(だいこんじま)という二つの有人島があって、これを橋脚代わりに、境港から対岸の松江に渡れるようになっている。特に大根島は町役場(注2)が一つ建っているほどの規模で、スーパーマーケットまである。そのスーパーマーケットで目玉焼き入り焼そばとアップルパイ、フルーツ牛乳を買い込み、駐車場で昼食にした。

 島には溶岩トンネルという珍しい洞窟がある。ふだんは閉鎖されているが、管理者に連絡すれば、中も見学もできるらしい。入口にある案内看板を読んでいると、中年の男に「見るなら案内しますよ。」と声をかけられた。この方が洞窟の管理人、門脇さんだった。
 実は門脇さんは、別の見学希望者の連絡を受け、準備してここにやってきたのだが、なぜかその見学希望者がどこかに行ってしまって見当たらなかったので、そのかわり、洞窟前にいた荒井に声をかけたらしい。棚からぼた餅とはいえ、案内付きで見学できるのはありがたいので、さっそく見学することにした。
 門脇さんが持ってきた長靴に履き替え、懐中電灯を片手に洞窟に入る。中は暗くひんやりとしていた。洞窟は「竜渓洞」といって、南北80メートルほどの長さがある。
 竜渓洞は、大昔に溶岩が流れた跡がそのまま洞窟になったというもので、龍泉洞のような、浸食によってできた鍾乳洞とは全く異なる。地面には溶岩が流れた轍状の跡や、溶岩が噴き出した跡などがくっきり残っていて、門脇さんが一つ一つ説明してくれた。
 小さな水たまりには、洞窟の中にしか生息しない珍しい生物が棲んでいる。環境に適応したのか、どれも例外なく白くて米粒より小さい。これがメクラエビ、ゴミムシ、コムカデですよと、水たまりの小さな生き物を指しながら門脇さんが説明してくれる。これら生物はいつでも見られるものではないようで、門脇さんは「見られるなんてラッキーですねぇ。」と言っていた。水たまりは珍しい生き物の宝庫なのだが、一般人にはただの水たまりにしか見えず、それと知らずに足を踏み入れて荒らされてしまうこともあるそうで、それが悩みの種であるらしい(門脇さん、その節はありがとうございました!)。

熊野大社
出雲国もう一つの一の宮熊野大社。かつては出雲大社と張り合うほどの勢いを誇ったらしい。

 門脇さんに礼を述べ、大根島を出た。そのまま松江を通過して、南にある八雲村(現松江市)に行く。ここには出雲国もう一つの一の宮、熊野大社がある。熊野といえば、紀州の熊野大社を思い出すが、ここの熊野はそれとは全く別の神社のようで、八咫烏の紋はどこにも見当たらなかった。

 どじょうすくいの安来節で有名な安来市を通り抜け、米子に出てきた。そこから山陰地方の内陸部を廻るため、国道181号線を走り出した。
 空も暗くなりかけていた。寝場所を探しながら走る。途中「ローソン」でのり弁当を買って夕食にした。道なりに走っていると、やがて農協の農機センターが見つかったので、そこに目立たないようテントを張った。向かいには線路が通っていたが、暗いから目立つこともないだろう。


脚註

注1・「アララギ」:短歌同人誌。正岡子規の門人、伊藤左千夫が1908年に創刊。1997年まで刊行される。斎藤茂吉は「アララギ」の同人として活動していた。

注2・「町役場」:当時の八束町役場。八束町はその後松江市と合併したため、役場は八束支所になっている。

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