山梨県庁再来

佐久水道企業団の職員さん
宿直中の水道局の職員さん。どうもお騒がせしました。

 全都道府県に続いて全ての県庁も訪れた。しかし一つだけ心残りがあった。山梨県庁だ。去年一度来てはいるのだが、その時は食堂が改装中で利用できなかった。全県庁食堂巡りをやってきた荒井としては、ここまで来て一つだけ残っているというのも非常に悔しい。
 さいわい、山梨は長野県のすぐ南、佐久からは日帰りの距離だった。「甲府さ行ぐぞ!」 突如として思い立ち、こうして山梨県庁への再訪が決まったのだった。

 撤収はやたらはかどり、六時前には出発した。昨日夕食を買った「ローソン」に寄り、朝食を買うついでに返金もお願いした。店員さんは丁寧に応じてくれて、無事過剰分を受け取ることができた。
 寒くなってきたせいか、軽い風邪を引いていた。少々のどが痛いし鼻も水っぽい。いつものオレンジジュースではきつかったので、代わりにミルクティを買って飲んだ。

 歯を磨きに水道を借りようと佐久の水道局に寄った。蛇口を拝借して歯を磨いていると、中から宿直の方が出てきた。咎められるかと思ったが、事情を話すと快く了解してくれた。
 宿直の仕事は主に電話番で、夜中に水が止まらなくなっただの、水が出なくなっただの、不時の故障や問い合わせに対応するため一晩泊まり込む。もっとも、大きな障害が起こることは滅多になくて、だいたいは何も起こらぬまま、無事に一晩が明けるそうだ。
 水についても面白い話を伺った。佐久は浅間山や蓼科、八ヶ岳といった山に囲まれているので、山からの地下水をそのまま水道に利用しているのだ。宿直の職員さんは「だから佐久は水がおいしいでしょう。」と胸を張っていた。確かに佐久は大分水嶺のそばに開けた盆地なので、水が集まりやすいことは想像がつく。鯉が佐久の名産になっているのは水に恵まれていたからだったのだ。日本一周では何度か佐久市のお世話になったが、まだまだ知らないことが多い。

佐久市立田口小学校の校章
竜岡城内の小学校にて。校章も五稜郭にちなんで五角形。

 佐久市の近所には、函館五稜郭と並んで日本で二例しかないという五稜郭跡竜岡城と、日本一海から遠い場所というところもある。
 竜岡城は五稜郭同様、星の形をした西洋式城郭だ。堀が現在も残っており、城跡には小学校も建っている。さすが五稜郭の小学校だけあって、校章は五稜郭で、校歌にも五稜郭が登場している。
 日本一海から遠いという場所は林道の先にある。しかし入口にはゲートがあって許可なしでは入れない上、しかも林道の終点からさらに1キロほど歩かなければならず、行くのはやめといた。

 麦草峠で佐久盆地を出る。麦草峠は八ヶ岳と蓼科山の間を通る大分水嶺の峠で、標高は2127mある。去年も近くまでは来ていたのだが、真っ白になった八ヶ岳を見て「今行ぐなは無謀だ!」とあっさり行くのをやめていた。山岳地帯の峠は冬になるとたいがい通行止めになってしまう。あのとき通れなかった峠に挑むのも、今回の内陸巡りの大きな目的なのだ。
 麦草峠はかつて日本国道最高所の峠でもあったが、渋峠が国道に昇格して以来、日本第二位に甘んじている。森林限界を突破しないせいか、鞍部の付近は見事な白樺林が続いていた。空はさえざえと青く清み、冷たい空気も清々しい。道に付けられた愛称は「メルヘン街道」。このまま走り過ぎてしまうのが惜しくなるような峠だった。

麦草峠
麦草峠鞍部。国道最高所の座こそ渋峠に譲ったが、名峠であることに変わりはない。

 蓼科の別荘地帯を抜け、西の麓、茅野市に下りてくる。ここから国道20号線を南に走れば、程なく甲府市だ。一年ぶりの山梨県庁は無事耐震工事も済んだようで、地下には小さいながらも気の利いたカフェテリア式の食堂ができあがっていた。
 最後の県庁食堂での食事は、冷やし担々麺と味噌汁、ほうれん草のおひたし、そしてこの日のおすすめ鰹のたたきだ。通常、県庁食堂は衛生管理上の問題か、刺身のような生魚を出すことはあまりない。

山梨県庁食堂 冷やし担々麺と鰹のたたき
改装後の山梨県庁食堂にて。これで県庁巡りも思い残すことはない。

 基本的に県庁食堂は職員のための福利厚生施設だ。味もさることながら、まずは「早くて安い」ことが求められるため、出すのにあまりに時間がかかるような料理は用意できない。だから献立は手軽に作れて手っ取り早く食べられる料理 ―つまり麺類、カレー、丼もの、定食― が中心となる。一見全国的に大きな違いがなさそうだが、実際に見て廻ると、地域によって様々な違いを見せていた。たとえば麺類では、ラーメン、そば、うどん、チャンポン、沖縄そばが入れ替わり、種類も地域によって違っていた。丼ものも東日本ではカツ丼や親子丼が中心だが、これも場所によっては他人丼になったり、ソースカツ丼になっている。地元でよく食べられている料理が定食になっているところもあった。基本の献立でさえ、地域によってこれだけ異なっているのだ。
 それに加えて地産地消・郷土再発見の観点から地元の食材を積極的に採り入れ、これを売りにしている食堂も多い。郷土の味は定番で出ていることもあれば、特別企画で出されることもある。一見変わったものを出していなくても、実はこだわりの県産米や県産野菜をあたりまえに使っているところもある。面白い試みをする食堂、変わった料理を出す食堂、基本の献立一徹の食堂などなど、県庁食堂はその県の色を映し出している。県庁食堂巡りではこうした違いを、実際に自分の舌で確かめられるのが非常に面白かった。
 全都道府県巡りはもちろん、日本一周で県庁巡りをする方は結構見かける。しかしそれに加えて県庁食堂巡りまでやった人間となると、珍しいのではないだろうか? 県庁食堂巡りは平日、しかも営業時間に合わせて県庁に行かなければならないため、単純に県庁を廻るよりも難しい。しかしただ県庁を廻るよりも、ぐっと県庁巡りが面白くなる。ほとんど思いつきで始めたことだったが、全ての都道府県庁の食堂を廻ったことは、日本一周のかけがえのない思い出となった。

 県庁隣の甲府城を少々見学してから、元来た道を引き返す。食べ物を仕入れるため、茅野でコンビニに寄った。店のおばちゃんに「長旅だと、行く先とかは決めてるの?」と訊かれたので、「最初は大雑把に決めて、詳しいことは現地で調べます。」と答えておいた。思えばこれまでこんな調子で旅を続けてきた。長旅だからといってかしこまる必要はない。出たとこ勝負、行き当たりばったりでも、なんとか全都道府県を踏破できてしまうのだ。

杖突峠から見る諏訪湖
杖突峠から諏訪湖を見る。ここから南信濃に向けて出発だ。

 国道152号線に乗り換える。目指すは前から気になっていた峠の一つ、青崩峠(あおくずれとうげ)だ。杖突峠で諏方の盆地を離れ、ひたすら南信濃を目指す。国道は伊那や駒ヶ根といった県南の主要都市と併走しているが、市街地からだいぶ離れた山の方を通っているので、至ってのどかな風景が続いた。分杭峠(ぶんくいとうげ)のあたりで激しい雨に降られたりもしたが、峠を離れるとすっかり止んでしまった。
 大鹿村で中央構造線の露頭を少々見学し、さらに南に走る、地蔵峠にさしかかる頃には日も落ち、急に暗くなってきた。道は悪くなかったが、真っ暗な中、南信濃の寂しい山中を一人延々と走っていると、さすがに心細くなってくる。
 青崩峠のお膝元、南信濃村(現飯田市)に着いたのは八時頃だった。さすがにこれ以上移動するのは不安だったので、峠巡りは翌日に回して野宿場所を探す。さいわい村の真ん中にある立ち寄り湯がこの日休みで人気がなかったので、そこの片隅にテントを張るつもりでしばらく様子をうかがうことにした。
 夜の九時近いというのに、駐車場になっている広場には子供らがいて、ブランコで遊んでいた。「早ぐどっか行ってけんねべが。」とやきもきしながら子供らが去るのを待つ。誰もいなくなったところでテントを張る。ところが夕食にラーメンを作っていると、近くを通りがかった中年の男に話しかけられた。どこかへ行けと言われるのか、あるいは壱岐のような目に遭うのか。いずれにせよどちらも御免こうむりたいが、運良くそのどちらでもなかった。
 「自分も旅が好きでしてね。ときどき出掛けるんですよ。最近は嫁といっしょに車中泊をしながら北海道を廻ってきました。」
 彼は地元の中学校の先生だった。若い頃から旅が好きで、かつては単車で方々を駆け回ったそうだ。ところが結婚してからは一人気ままな旅をする機会もなくなって、しきりに「一人旅はいいなぁ。羨ましいですよ。」と仰っていた。
 中学校の先生だから地元にも詳しい。現在でこそ辺鄙な山奥だが、南信濃はかつて林業で賑わい、彼がいる中学校も往時は500人も生徒がいたそうだ。豊富に木材が得られるから、マッチ工場が造られたこともあるそうだ。ところが時代が下って林業は廃れ、現在は30人ほどに減ってしまった。かつて山村は豊かな場所だったはずなのだが、それも今は昔になってしまっていた。

 日記を付けてから寝ようと思ったが、頭がぼうっとしてきた。どうやら風邪はまだ治っていないらしい。夕食の後片づけをしてとっとと寝た。

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