八咫烏に願いを

八咫烏に願いを

 このまま京都まで行って、そこから北陸に出てもよかったが、思うところあって、再び熊野大社に寄り道することにした。
 山形に戻れば、荒井はまた日常に還っていくことになる。「旅が終わったらどうするか。」旅の最中漠然と感じていた不安は、着実に現実のものとなりつつあった。旅から戻ったら、今度自分は何を目指そう。おぼろげな夢はあっても、具体的な考えはないしどうすればいいかも分からない。ただ、紆余曲折はあっても、自分の信じた道を迷わずに進んでいけたら。日本一周が残り僅かになって、そんなことを考えるようになっていた。
 熊野大社の八咫烏は導きの神である。何とかの神頼みではあるが、これからも自分が迷わずに進んでいけるよう、いま一度熊野詣でに行きたいと思ったのだ。

 朝食はユースに頼んでおいた。相部屋の方々と話し込んだので出発は遅めで、ユースを出たのは九時近くのことだった。
 大阪から熊野大社までそう遠くないことは判っている。寄り道しながらのんびり走った。ユースの近くから国道309号線に乗り、水越峠で貴重な2%の山林地帯を抜け、奈良県に出た。週末だったが車の数は少なくて快適に距離が稼げた。去年も来た新庄町でネットカフェを利用してから、橿原市(かしはらし)の橿原神宮に寄った。

橿原神宮
橿原神宮。長旅の末、神日本磐余彦尊はここで神武天皇になった。

 橿原神宮は神武東征の終着点で、神武天皇とその妃を祀っている。日向の美々津の浦から出航した神日本磐余彦尊は大移動の末、八咫烏の導きを得てここにたどり着き、御所を設けて初代天皇「神武天皇」に即位した。神宮は初代天皇の功績を讃え、明治になってから御所跡に設けられたもので、広大な敷地と大きくて立派な拝殿を備えている。
 神日本磐余彦尊は八咫烏に導かれてここに来た。自分は導きを求めてここから熊野に向かう。雨の中見た美々津の風景が浮かぶ。上がりの地もまだまだ通過点である。

黒滝茶屋の柿の葉寿司
吉野名産柿の葉寿司。鮭が載っているが本来は鯖を使う。

 黒滝村の「黒滝茶屋」という店に寄って、柿の葉寿司の昼食にした。鮭の押し寿司を一カンずつ柿の葉でくるんだもので、このあたりの名物だ。柿の葉でくるむと、葉っぱの香りが移って風味がいいばかりか、殺菌効果もあるのだそうだ。

 県道に乗り換え国道168号線に出る。後半はじめの紀伊半島巡りで何度かお世話になった国道だ。たった四ヶ月前のことなのにずいぶん前のことのように思われる。見覚えのある紀伊半島のど真ん中、十津川村を縦断し、熊野大社に着いたのは午後三時過ぎだった。

 一度来たから勝手は分かっている。裏山に登って四つの拝殿に手を合わせた後、社務所でひとつお守りを買った。
 実は荒井は神頼みをしたところで都合よく加護が得られるとは思っていない。お守りの御利益というものもあまり信じていない。なのになぜ大幅に寄り道してまでまた熊野に来たのかといえば、それは自分の意志を確かめるために他ならなかった。
 「こうであるように。」 神仏の前でそう願うことは、「こうありたい。」「こうなりたい。」という願望や意志を、自分に対して今一度はっきりさせること、決心することだと思う。すがるためではない。願いを叶えられるだけの勇気や力を自ら引き出すため、願をかけるのだ。自己暗示といえばそれまでだ。だが、まず自分が叶えようとしなければ、何事も叶うはずがない。導きの神に導きを乞うということは、とりもなおさず自分は信じた道を進みたいという意思の表明でもある。だから荒井はここに来たのだ。
 御利益に期待するだけなら神頼みに意味はない。「なんとしても叶えるんだ。」 神仏の前で意志を固めることにこそ意味があるのだと思う。

熊野本宮大社八咫烏導守
熊野大社で買ったお守り。小さなお守りに自らの意志を託す。

 来るときにも利用した門前の「珍重庵」でもうで餅を食べ、さらに売店で八咫烏せんべいを買い食いしてから熊野大社を出発する。そろそろ日も傾いてきたので、テントを張ろうと瀞峡(どろきょう)近くのキャンプ場に行ってみたが、思わしい場所が空いてない上、食べ物が買えそうな店もなかったので、また別の場所に行った。
 ここからが長かった。野宿に良さそうな場所が見つからない。国道311号線を走り抜けて熊野市に出て、そこから国道42号線を北に走る。なのにどこにも見つからない。そのまま尾鷲市を縦断する頃には、陽はとっぷりと暮れていた。去年ここを走った事を思い出す。「まさがまだ同じ道ば、まだ同じように走るごとになるどはなぁ。」と苦笑した。
 紀伊長島町で「サークルK」に寄り、弁当を買って夕食にする。この弁当が凄かった。「びっくりのり弁」というもので、白身魚のフライとちくわの天ぷらはもちろん、ハンバーグ、コロッケ、焼きそばといった揚げ物炒め物が、ご飯が見えなくなるほど盛りつけられてある。これで430円(当時)。「大丈夫がサークルK?」とこちらが心配になってしまった。
 豪勢に食べれば元気になるもので、まだ走るぞという気が湧いてくる。野宿場所を探しつつ、さらに国道を遡る。道の駅はどこも人気が絶えないし目立ちやすかった。地図に載っていたキャンプ場も思わしくなかった。そんなこんなで走るうち、とうとう伊勢市の手前まで来てしまった。時間は十一時に近い。
 ここに来て野宿場所はあっけなく見つかった。大台町の国道沿いに、運動公園と公民館を合わせたような施設を見つけたのだ。裏手に目立たないようにテントを張り、ようやく安眠の地を得る。さんざん探し回った末、突然降って湧いたようにぱっと好適地が見つかるということが、貧乏野宿旅では本当にたびたびある。

忍者の里三度

上野市の観光案内看板
上野市にて。観光案内にも忍者が登場。

 寝たのは遅かったが起きるのは早かった。野宿の慣例で日の出とともに目が覚める。六時前には出発し、近所の「サークルK」でミックスサンドと牛乳の朝食にした。そういや頻繁に「サークルK」を見かけるようになった。いつの間にやら東海地方にまで戻ってきていたのだ。

 近くに来たならついでにと伊勢神宮に寄る。のんびりDJEBELを転がしたので、伊勢市に着いたのは八時前のことだった。
 ここ一年で伊勢神宮には三回来ることになった。かつてお伊勢参りは人生最大規模の行事だった。それを一年で三回。「やっぱり俺はものすごいごどばやってだんだよなぁ。」と思ったりする。そればかりか、今では元伊勢籠神社や元伊勢神宮にまでお参りしているのだ。
 外宮に参拝し、それから内宮に行く。朝から日差しが強かったので、境内では散水車が繰り出して水を撒いていた。お参りした後、実家へのみやげにお札を一つ購う。一心地つくと眠くなってきたので、休憩所で30分ほど横になった。目が覚めるとすっかり参拝客が増えていた。荒井が寝ていた隣にもおばちゃんの一団がいて、「横になってたけど、気分でも悪いの?」と気を遣わせてしまった。
 起きたところで伊勢参りのお約束、門前街をうろつく。「赤福」では気になっていた夏季限定商品「あかふく氷」を出していた。抹茶みぞれの底に赤福が埋まったかき氷で、白くまに負けず劣らず旨かった。氷の次は「ふくすけ」という店で伊勢うどんを食う。天気がいいからか、店では冷やし伊勢うどんがよく出ていた。

皇大神宮別宮月読宮
伊勢神宮別宮の月読宮。夜を統べる神月読命を祀る。

 昼も門前街で食べる予定だったので、もう少し日が昇るまで近所の月読宮に行った。月読宮は月読命を祀る神社だ。月読命は伊弉諾尊が生んだ神の一人で、天照大神や素戔嗚尊とは兄弟にあたる。ところが神話で大活躍する天照大神や素戔嗚尊と比べ、月読命には逸話もほとんどなく今ひとつ影が薄い。そういうわけでもなかろうが、境内は薄暗い森の中で、人とも出会わなかった。
 この月読宮も伊勢神宮の一部である。伊勢神宮といえば内宮と外宮を指す事が多いのだが、実際は内宮と外宮を中心とする大小百余りの社殿群の総称だ。近辺を廻ってみると、神宮に関係する神社や神饌田(しんせんでん・注1)を多数見つけられる。
 思うに、伊勢とは日本最初のテーマパークだったのではなかろうか? 一つところにさまざまな神々を祀る神社や歓楽街が集まっている様は、人気キャラクターにちなんだ見世物や売店が集まるテーマパークとどこか似ている。
 日本の団体旅行の源流は、江戸時代のお伊勢参りにあると言われている。当時の人々にとって伊勢神宮とは、東京ディズニーランドのような場所だったに違いない。逆に東京ディズニーランドが人気の修学旅行先になっているのはお伊勢参りの記憶がどこかにあるからだと考えると妙に面白い。
 門前街の「豚捨」で昼食にする。店では手軽に食べられるミンチカツや牛丼が人気だが、奮発して伊勢牛の冷しゃぶセットを注文する。伊勢牛は松阪牛の旧い呼び名だ。現在では松阪牛の名の方が有名になってしまったが、店ではかたくなに歴史ある伊勢牛の名を貫いている。その伊勢牛の冷しゃぶは、さすが奮発した甲斐のある味だった。人生三度目のお伊勢参りにすっかり満足し、伊勢を離れることにした。

赤福本店のあかふく氷 豚捨の伊勢牛冷しゃぶ
あかふく氷と伊勢牛冷しゃぶ。お参りが目的か門前街巡りが目的か。

 国道368号線で伊勢を出る。上野市のあたりも見覚えのある風景だ。そうだった。後半が始まって間もない頃、一度この道を通っている。確かあのときは香落渓経由で奈良の方に行ったのだった。
 この日は京都府の亀岡市まで行くつもりだったが、伊勢でゆっくりしすぎたので間に合いそうもない。こうなったら寄り道しようと、上野市内で「忍者屋敷」を見ていくことにした。
 上野が伊賀国の中心地で、かつては忍者の里だったということはよく知られている。市内には忍者を紹介する施設がいろいろあって、この忍者屋敷もそのひとつだ。正式には「伊賀流忍者博物館」の施設で、伊賀にあったからくり屋敷を上野城跡に移設したものだ。日曜だったこともあり、多くの見学者が訪れていた。
 忍者屋敷には忍び装束のガイドさんがいて、屋敷について説明しながら、鮮やかな手つきでどんでん返しや隠し扉、刀隠しなどをどんどん実演して見せてくれる。ガイドさんはいとも簡単そうに実演しているが、開け閉めをカッコよくキメるには、相当な練習が必要らしい。
 こんなからくり満載の屋敷が作られたのにはそれなりの理由がある。もともと伊賀では火薬の材料が採れ、伊賀忍者はその扱いにも精通していた。鉄砲伝来以来火薬の必要性が増すと、伊賀の火薬技術は周囲から狙われ、これを奪いに来る賊も数多かった。こうした輩から身を守るため、こんな屋敷が作られるようになったのだという。
 その他にも併設の資料館では、手裏剣や忍び道具の実物が見られるようになっている。売店ではみやげ用に手裏剣まで売られていた。誰か投げる奴いるんだろうか。

 この日は早めにテントを張る事にした。上野市から国道163号線で少し西に行ったところ、笠置町で木津川のほとりに絶好のキャンプ場があったのでそこに転がりこむ。明るいうちに地獄炊きとカレーを作って夕食にした。
 日曜だけあって、あたりは日帰りキャンプの若者や家族連れで賑やかなものだった。それはいいとして、近場の中年キャンパーの一団が、ギターを鳴らしながら次から次へとアリス(注2)やらかぐや姫(注3)やらを、下手な調子で歌うのは勘弁して欲しかった。

北陸への旅立ち

 さっさと撤収して出発し、近場の「サンクス」でツナサンドとオレンジジュースの朝食にした。旅の最中何度も食べたこの朝食も、食べるのはあと何回なのだろう。
 鄙びた田舎道の風情が残る国道163号線から国道24号線に乗り換えると、風景は途端に大都市圏らしくなった。上りも下りも車であふれている。国道24号線は奈良市と京都市をつなぐ幹線国道だ。朝の通勤時間でもあったから、仕事で京都や奈良に向かう車が集まってきているのだ。

上賀茂神社の立砂
上賀茂神社の立砂。神社の御神体、京都近郊の神山を象ったもの。

 京都市に来たついで、去年も来た神社にいくつか寄っていく。最初に行ったのは伏見稲荷だ。あれから修復工事でも始まったのか、鳥居と神門は工事用の足場ですっぽり覆われていた。雀でも食べていきたいところだったが、夏場で季節でない上、朝早いから店もまだ開いていない。拝んで帰るだけにしておいた。
 次に寄ったのは上賀茂神社だ。賽銭用に小銭を捻出するため、門前で名物やきもちを買って食う。神社も二回目だから、あれこれ余裕を持って見物できる。競馬神事が開かれる広場、みたらし団子の語源になった御手洗川、一対の立砂。今回はデジカメ持参だから、あれこれ写真も撮っておいた。
 下鴨神社の拝殿前には、妙にモダンな新しい授与所ができていた。去年の工事はどうやらこれを作っていたらしい。あのときは日本半周達成が目前だった。あれから九ヶ月。今度は日本一周達成が目前だ。

 京都は大都市なので脱出には時間がかかる。亀岡市の出雲大神宮に着いたのは昼を過ぎた頃だった。
 出雲大神宮は丹波国一の宮で、京都市からもそう離れていない。去年京都巡りのついでに行くこともできたのだが、周りそびれて今年来ることになってしまった。
 神社は名前のとおり、出雲大社と同じく大国主命を祀っている。丹波は近畿と山陰を往来する道筋にあたるため、古くから大和と出雲の文化の接点となってきた。そういうわけで、出雲の名を戴く神社が丹波国の一の宮になっているらしい。また、神社は元伊勢同様、元出雲を名乗っている。曰く出雲大社の大国主命は、もともとここに祀られていたのを分祀したのだとか。それゆえに神社の歴史は出雲大社より古いと言われている。境内はそう広くないが、池があったり、清水が湧き出していたりとのんびりするのに非常によさそうだ。

出雲大神宮
丹波国一の宮出雲大神宮。丹波国は畿内から日本海への出入り口にあたる。

 鳥居の前の露店では、おばちゃんが飴やらせんべいやらを売っていた。ここでもおばちゃんに「長旅は大変だねぇ。気をつけて!」と励ましてもらった。
 さっきも上賀茂神社で、焼き餅屋のおばちゃんや神職の方に「がんばって!」と励ましの言葉をかけてもらっている。旅に出てからこれまで、たくさんの場所で数えきれないほどの人から励ましてもらった。こんな風に声をかけられるのもあとわずかとなった。ここから再び宮津に出れば、ついに日本一周最後の舞台、北陸地方での旅が始まるのだ。


脚註

注1・「神饌田」:神に供える米を作る田んぼの事。

注2・「アリス」:谷村新司・堀内孝雄・矢沢透によるフォークグループ。70年代に活躍した。「冬の稲妻」「チャンピオン」などヒット曲多数。81年に解散したが、その後もたびたび三人で活動している。

注3・「かぐや姫」:南こうせつ・山田パンダ・伊勢正三によるフォークグループ。70年代前半に活躍した。代表作は「神田川」。こちらも解散後、たびたび三人で活動している。

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