全県踏破達成

百万石の県庁

東尋坊 救いの電話の看板
福井の名勝東尋坊。荒々しい岩場は人を寂しくさせるのか。

 手近なコンビニでいつもどおりツナタマサンドとオレンジジュースの朝食にした後、東尋坊を目指した。

 日本海に突き出した荒々しい柱状節理。一言で言えばそれが東尋坊だ。福井県屈指の名勝で、周囲には観光客相手の展望台や食堂などもある。多くの人が訪れるだろうことがうかがえたが、この時はまだ朝早くて、荒井の他に人は誰もいなかった。
 柱を束ねたような大岩は、海から鋭くせり上がってきた舞台のような形をなし、アクションRPGのボス戦にでも出てきそうな雰囲気だ。あるいは「土曜ワイド劇場」(注1)の山場で、追いつめられた犯人が独白でもしてそうな。もっとも、実際は観光名所なのだから、独白なんてできるような場所ではないだろうけど。
 東尋坊は自殺の名所としても知られている。名古屋ユースで会った福井の単車乗りさんもそんなことを言っていた。切り立った断崖は相当に高く、しかも下は痛そうな岩場や冷たそうな日本海だから、落っこちたらただでは済みそうにない。何とか思い留まらせようと、岩場の遊歩道には「命を粗末にするな」という看板や、早まる前に電話しろと言わんばかりに電話ボックスが建っていた。

 東尋坊を出ると、しばらく海の見えない道が続いた。このあたりは県道や国道が入り乱れ、海岸線沿いの道というものがない。気が付けば福井県を出て石川県に入っていた。これで足を踏み入れていない県も残るはひとつ、富山県のみになった。都道府県巡り、ついにリーチである。

安宅住吉神社 安宅の関の弁慶像
安宅住吉神社と弁慶の像。七代目松本幸四郎を参考にしたという弁慶像が男前。

 「勧進帳」で有名な安宅の関(あたかのせき)は小松市にある。
 頼朝に追われ、源義経は武蔵坊弁慶ら僅かな家来とともに、山伏に扮して奥州への逃避行を続けていた。その途上、当地にさしかかった一行は、関守富樫左衛門に見咎められる。弁慶は「我々は勧進のため諸国を廻っている山伏だ!」と嘘をついて追求を逃れようとしたが、富樫は一行の正体を見破っていた。ところが弁慶はここで機転を利かせ、「お前が義経に似ているからいけないんだ!」と、心で泣きながら義経を金剛杖で打ち据えるという、必死の芝居を打つ。富樫はそこまでして主君に忠義を尽くす弁慶の姿に心打たれ、騙されたふりをして一行の通過を許したというのが「勧進帳」のあらすじで、判官贔屓の物語として広く世間に知られている。
 安宅の関はもともと住吉神社の境内で、松の茂る一角には今でも社殿がある。住吉神社だから摂津一の宮と同じ神様を祀っているのはもちろん、「勧進帳」にちなんで難関突破の御利益を謳っている。お参りすると「神社の紹介をしますからいかがですか?」と巫女さんに社殿に上がるよう勧められ、そのまま説明を聞くことになった。巫女さんの案内はやたら手慣れたもので、「勧進帳」の謡の一節までそらんじてみせた。気がつけば団体客も上がり込んで説明に聞き入っている。どうやらここは相当な数の人間が訪れる名所のようだった。

石川県庁新庁舎模型 石川県庁食堂の昼食
模型があったので一枚。「人々が集い親しまれる県庁」を掲げる新石川県庁でさっそく昼食。

 松井秀喜選手の出身地、根上町(ねあがりまち・現能美市)を抜け、金沢市に入る。地図を頼りに県庁に行ってみるが、あったのはかつての旧庁舎で、使われている気配がない。あわてて新庁舎に行ってみると、これがまた真新しくて背の高い立派な建物だった。
 旧県庁は街の中央、金沢城の隣にあるのだが、老朽化か手狭になったのか、郊外への移転が進められたようだ。新庁舎はこの前年に竣工したばかりで、当時で日本一新しい県庁だった。
 それだけに県庁食堂も、新しい県庁ではおなじみのカフェテリア式である。旨そうだったので、日替わりのネギトロ丼を中心に、豚肉ザーサイ炒め、きんぴらごぼう、味噌汁、それに食後の果物まで盆に載せる。カフェテリア式は旨そうなものがあるとあれもこれもと欲張ってしまうので、つい食べ過ぎになる。特に食堂が新しいところは献立にも力を入れているのでなおさらだ。

白山比め神社
加賀国一の宮白山比め神社。山の神様は漁民にも崇敬篤い。

 「加賀百万石」の言葉で知られるとおり、石川県の南部は旧国では加賀国に当たる。その一の宮、白山比め神社(しらやまひめじんじゃ・注2)は、金沢市の南、鶴来町(つるぎまち・現白山市)にある。
 神社は石川県の南にある高峰、白山を御神体として祀っており、全国にある白山神社の総本社でもある。神社は山岳信仰に端を発していると思われるが、一方で大漁満足の御利益もあるので漁師の崇敬を集めている。授与所ではお守りやお札と一緒に、大漁旗まで売られていた。

千里浜
千里浜を走る。能登半島から世界を夢見る。

 金沢に戻り海沿いの道に出る。目指すは日本海側最大の半島、能登半島だ。金沢から能登半島の根元、羽咋市(はくいし)までは締まった砂浜が続き、車で走れるようになっている。ところどころでこぼこだったり、砂の深いところもあったりで、慣れない砂にハンドルを取られつつ走った。これまで旅を続けてきたが、砂浜の上を走るのは初めてだ。
 傍らには風紋が描かれ、轍は砂浜のずっと先まで延びている。サハラやタクラマカンも、こんなかんじなのだろうか。「いつがは大陸ば走れっぺが?」 ゆくゆくは世界一周なんてどうだろう。砂漠から日本はどう見えるだろうか。石川県の砂浜を走りつつ、いつか行くかもしれない大陸のことを考えたりした。

 羽咋市には能登国一の宮、気多大社がある。夕方だったので社務所は既に閉まっていた。参拝は翌日に回して軽く下見だけして、近場で野宿することにした。昨日と同じく市内の「8番ラーメン」でえびワンタン麺の夕食にし、あたりが暗くなってから人気のなさそうな野宿場所を探す。この日は街の郊外で適当な集荷場が見つかったので、ここにテントを張って寝た。

能登かわいいよ能登

 半島の名前になっているとおり、石川県の北部は能登という旧国だった。この日最初の目的地は、昨日下見した能登国一の宮、気多大社だ。いつもどおりに起きだして、コンビニで調理パンとオレンジジュースの朝食を済ませ、早々に神社に向かった。

気多大社 気多大社の三井宮司
気多大社と宮司さん。数ある一の宮でも気多大社は女の子と一緒に来るにはうってつけだろう。

 朝早いからまだ社務所は開いていなかった。これでは由緒書きがもらえない。境内を見物しながら開くのを待つことにした。
 気多大社は出雲大社と同じ大国主命を祀っており、縁結びで評判だ。かつては加賀百万石の将、前田利家とその妻まつも、この神社にお参りしたことがあったとか。これだけならどこにでもある歴史ある縁結び神社なのだが、気多大社は他とはひと味違っている。それは若い女の子向けの、積極的な喧伝を欠かさないのだ。
 神社は女の子に受けそうな仕掛けをあれこれと用意している。まず絵馬は大きなハート柄があしらわれた恋愛成就以外に何を書いたらいいのか迷ってしまいそうなものだし、本殿の隣には縁結び専用の祈祷殿まである。正月が近づくと「幸娘(ゆきむすめ)」こと、正月限定の巫女さんを一般公募しているらしい。初詣で忙しい時期のバイト巫女と言ってしまえばそれまでだけど。
 ともあれこうした努力の甲斐あって、神社は若い女の子が読むような雑誌でも採り上げられ、恋が叶う神社として、全国の恋多き乙女たちに知られているらしい。

気多大社由緒記
気多大社の由緒記。面白いが巻物なので収納にちと困る。

 待っていると境内を掃除していた貫禄のあるご老人が話しかけてきた。話をしてみると、なんとこのご老人こそ、気多大社の宮司さんだった。「一の宮巡りをしてるのか。他の神社はきちんと掃除されてたかい? 境内を清めるということは、自身を清めることでもあるんだよ。」 
 女の子受けを狙う路線には地元の反発も多いようで、神社の前には「宮司は退任せよ!」なんて物騒な看板もあった。まぁ、人間とは縁結びの神のお膝元でも仲良くできないものなのかもしれない。宮司さんは渦中の人物なのだが、話した限りはまじめに職務に取り組む好人物だった。そのうち社務所も開いたので、由緒書きを戴く。気多大社の由緒書きは小さな巻物仕立てで、これまた女の子が喜びそうだった。

猿山岬灯台 女滝
数ある能登の名勝のひとつ、猿山岬灯台と女滝。晴れてればよかったのに!

 昼になっても空は全く灰色でおまけに寒い。こういう時は意気が上がらない。しかも海沿いに走っていくつもりが途中道を誤って内陸を延々と進んでしまい、大幅に後戻りする羽目になった。景気づけに何か食べようと「ファミリーマート」に駆け込み肉まんを買う。まだ9月にもなっていないというのに肉まんが恋しくなるというのはどういうことなんだと、空に向かって悪態をついた。
 能登半島の西側には荒々しい断崖が多く、観光の目玉になっている。ところがこの天気ではあまり見物しようという気も起きず、鷹の巣岩や猿山岬を少し見た以外は、淡々と走るだけだった。
 輪島市は朝市や漆器で有名だが、昼をだいぶ過ぎて朝市はとっくに終わっていたし、漆器も特に必要ない。結局市内の「8番らーめん」で油そばを食べただけで後にした。街並みなど旧いものが残っていて、見て歩けば面白いのだろうけれど。

白米千枚田
白米千枚田。ここまでして米を作った先人に脱帽。

 能登半島の北岸を東に進んでいると、道端に見事な千枚田を見つけ、DJEBELを停めた。海のそばまで迫った急斜面に、小さな田んぼが何枚も、棚のように並んでいた。
 棚田は農機も使えず、はなはだ生産性が悪そうに見えるのだが、棚田は棚田で合理的にできている。まずは上から下に順序よく水が廻っていくので、非常に効率よく水が使える。毎年上の田んぼを少し崩して土を下の田んぼに混ぜてやれば常に土が入れ替えられる。斜面だから日当たりもいい。何よりこうすれば急な斜面でも米が作れるなど、大規模な田んぼにはない利点も多いのだそうだ。
 こんなところにまで田んぼを作った先人は、一体どんな気持ちだったのだろう。先人の智慧というものはよく吟味してみると、小賢しい理屈や小手先の技術よりも理に適っているものなのだとつくづく思った。

禄剛埼灯台 日本列島ここが中心碑
能登の先端禄剛埼にて。能登の先端も日本の中心だ。

 やがて能登半島の先端、禄剛埼(ろっこうざき)にたどり着いた。岬一帯は大きな漁港を抱えた漁師町だ。灯台のある丘には漁師町の片隅から登っていく。灯台公園は年に一度の祭の最中で、小学校の吹奏楽隊が本番前の練習をしていたり、模擬店が店開きしている。それに合わせて灯台も一般公開されていた。禄剛埼の灯台は背の低い石造りだが、建っている場所が高いから見晴らしは非常によい。残念なのはつくづくこの天気だった。
 禄剛埼は日本の中心の一つでもある。ここのは日本の重心点だ。国土地理院の計測によれば、日本の重心は能登沖にある。そこに一番近い陸地がここだから、禄剛埼も日本の中心を謳っているというわけだ。

 これまで日本の中心という場所はいくつも見てきたが、どの中心にも明るさとひょうきんさが漂っていた。それは「日本の真ん中」が「おらが町こそ日本一!」という郷土愛に裏打ちされているからではないだろうか?
 どの中心にもちゃんとした根拠があって、それぞれに日本の中心であることを主張している。どれが本物でどれが偽物かというものではない。どれも本当の日本の中心なのだ。そうした中心が日本の各地にある。なんでもない村、なんでもない港、なんでもない街角にも、日本の中心がある。そう思うだけでも、日本という国が面白くなってこないだろうか?

 禄剛埼を辞して、能登半島の東岸に回り込む。能登半島の先端、珠洲市(すずし)の近辺では、「コンロ・七輪販売中」といった看板をよく見かけた。それというのも一帯は珪藻土の一大産地で、昔から珪藻土を利用した七輪やコンロの製造が盛んらしい。市内には珪藻土の資料館まである。
 空の色はさらに陰鬱さを増し、道も狭くてなかなか距離は稼げなかった。東岸の中ほど、中島町(現七尾市)まで来るととうとう雨が降りだした。合羽を着込み、隣の田鶴浜町(現七尾市)にさしかかると、あたりはもう真っ暗になっていた、
 こんな夜は意気も上がらない。「ファミリーマート」でネギ塩豚カルビ丼を買って夕食にしたが、今ひとつ気合いが入らない。こういう時はさらに喰うに限るとまたまた近場の「8番らーめん」に寄って、ギョーザセットで夕食をやりなおした。

 腹が一杯になったおかげか、もう一踏ん張りしようという気になった。能登屈指の温泉街、和倉温泉の夜景を見ながら能登島を目指す。能登島町(現七尾市)の役場近くまで来たところで、デイサービスセンターという施設が目に入った。ここの駐車場がちょうど屋根付きで、姿を隠すのにも都合がよかったので、ここにテントを張ることに決めた。


脚註

注1・「土曜ワイド劇場」:テレビ朝日系のテレビ番組「土曜ワイド劇場」のこと。

注2・「白山比め神社」:Shift-JISで「め」の字が使えないためやむなくひらがなで表記。「め」には口偏に羊(白山比咩神社)という漢字をあてる。

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