淡路島は瀬戸内海最大の離島で、その面積は佐渡島、奄美大島、対馬に続いて日本四位の広さを誇る。人口だけなら沖縄に次いで日本二位。京阪神は日帰り距離なので、往来が盛んなことも関係しているのだろう。
明石から淡路島に渡るにはフェリーか明石海峡大橋のどちらかを利用することになる。明石海峡大橋を渡るには2000円ほどの通行料が必要なので、フェリーの方が格段に安く上がる。それに島に渡るのならば、やっぱり船で渡る方が雰囲気が出る。
カワサキの工場から、淡路島への船が出るフェリー乗り場まではすぐである。フェリーは頻繁に出ているので待つ必要もない。
まずは腹ごしらえ、フェリー乗り場の手前にある「きむらや」という店で、名物の明石焼きを食べていくことにした。明石焼きはタコ入りの丸く焼き上げた玉子焼きで、たこ焼きの元になった食べ物だ。熱いのを塩かだし汁につけて口の中に放りこみ、ふうふういいながら食う。一人前は20個で、赤塗りの板の上にきちんと並べて出される。平らげただけで腹一杯になった。
橋はできたものの、料金の安さと便利のよさからフェリーはなかなか盛況だった。船から出てくる車も多ければ、乗り込む車も多い。船は「たこフェリー」の愛称で親しまれており、船体には大きなタコの絵が描かれてある。明石港から淡路島の岩屋港までは20分ほど。船内放送では河内家菊水丸の歌う「たこフェリー音頭」が繰り返し流され、短くも楽しい船旅を盛り上げている。
一番の見どころは明石海峡大橋くぐりだ。それまで遠くに見えていた橋が徐々に近づいて、むき出しの鉄骨や頑丈そうな橋脚を目の前にすると「でけぇなぁ」と見たままそのままの感想が漏れる。
橋をくぐれば間もなく島の北東、岩屋の港だ。乗っていた車や乗客が続々と吐き出され、荒井もそれと一緒に吐き出される。ついに淡路島にもやってきた。この旅最後の島国にやってきたのだ。
夕陽は沈みかけ、これから走り廻るにはもう遅い。島巡りは明日にして、島の外周を走りつつ、テントが張れそうな場所を探した。
右手には明石や姫路の街灯りがぽつぽつ灯り始めていた。沈みゆく夕陽の中、島の西岸をひたすら走る。西岸の道路は「サンセットライン」と呼ばれている。こんな具合に夕日を眺めて走る車が多いのだろう。
島だから野宿場所の一つや二つぐらい、簡単に見つかるだろうと楽観していたが、ここが京阪神の懐であることを忘れていた。島は本州と同じくらいに開けており、車の数も多い。幹線道路を走る限り、どこもかしこも車や人の気配が絶えず、安心して寝られそうな野宿場所が見つからなかった。日本四位の離島は日本一開けている離島だったのだ。
気が付けばあたりは真っ暗だった。なのに寝場所は見つからない。「どさあっぺ〜、どさあっぺ〜?」と不安になりながら走るうち、とうとう島の反対側、鳴門海峡に臨む一角まで来てしまった。
このまま野宿場所を探しながら、真っ暗な中全島一周達成というのも面白くない。ここで内陸の方を見てみようと一周道路から外れ、国道28号線に乗り換えた。
やはり日本第四位の離島、道のりは遠かった。暗いからなおさら遠かった。これだけ走れば好適地が見つかってもよさそうなものなのだが、なかなか見つからない。結局島の東岸津名町(現淡路市)まで来て、ようやく人気のない体育館を発見したときは、すでに夜の十一時近くになっていた。人目に付かないよう裏手にこっそりテントを張り、買い置きのカップ担々麺で夕食にすると、あとはとっとと寝るだけだった。
やれやれだぜと寝袋に入ってグースカ寝ていると、今度は人の声で目が覚めた。「あの〜、君はここで何をしているんだい?」 どうやら見回りに来たお巡りさんに、逃亡中の指名手配犯か不審者と思われたらしい。追い出されるかと思ったが、ひととおり職務質問と免許証の確認を終えると、「こんなところで野宿とは人騒がせだなぁ。」という表情を浮かべて去っていった。もっとも、男に迫られるより遙かにましではあるけれど。
淡路島は京阪神の一部である。この日はその事実を思い知る野宿となった。
道は昇ったばかりの朝日に照らされ、右手の海もまぶしく光っている。京阪神の大都会に近いから、島にはコンビニもあれば安いガソリンスタンドもすぐに見つかる。いつもどおりサンドイッチとオレンジジュースの朝食にありつくこともできれば、安上がりに給油することもできた。
岩屋を通過し、ひとまず島の大部分を廻ったところで、二周目突入だ。さっそく島に渡ってきた一番の目的、一の宮巡りに行った。
淡路国の一の宮は伊弉諾神宮である。名前のとおり伊弉諾尊を祀る神社だ。全国の一の宮はその土地の開拓神を祀ることがほとんどで、創造神や皇祖神を祀るところはほとんどない。ところがここ淡路国一の宮伊弉諾神宮は例外で、創造神伊弉諾尊を祀っているのだ。
「古事記」によれば、伊弉諾尊は伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに自凝島(おのころしま)に降り立って、二人で大地や森羅万象をこしらえた。そして最初に作ったのがこの淡路島だったと書いてある。伊弉諾尊はその後天照大神・月読命(つくよみのみこと)・素戔嗚尊に後事を託すと、淡路島に隠棲している。そういうわけで、淡路では伊弉諾尊を祀る神社が一の宮となっているのだ。神代からの由緒ある神社なのだが、神社として整備されたのは近代以降で、社殿は明治に建てられている。
神宮は一宮町(現淡路市)という町にあったのだが、播磨国一の宮伊和神社がある町も一宮町を名乗っていたため、兵庫県には一つの県に「一宮町」が二つあった。ところがその後町村合併によってどちらも名前が変わり、兵庫県の一宮町は両方ともなくなってしまった。
洲本市は島の中心地だけあって、商店や住宅が賑やかに立ち並んでいるが、近郊の洲本温泉のあたりまで来るとだいぶ静かになる。その先には離島らしい穏やかな風景が広がっていた。
人気のない山道を越えれば南岸に出る。そこからは左手に海、右手に高い断崖を臨む道が延々と続いた。ときおり漁村が現れるぐらいで、行き交う車はほとんどない。海は今にも手が届きそうなほど近く、空はこの上もないほど晴れ上がっている。そんな十何キロの道のりを、何も考えずに走るのは全く気持ちのいいことだった。やがてたどり着いた岬からは、昨日暗くて見えなかった対岸四国や大鳴門橋がくっきり見えた。やはり淡路は島だった。
島の中央を縦断し、一路北淡町(現淡路市)に向かう。淡路島の内陸は古くから人が住んでいたようで、北に戻るまで人の匂いのする集落や家並みが切れ間なく続いていた。
北淡町では震災記念公園を見学した。淡路ではぜひ見学したいと思っていたところだ。
なにかと神戸の被害に目がいきがちだが、正式名称「阪神・淡路大震災」のとおり、1995年の震災では淡路も大損害を被った。公園は雲仙のがまだすドーム同様、淡路の決意が込められたものだ。震災被害の伝承を目的としており、大震災の震源地、野島断層に設けられている。
一番の見物はその野島断層の現物だ。地面がものの見事に一直線にずれているところが150メートルに渡って保存されてあり、震災の猛威をこの目で確かめられるようになっていた。ずれた断層は片側が数センチも浮き上がり、断層の上にある塀や側溝も見事に断ち切られている。「こんた地面、『ドラゴンボール』かなんかで見だことあっつぉ?」 それはアニメか漫画に出てきそうな必殺技を喰らって変形した地面のようで、見事な作り物のようにさえ感ぜられたが、これは紛れもなく、自然災害が現実に作り上げたものだった。地面が一瞬でこうなるほどなのだから、その威力は相当に凄まじいものがあったのだろう。
震災直後の姿をそのままにとどめる民家は「メモリアルハウス」として残されており、家財が激しく崩れた台所の様子など見学できるようになっている。壁に掛かったカレンダーは1995年1月のままだった。
公園内には食堂や物産館もあって、地元の特産品を扱っている。昼食はここの蒸しあなご丼で、見学後には枇杷ソフトと蛸入りコロッケ「たこロッケ」を買い食いした。物産館の片隅で小一時間昼寝して、北淡町を後にした。
日はだいぶ傾いたが、テントを張るにはまだ早い。島の北にある立ち寄り湯「松帆の郷」で時間をつぶした。明石海峡に臨む高台にある温泉で、食堂の外に設けられた露台からは明石海峡大橋が見渡せる。立地のせいか温泉は大賑わいだった。どうせ暗くなるまでやることはない。露台に設けられた席に座り、明石海峡の夕暮れを眺めた。
夕焼けが次第に群青色に変わっていくと、明石や神戸の街灯りが賑やかになってきた。負けじと灯りだした大橋が海峡に浮かび上がる。大橋の灯りはたびたび青色から橙色、橙色からまた青色へと色を変えた。空はいよいよ暗くなり、群青色は深い藍色になる。日没のひととき、刻一刻と色合いを変える明石海峡の夜景。いつの間にやら露台には、立派な一眼レフカメラを三脚に据え付けた写真愛好家の方々が何人も陣取り、レンズを海に向けていた。
3時間ほど夜景を眺めて温泉を後にした。あとはテントを張って寝るだけだ。この日は伊弉諾神宮の近所によさげな農協の集配所を見つけていた。途中心細くなるような山道に迷い込んだりもしたが、だましだまし通り抜け、なんとか一宮にたどり着く。目立たないよう、陰の方にこっそりテントを張って寝た。
近所の「ローソン」でたまごサンドとオレンジジュースの朝食にする。このあたりには線香工場が多いらしく、朝からお香の匂いが漂っていた。淡路は日本有数の線香の産地でもある。ついでに玩具「吹き戻し」の生産量も日本一で、島には吹き戻し制作過程を見学できる工場もあるそうな。
淡路島も廻るべきところは廻った。岩屋から再びたこフェリーで明石に戻る。たった20分の航海、距離にして僅かな海峡を隔てているに過ぎないが、やはり島を出るときは、寂しくなる。しかもこれでこの旅で渡るべき島には全て渡ってしまったのだ。
この日は去年もお世話になった、大阪の長居ユースに泊まる予定だ。明石から大阪まではあっという間、夕方の到着予定時刻まではまだまだ時間がある。そこで往路で見ていなかった姫路城を見に行くことにした。
朝の通勤時間だけあって、姫路に向かう道は自動車で混んでいた。なかなか先へ進めず気ばかり急ぐ。単車の特権とばかりに渋滞する車の脇をすり抜けて先へ進んだが、それがいけなかった。途中、コンビニの駐車場に入ろうと左折した4tトラックに巻き込まれ、思い切り転倒してしまったのだ。
「こごまで来てまた事故がよ!」
頭が真っ白になった。あとはもう北陸を残すだけだというのに、こんな些細な自分の不注意で全てが無駄に終わるのか...達成を目前にして日本一周失敗。4年間こつこつ積み上げて、ようやく旅に出て、ここまで走ってきたというのに、いったい自分の努力は何だったのか? そんな思いが頭の中を駆けめぐる。運転手さんの「大丈夫ですか!?」という呼びかけも上の空だ。
気が動転しつつも、まずは被害状況を確かめる。さいわい双方怪我らしい怪我はない。トラックは頑丈らしく傷もほとんど付いていない。状況が見えてくると次第に落ち着いてくる。運転手さんとの話し合いの結果、これなら警察を呼ぶまでもないということになり、後は何事もなかったかのようにトラックは走り去っていった。
DJEBELは一応走れたが、気が付くと前輪のフォーク(注1)が歪み、ハンドルをまっすぐにしてもタイヤがまっすぐになっていなかった。スポークも二、三本曲がっている。クラッチレバーも折れている。すぐさま近所の二輪車屋に飛び込んだ。ここがカワサキのお膝元で助かった。その縁か明石市には二輪車屋が多いのだ。
直せるかどうか心配だったが、修理はあっけないほどすぐ終わった。トンカチで曲がったタイヤを叩いて歪みを直し、クラッチレバーを交換する。曲がったスポークは曲げ戻し、折れていたのは取り外す。ついでにチェーンに油も差してもらった。時間にして10分足らずである。
被害はたいしたことはなかったが、痛恨の事故だった。去年も伊勢で同じ目に遭って懲りているというのに、何でまた同じようなことを繰り返したのだろう。格好悪いことこの上ないし、全く自分が情けない。長旅では焦っているとろくなことがないということを、痛感する羽目になった。
情けないやら恥ずかしいやらで気分は重かった。おまけにシャツはボタンが一つちぎれてなくなっていた。「もうこごで引き返して、とっとと大阪さ行ぐべは...」とまで落ち込んだ。
だがこのままおとなしく大阪まで戻るのも非常に癪に障る。気が付けば「いや、こんた事故さまで遭ったんだ。意地でも見でやんねば気が済まん。やっぱ姫路城さ行ぐぞ!」とDJEBELに跨っていた。落ち込んでいたらますます泥沼に嵌ってしまう。こんなときは自らを奮い立たせるのが一番だというのは、これまでの旅の経験で身につけている。大丈夫、DJEBELはまだまだ走れるのだ。
かくして再びたどり着いた姫路城は、これまで見た中でも屈指の規模を誇る城だった。大きいのはもちろん、中も松本城や松山城と比べてだいぶ広い。日本有数の城は日本有数の木造建築だった。さすが国宝、世界遺産に指定されるだけのことはある。
ここではもう一つ、ちょっとした驚きが待っていた。四国は祖谷渓キャンプ場で花酒をご馳走してくれた、島根の単車乗りの片割れの方とばったり再会したのだ。「おや。祖谷渓で会った日本一周の方では!?」 今回はご家族と一緒に姫路城を見物に来ていたそうなのだが、そこでたまたま荒井と遭遇したらしい。「結局スーパー林道は通行止めでしたよ!」と後日談を聞かせてくれた。
「来ていがったなぁ。」 めげないで姫路城に来てよかったとつくづく思った。
すっかり気分も軽くなったところで東に引き返す。明石のたこフェリーの待合所売店でたこ焼きとサンガリアラムネを買って昼食にした。髪も伸び放題だったので、市役所の理容部に寄って散髪してもらった。
明石を出て大阪を目指す。見覚えのある須磨の浦、神戸、甲子園。未知なる西日本への憧れを抱えて走った道。「日本の西の果てさ行ぐんだ!」とまたいだ東経135度の子午線も、この旅ではもう踏むことがない。
そして前半最後の折り返し地点にして西への入口となった国道43号線と国道26号線の交差点に戻ってきた。ついに大阪まで戻ってきたのだ。
明石から大阪までは車が多く渋滞しがちで、長居ユースに着いたのは夕方五時過ぎだった。部屋に荷物を置くとさっそく地下鉄に乗って日本橋に繰り出した。こんな時でもレトロゲーム漁りは忘れない。CD1枚、攻略本を1冊、ファミコンソフトを3本仕入れたところで、前半に利用した「ポミエ」で夕食にしようとしたが、時間が遅くて閉店していたので、やむなく近所の「餃子の王将」で餃子と焼飯を掻き込んで済ませた。
ユースに戻り、相部屋の方々とあれこれ話をする。この日は沖縄出身の方が同室だったので、沖縄の話で盛り上がった。前に大阪に来たときは沖縄のことはよく知らなかった。それも今や自分の見聞となっていた。
注1・「フォーク」:フロントフォーク。前輪が取り付けてある部分。