日本一周も行ってない県庁は北陸に4県、一の宮も10国を残すのみとなっていた。山陰を脱出した勢いでこのまま日本海に沿って東に進みたいところだが、その前にひとつ寄るべきところがあった。淡路島である。淡路島も佐渡島や隠岐同様、島自体が旧国なので、一の宮があるのだ。しかも淡路島は、今回の旅で渡る最後の大きな離島となる。淡路島は島巡りの総決算なのだ。
現在地は鳥取砂丘。ここからだと京都府まで行って、そこから瀬戸内海まで本州を横断することになる。この日は天橋立のある宮津市付近で切りあげるつもりなので、すでに宿はとっておいた。
物音がするので朝四時半に目が覚めた。野下さんが出発するというので、それにつきあう格好だ。いつもより30分ほど早いだけなのだが、まだ日は出ていない。
野下さんを見送ると、程なく吉田さんも出発していった。荒井も日が昇るに従い撤収する。皆さんとあれこれおしゃべりしていたせいか、キャンプ場を出たのは七時過ぎだった。
もう一度砂丘に行った。昨日は展望台から見ただけだが、砂地に下りてぶらぶら歩く。入口には駱駝がいた。砂丘観光用に業者が待機させているのだ。
馬の背と呼ばれる大きな丘まで行ってきた。昨日展望台から見た砂山だ。砂が日差しを照り返すおかげで、朝だというのに暑かった。しかも砂に足が取られて歩きづらいので、登るのに難儀する。丘のてっぺんから下を見ると、さらに向こうまで砂野原が続いていた。風が砂上に描く風紋が見られることもあるそうだが、夏の日差しにすっかり溶けて消えていた。
砂地の上には観光客が残していった落書きがあった。日本屈指の砂丘は日本一の砂場、誰しも童心に戻って砂遊びでもしたくなるのかもしれない。
朝食が買えそうなコンビニを探しながら走ったが、なかなか見つからなかった。山陰の海沿いには、コンビニはそう多くない。ところどころに「ポプラ」があるくらいで、全国区のコンビニは都市の近くにしかなかった。この界隈も例に漏れず、結局県境を越え、兵庫県の浜坂町(現新温泉町)の駅前に来るまで見つからなかった。ようやく見つかったのは地場の食料品店を改装したようなところで、売り切れたのか、サンドイッチの類は品揃えされていなかった。やむなくのり弁当とオレンジジュースを買って食ったが、こののり弁当が前代未聞だった。おかかのかわり、海苔の下にしそ昆布の佃煮が山盛りになっている。「しそ昆布はちょっとだからいいんだべずぅ。」とぼやきながら腹に収めた。
昨日までのはっきりしない雲はどこかに去り、全く気持ちのよい天気だった。道は海辺の断崖を迂回するように山の方を通り、緑の鄙びた道が続く。早起きしたせいか、やがて眠くなってきたので、余部灯台の四阿を借りて朝寝した。
余部灯台は名前だけなら知っていた。去年北海道の茂津多岬灯台で見たことがある。確か茂津多岬灯台が改装されるまで、日本で一番高い灯台だったところだ。
茂津多岬同様、高い断崖の上に背の低い灯台が建っていて、光源自体の標高は今でも日本一を誇っている。ところが灯台の高さは茂津多岬灯台の方が高いため、海面から灯台のてっぺんまでの高さでは、日本一の座を譲るわけだ。
灯台の近くにはもう一つ、日本屈指の名所がある。日本一のトレッスル式鉄橋、余部鉄橋だ。入り江の漁村の屋根をまたぎ、山から山へと細い鉄橋が架け渡されている鉄橋は、急な断崖が続くこの界隈を代表する風景だ。ところが老朽化が進んだおかげで新しく架け替えられることになったため、この風景が楽しめるのもあとわずかとなっていた。
このあたりは旧国では但馬(たじま)という。但馬有数の名勝、余部灯台と余部鉄橋の光景は、とうとう山陰を出て東に戻りつつあることをつくづく感じさせるものだった。
但馬の一の宮は二つあって、どちらもちょっと陸に入ったところにある。一度県境を越え、京都府に来たところで内陸に向かった。
そのひとつ、出石神社(いづしじんじゃ)は出石町(現・豊岡市出石町)近郊の山の麓にある。但馬の小京都を謳う出石らしいこぢんまりした神社で、境内ではひときわ鮮やかな朱塗りの門が目を惹いた。社殿そのものは大正時代に作られたものだそうだ。
神社は但馬国一の宮なのだが、戦後にはしばらく荒廃していた時期もあったそうだ。それが氏子さんの尽力によって少しずつ復興し、今日に至るらしい。社務所には誰もいなかったが、呼び鈴を押すとおばあさんが出てきたので、由緒書きを戴くことができた。
昼食は町内の「仙石」という店で、名物の出石そばを食べた。小さな皿にそばが小分けに盛られてあるのが特徴だ。皿五枚が一人前で、食べ足りなければ一皿単位で追加できる。食べ方は盛りそばと同じだが、ねぎ、わさび、たまご、とろろ、大根おろしと、薬味が何種類も付いてくるので、どれから食べてくれようかとひとしきり迷った。注文を取りに来た店員さんはなぜかみんな高校生のアルバイトで、やけに初々しくてぎこちない。夏休み中のお手伝いなんだろうか。
もうひとつの但馬国一の宮、粟鹿神社(あわがじんじゃ)は、出石からさらに陸に入った山東町(現朝来市)にある。 町のはずれのうら寂しいところにあって、境内には誰もいないから余計にうら寂しかった。社務所に「御用の方は向かいの宮司宅まで」と張り紙されてあったので、由緒書きをもらいに行ってみると、宮司さんの奥様か、丁寧な物腰の老女が出てきて応対してくれた。
帰り道、和田山町(現朝来市)にさしかかったあたりで夕立になった。近場のコンビニで雨宿りをする羽目になった。しかも店を出てから道を間違え、しばらく目指す方向と逆に走ってしまった。
そんなこんなで海沿いに戻る頃には夕方近くになっていた。寄りたい場所はいろいろあったが、宿の時間が差し迫っていたので、まっすぐ走るだけだった。城崎温泉、経ヶ岬、舟屋で知られる伊根、丹後半島の海岸線。どれも時間を取ってゆっくり見物したかったが、次第に日は沈み、あたりは暗くなってくる。せき立てられるように丹後半島を回り込み、宮津の宿にたどり着いたのは、夕食時刻ぎりぎりだった。
この日予約を入れておいたのは、宮津市にある天橋立ユースホステルだ。「あそこは食事が旨いよ!」という評判は、去年留萌のARFや滋賀の近江八幡ユースで耳にしている。秋口だったのでさすがにカニは出なかったが、それでもアジフライ、トマトとパイナップルのソースがかかったポークソテー、きゅうりと海草の酢の物、たまごスープと、噂どおりの夕食が並んだ。
この日は他二人と相部屋になる予定だったが、夕食が終わり、風呂に入って洗濯を片づけてもまだ来なかった。夜十時、日記も付け終わった頃になって、外で物音がした。遅れに遅れて相部屋の旅人がようやく到着したようだ。二人は大阪の単車乗りで、ツーリングでここまで来たらしい。あれこれおしゃべりをしたため、寝たのは十一時過ぎだった。
和食の朝食後支度をし、八時に宿を出た。今日は宮津から一気に本州を横断して明石に行き、そのまま淡路島に渡ってしまう予定だ。相部屋になった大阪の単車乗りさんによれば、一日で十二分にたどり着ける距離らしい。
まずは今日最初の目的地、丹後国一の宮籠神社(このじんじゃ)と天橋立に行った。どちらも宮津市内なので、天橋立ユースからは本当にすぐの距離である。
言うまでもなく、天橋立は日本三景のひとつである。松島は山形からは日帰り圏内なので荒井にもなじみが深い。宮島では鹿におびえながら一泊した。そして今や、残る天橋立にも来てしまったのだ。
神社は天橋立の近くにある。相当な名所に臨んでいるせいか、駐車場がやたら広くて有料だった。駐車場番のおじちゃんが神社の歴史に詳しくて、荒井にいろいろ教えてくれた。
「この神社は昔伊勢神宮だったこともあるんだよ。伊勢神宮のご神体が伊勢に鎮座する前、ここに4年ほど祀られて、さらにここから何度か遷座して、最後は伊勢の国に祀られるようになったんだ。」
伊勢神宮は昔から変わらぬ姿で伊勢にあるものだと思っていただけに、何度も遷座を繰り返した末、伊勢にたどり着いたというのは意外だった。これにちなんで籠神社は「元伊勢」を名乗っている。
神社の隣はみやげ屋が並ぶ門前街で、その奥にケーブルカーの駅がある。これに乗って神社の裏山の中腹、笠松公園に行ってみた。
宮津湾のあっち側からこっち側に松の生えた砂州が一本延びているのが見えた。籠神社はこっち側の根元にある。天橋立は皇祖神を生んだ伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が天と地を往来するために建てた梯子だったという伝説があって、籠神社の参道として利用されている。現に今でも足や自転車なら渡れるようになっていて、多くの観光客が行き交っていた。天橋立は籠神社と縁の深い名所なのだ。
ちなみに宮島の厳島神社は言うまでもなく、塩竃神社がある塩竃市は松島湾の一角にある。日本三景は、実は全部一の宮のお膝元だったりする。
宮津市内から府道で南を目指す。「酒呑童子の里大江山」という看板に興味を惹かれたので寄り道した。
大江山は鬼伝説が残る土地で、特に平安時代に京の都で暴れ回った鬼、酒呑童子のねぐらとして知られている。地元大江町(現福知山市)では鬼にちなんだ町興しに取り組んでいて、世界各地の鬼文化を紹介する「鬼の交流博物館」という施設を設けており、非常に見応えのある展示をしている。
山の中腹にある「鬼のモニュメント」が圧巻だった。「ウルトラマン」で、数々の印象的な怪獣を生み出した造形作家、成田亨(なりたとおる)氏が手がけた酒呑童子の銅像だ。
酒呑童子は実在の鬼ではない。都の繁栄の陰で重い負担を強いられた人々、辺境に追いやられた人々の不満や鬱積が、大江山に伝わる鬼伝説と結びついて生まれたのが、酒呑童子だと考えられている。後世の戯作では悪者にされている酒呑童子も、見方を変えれば虐げられた人々の代弁者だったのだ。酒呑童子は源頼光に毒を盛られて討たれた際、断末魔代わり「鬼はそんな卑怯な真似はしないぞ!」と頼光をなじっている。
共感するものがあったのか、成田氏は鬼に並ならぬ関心を示していたそうで、いくつもの鬼のスケッチを残している。その集大成が、日本最強の鬼を形どったこのモニュメントだ。モニュメントの酒呑童子は、その仲間茨木童子、星熊童子とともに力強く京の都を指さし、眼光鋭く睨みを利かせている。その姿は大江山の地から誇り高く自由を求めているようにも見える。
博物館から少し南に行ったところには、元伊勢神宮がある。籠神社同様、かつて伊勢神宮のご神体を祀っていた神社で、現在の伊勢神宮と同じく、内宮と外宮に別れている。どちらも鄙びた山間にあって門前街の類はなく、今伊勢の賑わいとはえらく対照的である。参道が急で、本殿に行くだけで汗だくになってしまった。
福知山市のコンビニでツナタマサンドとオレンジジュースを買って昼食にすると、瀬戸内海に向けてまた走りだした。
このあたりはちょうど本州の真ん中で、それにちなんだ名所が固まっている。
その最初となる栗柄峠は、一方がなだらかで反対側が急という見事な片峠だ。世にも珍しい谷中分水界で、あたりにはそれにまつわる名所などもあるようだが、先があったのでほとんど素通りしてしまったのが残念だ。
峠の先にある氷上町(現丹波市)には、日本一低い大分水嶺がある。町には親水公園や分水嶺の資料館が設けられ、峠好きや極点マニアにはたまらない場所となっている。資料館では学芸員のかわり、受付のおばちゃんがあれこれ説明してくれた。展示の目玉は復元された高瀬舟と、氷上町一帯の地形模型だ。
氷上町はちょうど兵庫県内の日本海側と瀬戸内海側を分ける場所にある。日本一低い大分水嶺の標高は94.5メートル。もし海面が現在よりも100メートル上昇すると、二つの海が氷上町で出会うため、ここを境に本州は東西に二分されてしまう。名付けて「氷上海峡」。模型はこれを再現したもので、スイッチ一つで水が出てきて、氷上町が海峡に変わる様子が見られるようになっている。
それはここを通れば険しい山越えをすることなく、瀬戸内海と日本海を往来できるということでもある(実際荒井もそのために通っているし)。兵庫県が日本海と瀬戸内海の両方に接しているのは、それゆえ双方の交流が盛んだったからとさえ言われている。町は二つの海の接点で、かつては文物の中継所の役割を果たしていた。荷物は加古川を介して氷上町に運ばれ、ここで積み替えられて、由良川でさらに日本海側へと運ばれていった。それに使われたのが高瀬舟なのだ。
日本一低い大分水嶺の界隈は、「水分れ(みわかれ)」と呼ばれていて、「水分れ橋」という橋が架かっている。その名前が「身別れ」に通じて縁起が悪いからと、嫁入りがあったとき、花嫁は橋を渡らず遠回りして花婿の家に行くことになっていたとか。日本一低い大分水嶺ならではの面白い話である。
加古川に沿って南に行くと、今度は西脇市に「日本へそ公園」というのがある。日本の中心を謳う場所は数あるが、ここの西脇市のは、東経135度の日本標準時子午線と、北緯35度の緯線が交わる場所だ。交差地点には「日本のへそ」の根拠となった、大正時代に建てられた経緯度交差点標柱が立っている。すぐそばには「日本へそ公園」という公園があって、しかも最寄り駅には「日本へそ公園駅」という名前が付いている。
日本のへそと日本一低い分水嶺、それに標準時子午線。この三つが狭い範囲に固まっているのは偶然なのだろうが、それにしても見事に集まったものだと思う。
そろそろ日が傾いてきた。向こうの空は灰色がかり、雲行きも心配だ。ひたすら国道175号線を南に走る。国道2号線に合流すると、見覚えのあるカワサキの工場があった。本州を横断し、対岸の明石市に出てきたのだ。