いつもどおりの撤収後、高山市の真ん中に出てきた。「サークルK」で白身魚ロールとオレンジジュースの朝食にする。さらに街を横切り、国道158号線で荘川村を目指した。このあたりは飛騨の山奥なのだが、道はやたらと整備されており、高速道路さえ通っていた。難渋することもなく荘川村に着いたところで、富山に戻るべく、御母衣湖(みぼろこ)に沿って北上した。
御母衣湖は日本屈指の規模を誇るダム湖で、その誕生には一つの物語が伝わっている。それが荘川桜である。
戦後電力需要の急増を受け、飛騨の庄川上流に御母衣ダムが造られることになった。水没することになった村人はこれに反対したが、電力会社の総裁自らによる懇ろな説得や、長年にわたる話し合いの末計画を了承し、いよいよダムが建設されることになった。
村には二本の老桜の大木があったが、ダムができれば村と一緒に水没する運命だった。せめて長年にわたって村人を見守ってきた桜だけでも救いたい。これを忍びなく思った電力会社の総裁は桜の移植を決意し、専門家に助力を求めた。樹齢450年を越える老木だけに結果は絶望視されたが、専門家たちが力を合わせた結果、移植は見事成功し、今でも毎年ダム湖のほとりで花を咲かせているのだ。
幹回りはどちらも5メートル以上、高さは30メートルほどもある。時期でないので花は付いていなかったが、桜はまだまだ衰えも見せず、立派に葉を茂らせていた。ダムの堤体の近くには電力会社の資料館もあって、ダムや荘川桜について詳しく知ることもできる。荘川桜の逸話は小学生の頃、道徳の教科書で読んで知っていたが、この歳でおさらいすることになった。
巨大な城壁のような御母衣ダムを背に北に進むと、程なく世界遺産にもなっている白川郷に着いた。
白川郷は山奥にあるのだが、通りは見物人や大型の観光バスが行き交い賑やかなものだった。世界遺産の指定を受けた合掌造りの民家は、もともと養蚕のために作られたものなのだが、現在では軒先を利用して食堂や民宿、みやげ屋を営んでいる家も多い。
そんな中の一つ、「のだにや」に寄る。ここの名物はどぶろくアイスもなかだ。注文するとその場で作って手渡してくれる。ぐずぐずしてると溶けたアイスで皮がすぐにふやけるから、一、二口で一気に食べる。
村のはずれには展望台があって、合掌造りが立ち並ぶ集落を一望にできる。古い民家や景観を維持するのは何かと大変なこともあるだろうが、この集落は実際に人が暮らしているからこそ魅力があるのだと思う。展望台から見下ろす白川郷は、見るからにのどかな田舎の農村だったが、それは全国どこにでもありそうで、なかなか見られなくなってしまった風景だった。
国道360号線で白川郷を出る。途中にある天生峠は曲がりくねった山道で、崩れた路肩でも直しているのか工事箇所まであったが、白川郷への通路となっているため車の数は多く、工事現場前には行列ができていた。そのまま山道を通って富山県に戻り、残る越中国一の宮、雄山神社(おやまじんじゃ)に向かった。
雄山神社は富山の高山、立山を御神体とする神社で、前立社壇、祈願殿、峰本社と三つの社殿がある。社殿は全部富山県東の立山町にあるのだが、中でも峰本社は立山のてっぺんにある。標高3003mという立地と、参拝できるのが夏の短い時期に限られているゆえ、峰本社は完拝を目指す巡拝者にとって、行きづらい一の宮の筆頭になっている。荒井は飽くまで全旧国踏破が主な目的だったので峰本社に行くのはやめといて、あとの二つだけお参りした。
神社はやけに静かで、祈願殿に至っては誰もいなかった。この時期は峰本社の方に出払っているそうで、神職の方も大変だと思った。
水無神社と雄山神社参拝をもって、参拝予定の一の宮も残りひとつになった。県庁巡り以上に果てなく思えた旧国一の宮巡りも、ついにリーチがかかったのだ。
富山市で昼食にした。待望の鱒寿司である。「ますのすし製造販売中」という看板に誘われるまま「源」の工場に行く。「源」は鱒寿司を駅弁にしたことで全国にその名を知られているらしい。それだけに工場は大きなもので、小田原の鈴廣かまぼこよろしく、製造過程を見学できる。機械による流れ作業で、みるみるうちに鱒寿司ができあがっていった。
鱒寿司は鱒の押し寿司だ。神通川をさかのぼってきた鱒を、日保ちがするようなれ鮨にしたのが最初だと言われている。富山は周囲を立山や飛騨の高山地帯に囲まれているため、冷たい水が急流となって富山湾に注ぎ込む。そのおかげで深海と表面の温度差が大きくなるため、富山湾は魚に恵まれている。また、水は富山平野の稲作に欠かせない。こうした富山の風土が生み出した食べ物が、鱒寿司というわけだ。
ここの工場はちょっとした観光名所らしく、団体旅行の大型バスが何台も乗り付け、併設の売店では旅行客がこぞって鱒寿司を買っていた。日保ちがするので三つ四つと買う人も多い。友人知人に贈るのだろうか。
荒井が買ったのは「特選ますのすし」というもので、一番人気の1100円(注1)の「ますのすし」と比べて鱒の身が3割ほど厚いらしい。また腹身を使っているそうで、これまた旨そうだ。
鱒寿司は厳重に包装されていた。外箱を開けると、中に竹と輪ゴムで挟み込まれた曲げわっぱがあって、蓋を開けるとビニールと笹の葉が現れる。ビニールを引っぺがし、放射状に敷かれた笹の葉を一枚一枚ひん剥いて、ようやく本体とのご対面となる。「ツタンカーメン王の棺(注2)かよ!」 そう思ったかはさておき、こちらは腹が減って目が血走っているもんだから、包みを解くのももどかしい。
笹を剥きながら、はたと思いこむ。「剥いだどごでどうやって喰やいいんだ?」 鱒寿司は曲げわっぱにぎっしりと詰め込まれ、箸を差し込む余地もない。これではどこからどうやって取り分ければいいか判らないではないか。
こういう時のために、「ますのすし」にはプラスチック製の小さなナイフがついていて、栞でもこれでケーキのように八等分してから食べてください、と食べ方を説明している。
しかし腹が減った荒井にそんな器用な真似ができるわけがない。第一血走った目で栞など読めるはずもない。「腹減った! 早ぐ喰せろ!」と、固く締まった酢飯と3割増しで切りづらい鱒を割箸で強引に切り裂き、大口開けて喰らいつく。さすが特選、切りづらいだけのことはある食べ応え。次から次へと無理無理切り分けては口に運んだ。
これで富山で廻るべき所はあらかた廻った。富山市内で雑事を済ませ、新潟向けて出発した。夕暮れの日本海を左手に走る。行く手には遊園地でもあるのか、観覧車が夕焼けに染まっているのが見えた。県境近くの入善町(にゅうぜんまち)まで来ると、薄暗くなっていた。町内のスーパーで買い出しをし、近郊のキャンプ場にテントを張る。夕食は久々に自炊して、仕入れてきたラーメンと帆立で、帆立ラーメンと帆立入りカレー汁を作った。
注1・「1100円」:当時。2006年、材料費や原油価格の高騰を受け、1300円に値上げされた。
注2・「ツタンカーメン王の棺」:ツタンカーメン王は紀元前14世紀、エジプト新王国第18王朝の王。20世紀に大量の副葬品とともに陵墓が見つかったことで有名だが、その棺は入れ子構造で、王のミイラ本体は四重の厨子と三重の棺の中に納められていたそうな。