雨がしのげる場所だったのでテント泊は快適だったが、外はあいかわらず小雨がぱらついていた。こういう時はテントを畳む手も遅い。気が付けば8月最終日、冬でもないのに夏は今遠く遙か向こうだった。
撤収後、能登島を一周した。能登島は七尾湾にある小島だ。全体的に鄙びたところで、ざっと廻った限り大きな商店の類はなく、観光と農業が中心の島らしい。少し前までは海水浴客で賑わったのだろうが、秋を目前にした今、人の姿はまばらだった。
島は二本の橋で能登半島と結ばれ、車で渡れるようになっている。そのうちの一本「ツインブリッジのと」は二連の斜張橋で、しまなみ海道で何度も渡った多々羅大橋を思い出した。あれからだいぶ山形に近づいたものだ。
この旅では数々の島に渡った。佐渡、南紀大島、しまなみ、宮島、周防大島、奄美、沖縄、八重山、天草、五島、壱岐対馬、隠岐、小豆島、淡路。本土とは異なる空気、風土、文化。島ごとに異なる個性。どの島にも渡るたび、日本にこんな場所があったのかと驚いた。日本一周に異なった視点を与えてくれた島巡りも、ここ能登島をもって終わりとなった。
能登島大橋たもとの「ローソン」でツナサンドとオレンジジュースの朝食にする。そこから七尾市を抜けて氷見市(ひみし)に向かった。七尾市は石川県で、氷見市は富山県にある。当然ながらその間には県境がある。雨の中七尾市の海岸を南に走っていると、やがて「富山県」の標識が見えてきた。全都道府県でこれまで一度も足を踏み入れていない、最後の県である。
この旅では何度県境を越えただろう? 日本一周初日、山形と秋田の県境を越えた時のことをよく覚えている。「これがら何度も県境ば越えで、日本中さ行ぐんだ!」 未知へと踏み出す第一歩。この道の先にはいったい何があるんだろう。県境を越えるたび、そんな期待が押し寄せた。もっと知りたい、もっと先が見たい。そうしていくつもの県境を越えながら日本一周は進んでいった。全都道府県踏破。それは日本一周の大きな目標の一つだったのだ。
雨が降りしきる中、件の標識は徐々に近づいてくる。走りながら、近づいてくる県境を待ちかまえる。頭は妙に冷めていた。そして越える県境。標識の先は富山県。全47都道府県、ついに踏破達成である。
県境を越えても、しばらく頭は冷めていた。そりゃそうだ。ただ道を走っているのはいつもと同じで、誰かが祝福してくれるわけでもないのだから。しばらくしてから「あぁ、とうとうやったんだ!」という感慨がこみ上げてきた。
全ての都道府県に足を踏み入れる。それは多くの日本人が憧れるところだろう。しかし実際に叶えようと努力する人はどれほどいるだろうか? 日本一周するならば、全ての都道府県を訪れたい。そう願って努力した結果、自分はとうとう叶えてしまったのだ。日本に47の都道府県があることは小学生でも知っている。ところが今や、荒井はそれを自分の力で確かめてきたのだ。「日本さは本当に47の都道府県があって、それぞれに異なった色ば見せでるんだ!」 実感をもってそう言える。それがたいそう嬉しかった。
頭は冷めていたんじゃない。去来するものが多すぎて、何を考えていいのか判らなかったのだ。きっと。
全県踏破を果たしたものの、雨は飽きることもなく降り続いている。氷見市内でネットカフェを見つけると、雨宿りがてら逃げ込んだ。
こうも雨降りだとあまり走りたくないが、廻るべき場所は多かった。それというのも富山には一の宮がやたら多い。しかもこの日は日曜日だった。明日には富山県庁に行きたかったので、今日中に廻れるだけ一の宮を廻ってしまいたかったのだ。一の宮巡り最後の大関門だ。ネットカフェで一息ついたら、さっそく一の宮巡りの開始である。
富山は旧国では越中国にあたる。そう広くないにもかかわらず、一の宮は四社もある。さらにそのうち一つは社殿が3つに分かれているので、全部廻ろうとすれば実質的に六社を廻ることになるになる。こうなった歴史的背景はよく知らないが、一国に勢力のある神社がいくつかある場合や、国内に複数の勢力が割拠していた場合、一の宮も複数あることが多いと言われている。一国に4つも一の宮があるのだから、越中国はよほど複雑な歴史をたどってきたのだろうか。
さいわいにして越中国一の宮四社のうち、三つは高岡市の近くにある。
最初に行った気多神社は、名前のとおり能登国一の宮気多大社を当地に勧請したものだ。かつて能登は越中の一部で、気多大社が一の宮となっていたのだが、能登が越中から別れると、気多大社は能登一の宮となったので、そのかわり越中に新しく気多神社を造ったのだと伝わっている。
神社は海にほど近い山腹にある。祭神も気多大社と同じ大国主命で、縁結びに御利益があるのも同じなのだが、さすがにハートの絵馬や巻物形の由緒書きはなく、女の子がいる気配もない。社務所にいたのはおばちゃんで、やけに恐縮した様子でA3版の紙に刷られた大きな由緒書を授けてくれた。
次なる一の宮は射水神社(いみずじんじゃ)だ。神社は高岡市の中央、高岡城址にある。高岡市近郊にある二上山を御神体として祀っており、古くから崇敬を集めていたことがうかがえる。ひどい雨にもかかわらず、境内には子供の百日参りに来た一団がいて、何枚も記念写真を撮っていた。この雨では参拝も思うに任せまい。
三つ目の一の宮、高瀬神社は高岡市からちょっと南に行った井波町(現南砺市(なんとし))、田んぼの真ん中にある。このあたりは古くから人が住んでいたようで、近所の遺跡からは土器や古銭が出土することもあるそうだ。立派な社殿は昭和時代に建てられた。当初は国費で造営されることが決まっていたのだが、途中で終戦を迎え国費での建設が中断となっていたところ、氏子達の熱心な支援によってついに完成したという逸話がある。神社は古代から現在に至るまで、この地に住む人々の心のよりどころとして発達してきたのだろう。
高岡は古くから越中の主要都市として栄えてきたようだ。三つも一の宮が集中しているのはその証拠だろう。現在も富山県西部の主要都市であるようで、市内には路面電車まで走っていた。
高岡への帰り道、源平の合戦で知られる倶利伽羅峠(くりからとうげ)を見物した。峠には角に松明をくくりつけた牛の像がある。倶利伽羅峠の戦いで活躍した源氏の武将木曽義仲の奇策、火牛の計にちなんだものだ。
倶利伽羅峠では平維盛と木曽義仲が激突した。火牛の計とは角に燃えさかる松明を付けた牛を山中に放ち、混乱に乗じて敵を討つという奇計だ。計略はまんまと成功し、義仲はこの戦いで維盛率いる平家の主力軍を潰走させている。
ところが義仲の最期は寂しいものだった。その後義仲は人心を失い朝廷から疎んぜられ、仲間であるはずの源氏からも追討される身になってしまう。僅かな家来を残して手勢も失った義仲は、宇治川で最終決戦に臨むが結果は判りきっていた。名誉の自害を選ぼうとしたが、果たせず討ち取られてしまうのだ。
一方、義仲に敗れた維盛の最期も知っている。紀伊半島の野迫川村では維盛を弔った維盛塚を見ている。敗走した維盛は紀伊半島に落ち延び那智の滝に入水して果てたとも、紀伊山地の深山で静かに生涯を閉じたとも言われている。二人の悲将に思いを馳せると、盛者必衰、諸行無常とはこういうことかと偲ばれた。
高岡で寝場所を探すことにした。こうも雨が降っていると、早々に安眠できるところにすっこみたくなる。テントが張れないかと、一応気多神社の裏手にあるキャンプ場に行ってみたが思わしくなかった。野宿場所探しに慣れてしまうと、下手なキャンプ場ではかえって居心地が悪くなってしまうなと苦笑した。
結局野宿はあきらめ、高岡市内で宿を探した。市内をさんざん探し廻った末、ようやく「きみのや旅館」というビジネス旅館を見つけ、そこに転がり込むことができた。
夕食を買いにDJEBELで街に出ると、やがて土砂降りになった。濡れ鼠になりながらスーパーやコンビニを廻る。こんな雨の日は酒でも飲まなければやってられんと、缶チューハイやらカクテルを三本買い込む。他につまみの炒り豆、のり弁などを仕入れ、宿でテレビを見ながら食った。酒を飲みながら日記を付けたが、三本空けたところでひどく酔っぱらい、そのまま寝てしまった。
夜の二時過ぎに目が覚め、テレビをつけてみるとたまたまこの夏の高知よさこい祭り中継を再放送していた。たった二十日前のことだというのに、ずいぶん前のことのように思われた。
飲み過ぎたせいか、軽い二日酔いで少々頭がくらくらする。買い置きの梅おにぎりを腹に押し込み朝食にした。
雨は止んでいたが、くもり空でまた降り出さないとも限らない。天気待ちと酔いが抜けるのを待ったため出発は遅れに遅れた。宿のおばさんに見送られ、宿を出たのは朝の九時近くだった。
ぽつぽつと雨が降る中、富山市の富山県庁を目指す。高岡からはすぐなので、十時前には着いてしまった。食堂が開くまで新聞を読んだり、庁舎の写真を撮ったりして時間をつぶした。
富山県庁は富山城の隣で、近代に建てられた旧い庁舎を改修して使っている。食堂はこぢんまりとしたもので売店併設、客席の一部は弁当売り場になっていた。ここではもやしラーメンとおにぎりを食べた。献立の栄養表示を見ると、もやしラーメンにはもやしが150g入っている。おにぎりはとろろ昆布をまぶしつけたもので、中に小梅が入っていた。どちらも二日酔い直後の荒井にはありがたい。
さすが県庁食堂には品揃えされていなかったが、富山は街の至るところで名物鱒寿司の看板を見かける。ぜひ食べたいが、今はもやしラーメンとおにぎりで腹が一杯なので、後のお楽しみである。
ここでまたちょっと内陸に入っていく。今度の目的地は飛騨国一の宮、水無神社(みなしじんじゃ)だ。県境を越えた岐阜県の宮村(現高山市)にあり、富山からは国道41号線で一山越えていかなければならない。富山市近郊こそ平野や水田が多かったが、南に進むにつれて勾配は急になり、県境にさしかかると深山になってしまった。道は神通川の険しく深い渓谷を見下ろし、覆道や山陰のおかげで昼なお薄暗い。
岐阜側に少し下っていくと神岡町(現飛騨市)がある。このあたりは神通川の上流で、街並みは渓谷にへばりつくようにして開けていた。休憩のため役場を目指すと、ひときわ大きな鉱山が見えてくる。イタイイタイ病の原因として知られる神岡鉱山だ。
鉱山は公害病をもたらした一方、科学の成果をもたらしてもいる。東大の観測施設「カミオカンデ」だ。施設は神岡鉱山の巨大な廃坑道を利用して設置されており、名前も「神岡」にちなんでいる。ちょうど前年、功労者である小柴昌俊名誉教授がノーベル賞を受賞したのを記念して、町役場にはお祝いの垂れ幕が下げられていた。荒井が来る直前には、当時の小泉純一郎首相が見学に来たそうだ。町は大騒ぎになったことだろう。
ノーベル賞で一躍物理学の町として知られることになった神岡も、平成の大合併と無縁ではなく、近々その名が飛騨市に変わることになっていた。町役場には残日計が設置され、飛騨市の誕生を待っていた。
さらに一走りして、ようやく飛騨の中心地、高山市に着いた。市役所で昼寝してから水無神社に向かう。のんびりした割には、まだ日のあるうちに着いた。
水無神社とはずいぶん変わった名前だが、これは神社の立地と関係がある。神社がある一帯は大分水嶺で、しかも大分水嶺が御神体になっているのだ。
神社の名前「水無」とは、水を分けてくれる神様という意味である。神社の御神体、位山は大分水嶺で、ここを境に水は日本海と太平洋に分かれている。飛騨国は古くから林業が盛んだった。降った水は飛騨の地を潤し森を育てる。水を恵んでくれる大分水嶺は山国飛騨の人々にとって、水分の神だったのだ。まさに大分水嶺の一の宮である。
大きな神社というわけではないが、昔は文人島崎藤村の父親が宮司を務めていたこともあるらしい。素朴ながら深みと味わいのある境内には、清々しい空気が漂っていた。
神社の裏手にあたる宮峠と美女峠を乗り継いで高山市に向かう。ちなみにこの二つの峠はどちらも大分水嶺で、宮峠の名前はもちろん水無神社にちなんでいる。高山市は旧い街並みが売りの観光地で、街中には散策を楽しむ観光客の姿が目立った。
あたりが暗くなるのを待ってから、野宿場所を探しに行く。この日は高山市の近郊で屋根付きのライスセンターを見つけたので、そこにテントを張って寝た。