やる気おじさん

蒜山
道中で撮影した蒜山。大山と並ぶ中国山地の名峰だ。

 空はやや霧がちで見るからに寒い。いつもどおりラジオを聞きながら撤収を始める。天気予報によれば関東や太平洋側は雨降りだったようだ。低気圧の前線は次第に北に寄ってくるという。夏だというのにこの寒さと日の差さなさ。去年の北海道や梅雨で身動きのとれなかった7月といい、何でこうも天気に恵まれないのかと恨めしくなる。
 走り出すと間もなく「ポプラ」が見つかったので、ツナサンドとオレンジジュースの朝食にする。田舎の山の方とはいえ、このあたりは山陽と米子を結ぶ街道筋で、高速道路も通っている。特に山陰きっての名峰、大山(だいせん)と蒜山(ひるぜん)に通じる観光路線でもあるため、ますます往来があるようだ。大山の南、江府町(こうふちょう)の江尾駅は、どこかのアルプスにでもありそうな木造のこ洒落た駅舎で、この界隈が全く鄙びているわけではないことがうかがえた。

 次第に青空が出てきた。駅のそばから国道482号線に乗り換え東に向かうと、あたりは高原らしくなってくる。ここが蒜山高原で、北の方には蒜山がきれいに見えた。休憩に立ち寄った道の駅の駐車場は、営業前にもかかわらず、中国地方各地のナンバーの車で一杯だった。ここで車中泊をしたのだろう。

 時間と道が非常によかったせいか、距離は稼げた。そういうわけで八時前には鳥取と岡山の県境、人形峠に着いてしまった。
 人形峠という変わった名は、その昔、峠に棲みつき悪さをする大蜂を、村人が人形を使って退治したという伝説に由来する。現在はトンネルで通過することもできるが、旧道もしっかり残っていて、自動車で難なく通れるようになっている。鞍部にはドライブイン(注1)や四阿などあって、休憩にもってこいだった。DJEBELを停めて日記を付けていると、どこからともなく小さな蜂が飛んできて、荒井の腕にちょっと留まってぱっと去っていった。大蜂の代わりに挨拶にでも来たんだろうか。

人形峠ウラン鉱床露頭発見の地記念碑
人形峠のウラン鉱床発見記念碑。ウランの発見は峠を大きく変えた。

 この峠を一躍有名にしたのは、なんといってもウランである。昭和30年、鞍部でウラン鉱床の露頭が発見されると、峠ではウランの採掘が始まり、製錬施設や処理施設、研究施設などが作られた。鉱山は30年ほど操業した後採掘を終え、主だった施設はあらかたその役目を終えているのだが、掘っていたものが掘っていたものだけに放置するわけにいかず、現在でも跡地や鉱滓の管理などがされている。鉱山入口は厳重な柵で入場が規制され、守衛まで立っていた。併設の展示館では、六ヶ所村のPRセンター同様、原子力に関する展示が見られる。辺鄙なところにあるのに客入りは上々で、荒井以外にも何人か見学者が訪れていた。
 展示館の前には、オオサンショウウオの生け簀もある。特別天然記念物、富永先生(注2)である。かつてこの一帯はオオサンショウウオの生息地だったそうで、数こそ減ったものの、現在でも若干数が生息しているという。だからここでもオオサンショウウオが保護飼育されているらしい。「特別」が付く天然記念物なら、イリオモテヤマネコと同じなのだが、センターに行っても生では見られないヤマネコちゃんと違い、こちらは四阿の下にやけに無造作に水槽があって、その中に数匹の川魚とともに、体長50センチを越える立派な奴が三匹ほど、鎮座しているのが間近に見られる。なんでも奴さんは80年から100年は生きるらしい。人間以上の長寿である。この水槽のオオサンショウウオも、荒井より年上かもしれない。オオサンショウウオは人間をどう思っているんだろう。

 峠を越え、佐治村(現鳥取市)のやる気地蔵に行った。ツーリングマップルには「行ってのお楽しみ?」とだけ但し書きが付いており、変わったものでもあるのかと気になったが、あったのは特に変わるところもないお地蔵さんだった。
 しかし、やっぱりお地蔵さんは変わった場所だった。授与所に行ってみると、禿げかけた白髪のご老人が挨拶してきたので、こちらも「日本一周の最中なんですよ。」と挨拶すると、「それはご苦労様!」と、休んでいくよう授与所に招き入れてくれた。
 このご老人が「やる気おじさん」こと、水野邦雲(みずのほううん)さんで、やる気地蔵の開祖である。相当に歳を召されているのだが、とにかく闊達自在、歳を感じさせないほど元気な方だった。
 住居兼の授与所は水野さんの手作りで、自らコンクリートを練り、ブロックを積み上げたものだ。居間の片隅には小さな棚があって、初老の女性の写真と位牌が置かれてあった。奥さまの遺影だろうか。
 せっかく来たのだからと、水野さんが昼食をご馳走してくれた。「残り物しかないけど、これでいいかい?」と、そうめんと冷や飯が並ぶ。そうめんには庭で採れる茗荷(みょうが)を刻み入れ、冷や飯は海苔をちぎって薬味がわりにする。食後にはコーヒーとカステラまで用意してくれた。質素だがありがたい昼食だった。

「やる気おじさん」こと水野邦雲さん
「やる気おじさん」水野邦雲さん。日本一周での忘れられない出会いの一つ。

 「私も昔、徒歩で四年間日本一周したことがあってね。だから日本一周の旅人には肩入れしてしまうんだ。」

 若かりし頃、水野さんは絵描きで身を立てようとしていたが、やがて虚しさをおぼえ、日本一周の旅に出た。当時はちょうど高度経済成長期のまっただ中、豊かさを求めて狂奔する日本の姿に憂国の念を抱いた水野さんは、帰った後、世間を挑発する前衛芸術を始めた。これが佐治の村長の目に留まり、村おこしのために招聘されることになった。
 村での暮らしは思うに任せぬことや腹立たしいことの連続だったが、逆境をはねのけ、「やる気地蔵」の建立、キャンプ場の創設、やる気祭りの開催など、水野さんは数々の試みを成功させていった。その取り組みは村おこし事業のさきがけとして、各地から注目されたそうだ。水野さんの創作は「やる気があればなんでも実現できる」という信念にもとづいており、それが「やる気おじさん」という称号の由来となっている。その意気を示すのが、やる気地蔵なのだ。

 話題が旅をする理由に及んだとき、「世間に閉塞感が漂っていると、それに敏感な人は、少しでも自分の見聞を広めようと思い立って、旅に出るもんだよ。」と、水野さんは自らの経験に照らし合わせて言っていた。
 日本一周を決心するずいぶん前から、荒井は海外よりは日本を見てみたいとおぼろげながらに思っていた。その理由を考えたことはあまりないが、おおむねこういうことだったと思う。
 荒井が中学生だった頃、世間はバブル景気の真っ最中で、海外旅行や舶来の高級品などが庶民にも身近になり、それらをありがたがる風潮ができていた。テレビや雑誌ではたびたび海外旅行が大きく採り上げられていたし、若い人が海外で高級な鞄だの財布だの宝飾品を買い漁っているという話もよく耳にした。
 しかし荒井はそういうものには縁もない田舎の中学生だったので、やっかみ半分、そうした風潮がそらぞらしくて、浮ついたものに見えていた。「自分が住んでいる国のことも知ゃねで外国さ行って、そんなに外国はいいどごなんだべが?」 自国のことも知らないで海外で浮かれるのは恥ずかしい。世界を云々しようとするのに、自分の周りのことを知らないのは情けない。何かと海外に流される風潮は格好悪い。思うに、日本は絶対思う以上に面白いところなんだ、と。
 もっとも、そうした考えは長いこと忘れていたのだが、それは未知なるものへ渇望、自分で知ることへの欲求として、荒井の頭の片隅に引っかかっていたらしい。おそらくそれが荒井のその後を決めたんだと思う。

 「何があるかはわからない。でもきっとすばらしいものが待ち受けているに違いない。それを自分で確かめに行こう!」 多かれ少なかれ、日本一周の旅人はそんな志を抱いている。世界はきっと面白いに違いない。それを確かめたくて仕方がないから旅に出るのだ。
 「日本という国は...」と憂う輩は、実際どれだけ日本のことを知っているのだろう? 日本という国はそんなに憂うようなことばかりなのだろうか? だったら自分の目で見て確かめるのが一番だと思う。

 水野さんに礼を言い、やる気地蔵を後にした。旅に出ていると、ときおりこうした市井の賢人に出会ったりするものだ。なかば偶然訪れたようなものだったが、これも日本一周の忘れられない思い出となった。水野さん、その節はありがとうございました!

伊和神社
播磨国一の宮伊和神社。森の中から開けたように社殿が現れた。

 国道29号線に乗り換え南に走る。県境を越えると「播州名産揖保乃糸」の看板が目立ってきた。さらに走ることしばらく、伊和神社(いわじんじゃ)に到着した。
 兵庫県西部と岡山県内陸東部は、それぞれ播磨と美作(みまさか)という旧国にあたるので、もちろんそれぞれに一の宮が建っている。山陰内陸巡り一番の目的は、これら内陸部の一の宮参拝だ。
 伊和神社は播州こと播磨国一の宮で、その名の通り、一宮町(現宍粟市(しそうし))というところにある。境内には一の宮らしく高い木がびっしりと茂っており、その合間に感じのいい拝殿が建っている。神社の向かいは道の駅だ。社務所の方にお話を伺うと、もともと道の駅は神社の駐車場だったらしい。参拝のついでに立ち寄るにはうってつけだ。

智頭急行宮本武蔵駅看板 宮本武蔵駅前の銅像
宮本武蔵駅の看板と駅前の銅像。さすがにタクアン和尚はいなかった。

 美作国一の宮中山神社がひかえる津山市は遠くもなかったが、今から行っても夕方には間に合いそうにない。明日行くことにして、テントが張れそうな場所を探しながら、近隣をうろつくことにした。
 県道を乗り継いで岡山県に出ると、「宮本武蔵」という名前の駅があるというので、見物に行った。ちょうどこの年はNHKが大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」を放送しており、ゆかりの土地は盛り上がりを見せていた。下関では週末になると、宮本武蔵と佐々木小次郎に扮した役者さんが巌流島で立ち合いを見せるという、巌流島決戦ショーなんてこともやっていた。
 宮本武蔵駅は智頭急行の駅で、宮本武蔵生誕の地のすぐ近くにあるからこの名がある。単線レールに木造駅舎がくっついただけの小さな駅だが、あたりは公園のように整備されていた。生家跡一帯にはみやげ屋が並び、「武蔵の里」の幟がにぎやかにはためいている。駅前には少年期の武蔵の銅像まであった。ドラマに合わせて作られたものらしい。有名人が出ただけでこうなってしまうのだから、おめでたいと言えばおめでたい。

 野宿場所はなかなか見つからなかった。田園地帯なのにライスセンターは見つからないし、役場は週末だというのに人気が絶えなかった。いちどきは英田のTIサーキットまで行ってみたが、山奥にもかかわらず、めぼしい場所は一つもない。結局その後もダラダラと走り続けた結果、夜の九時になって、国道沿いにようやく農協の施設を見つけたので、そこの隅っこにテントを張って寝た。


脚註

注1・「ドライブイン」:後で調べたことによれば、営業していない模様。

注2・「富永先生」:九州編1「九州最東端」参照。「お笑いマンガ道場」で、鈴木義司先生は富永先生を「オオサンショウウオ」と呼んでよくネタにしていた。

前に戻る文頭に戻る目次に戻るトップページに戻る次を読む