最後の内陸一周

最後の県庁

修那羅峠安宮神社の猫
修那羅峠にいた猫。馴れてるのかさっぱり逃げる気配がなかった。

 この時点で全ての都道府県に足を踏み入れてはいたが、もうひとつだけ、廻るべき県が残っていた。長野県だ。去年一度来たものの、そのときは乗鞍や諏訪方面を廻ってきただけだった。他にも行ってみたい場所はあれこれあったのだが、日程の都合で割愛してしまったのだ。
 あれから一年。再び長野にやってきた。この日本一周では、海と内陸を絶えず行ったり来たりしたが、それもこれが最後となる。

 テントを張ったのは黒部川のほとりにある「墓の木自然公園」で、名前が名前だけお化けでも出て来ないかと心配だったが、一夜明ければ全く問題なしだった。キャンプ場そのもののは余計なものもなく、かといって足りないものもなく、ヤブ蚊が多いことを除けば至って過ごしやすかった。入善駅前の「ファミリーマート」でミックスサンドとオレンジジュースの朝食にして、いよいよ富山を後にした。

 県境を越えれば新潟県、隣はもう山形県だ。だが上越のあたりはまだまだ山形から遠い上、足を踏み入れたこともないので、あまり新潟に来た気がしない。
 県境から糸魚川(いといがわ)に向かう途中にあるのが、名にし負う北陸随一の難所、親不知と子不知(おやしらずとこしらず)だ。ものすごいとしか言いようのない断崖が数キロに渡って続き、その断崖にしがみつくように道が切られてある。ほとんどが頑丈な覆道になっているため、日本海は僅かなすき間からうかがうより他ない。覆道が切れてちょっとだけ展望が開けると、途端に言葉を失うような断崖が目に飛び込んできた。
 親不知・子不知という名前は、おそらく四国の大歩危・小歩危と同じような経緯で付けられたものなのだろう。しかしこの光景を目にすると、ここを通る者はたとえ親子であっても互いを気遣う余裕もなかったとか、かつて平家の貴人の奥方がここで子供を失ったとかいう伝説が、やたら真実味を帯びて迫ってくる。

親不知・子不知の断崖
日本海屈指の難所親不知・子不知。今なお険路であることに変わりはない。

 糸魚川から国道148号線に乗り換える。目指すは長野県、最後の内陸巡りに出発である。
 国道沿線には「ヒスイ」「フォッサマグナ」という言葉を冠した看板が目立つ。それというのも糸魚川はヒスイの産地だった上、地質学的に日本を東西に分ける大地構帯フォッサマグナの西端なのだ。国道148号線はそのフォッサマグナの西端、糸魚川と静岡を結ぶ大断層に沿う道である。
 ちなみに賀曽利隆さんによれば「フォッサマグナ」はラテン語で「デカい女性器」という意味だとか。国道の至るところに「フォッサマグナ」。だとしたら空恐ろしい光景ではある(注1)。

 さておき、フォッサマグナに沿うせいか、このあたりも道が険しい。少し山に入っていくと川は渓になり、道はまた覆道が連続するような区間になった。覆道はやたら長く、県境あたりまで延々と続いた。裏を返せばこのあたりはそれだけ雪や土砂崩れが多いのだろう。事実、数年前にはこの界隈で大規模な土砂災害があり、多くの犠牲者が出ている。県境近くの大規模に整地された場所には大きな慰霊碑が建っていて、犠牲者を悼むかのように、ちょうどそのあたりだけ雨降りになっていた。

 ペンションが並ぶ白馬村で国道406号線に乗り換える。そばで有名な戸隠村(現長野市)を経由し、県庁所在地長野市に出る。もう雨は止んでいる。合羽を畳み身軽になったところで、ついに長野県庁に向かった。
 最後の内陸巡り最初の目的地は長野県庁だ。去年長野に来た際は、県庁には寄っていない。結果、県庁巡りは長野が一番最後になっていたのだ。

長野県庁
ついにやってきた長野県庁。全県庁訪問達成だ!

 長野県庁は善光寺にほど近い街中にある。庁舎は鉄筋コンクリート製で、全国的には地味な部類である。しかし数年前、作家の田中康夫が知事になったため、県庁は全国的に注目を浴びていた。一階のホールには公約で作った「ガラス張りの知事室」があって、用件でやってきた人々と知事(注2)が会談しているのが外からでもよく見えた。知事室の入口には、スキーウェアで愛想を振りまく知事の等身大立て看板が置いてある。長野の観光振興用に県でこさえたものらしい。売店では知事の出世作にちなんで「なんとなくクリマンジュウ」(注3)なる栗饅頭まで売っていた。知事は売店でこんな物を売っていることを知っているんだろうか。

 「本当に全部来たんだなぁ。来てしまったんだなぁ。」

 食堂が開くまでの時間を利用して、庁舎を写真に収めた。
 「日本一周するんだったら、全都道府県さは必ず行ってみだい。んだがったら県庁さ行げば、自動的に全部の都道府県さ行ぐごどになるな。」 そう考えて日本一周では県庁巡りを大きな目標にした。山形一周の最後で山形県庁に行ったのが去年の6月頭。遅々として進まぬ旅路に「本当に廻りきれんなべが?」「あとどれぐらいあるんだべ?」と思ったことは数知れず。それでも着々と旅を続けるうち、5、10、25と行ったことのある県庁が増えていき、いつの間にか行ってない場所の方が少なくなっていた。そしてたどり着いた47番目の県庁。地味な庁舎を見上げつつ、日本一周の大きな目標をまた一つ達成したことを静かに噛みしめた。

 県庁食堂は最上階にある。入口で食券を買ってから食堂に入る食券式だ。信州らしくそばなりおやきなりあればいいのだが、特に変わったものはない。食券売り場や調理人の皆さんの応対こそよかったが、ラーメンにカレーに定食といった塩梅の、至って無難な品揃えである。いろいろ迷った末、ソースカツ丼を食った。ソースカツ丼とは、ごはんの上にキャベツとトンカツを載せソースをかけた丼のことで、いわゆるカツ丼のようにたまごとじにしない。
 後で知ったことなのだが、実はこのソースカツ丼、長野名物の一つだった。県内でカツ丼といえば、たまごでとじないソースカツ丼を指すらしい。県内の駒ヶ根市はソースカツ丼発祥の地を謳っている。

長野県庁食堂のソースカツ丼
長野県庁食堂のソースカツ丼。これが信州名物だとは知らないまま注文。

 まだまだ廻りたい場所は多い。県庁を出てさっそく次なる目的地、渋峠に向かった。渋峠は長野市のほぼ東、長野と群馬の県境にある。標高2172mで、日本の国道最高地点として知られている。
 峠への道に入ると急な登りになった。西を振り返れば下の方に長野の市街地が広がっていた。さらに登ると八滝(やたき)がある。水が八段になって流れ落ちるという滝で、道端に展望台があるから気軽に見物できる。
 さらに登っていくと国道292号線に出る。このあたりはもう森林限界を超えていて、沿道には林もなく、軽くガスまでかかっていた。そして県境に着くと、待望の「渋峠」の看板が現れた。峠には高原を利用したスキー場があって、山小屋風の宿も建っている。宿はちょうど県境をまたぐ場所にあり、真ん中のところで壁が塗り分けられていた。尾根に沿って群馬側に下っていくと、ガスの合間から高原と雄大な山並みが広がって見えた。
 少し下っていくと草津温泉に出られる。日本一有名な温泉だけあって、あたりには高いビルが林立している。これは全部温泉旅館だ。日本一の温泉地は山上の一大保養地でもあった。圧倒されて入っていくどころではなかったので、素通りして南を目指すことにした。

志賀草津道路からの光景
渋峠下の志賀草津道路から下界を見る。日本国道最高所は森林限界の上だった。

 浅間山の東を通り軽井沢に出る。ここに来るのも一年ぶりだ。「ミカドコーヒー」でモカソフトを食い、ジャム屋さんでみやげ用にジャムを仕入れる。ついでに紅茶屋さんに寄って、紅茶も買っておいた。
 この日は佐久市で切りあげることにした。時間も遅いので「千曲パークホテル」に飛び込むのは気が退ける。野宿しようと遅くまで市内を走り回った末、近郊で人気のないライスセンターを見つけたので、そこにテントを張った。
 夕食は近場の「ローソン」でカルボナーラを買って済ませていた。テントで小遣い帳を付けていると、入力間違いで、買ってない商品の分までお金を取られていた。明日返金を頼まないとなるまい。


脚註

注1・「フォッサマグナ」:ラテン語ではfossa magnaと綴る。荒井が調べてみたところ、fossaは「穴・溝・くぼみ」という意味で、通常は「巨大な溝」程度の意味に訳される。賀曽利氏が言っていたような意味があるかは不明。ついでに「フォッサマグナ」の命名者は明治の地質学者エドムンド・ナウマン。「ナウマン象」にもその名を残している。

注2・「知事」:その後田中康夫は2006年の知事選で落選している。それにともない、新知事の意向でガラス張りの知事室も撤去された模様。

注3・「出世作」:「なんとなく、クリスタル」。1980年発表。当時の東京の若者文化や風俗をふんだんに盛り込んだ作品として知られる。註釈の多さでも有名。

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