旅の大きな目標として掲げていた東西南北端踏破はもちろんのこと、全都道府県踏破、全県庁訪問も成し遂げた。日本の極点と呼ばれる場所にも数々行った。日本一周に出た当初廻ろうと決めていた場所も、いつの間にかその大半を廻りきっていた。残るは一の宮巡りが一社、そして最大にして最後の目標、海岸線沿い一周達成のみである。最後の内陸巡りを終えた今、それもあとは時間の問題となっていた。
日の出前にはまず人が来ないというものの、早く出るに越したことはない。六時半に撤収し日本海を目指す。白馬村で「ローソン」を見つけ、ツナタマサンドとオレンジジュースの朝食にした。白馬村は人が来る保養地なので、コンビニも建っているのだ。
再び延々と続く覆道を通り抜け、糸魚川に戻ってくる。「ユーラシアプレートから北アメリカプレートへ歩いて渡ろう!」という、なんともそそる売り文句を見つけ、市内の「フォッサマグナパーク」に立ち寄った。
フォッサマグナを一言で説明すれば、巨大な「溝」状の地層である。太古の昔、地殻移動によって日本列島が折り曲げられて折れ目のところに裂け目ができ、そこに土が堆積して、溝状の新しい地層ができることになった。これがフォッサマグナだ。
地球上の陸地がいくつかの地殻に別れているという説は広く知られているが、フォッサマグナの西端、糸魚川と静岡を結ぶ断層は、ユーラシア大陸が載っているユーラシアプレートと、北米大陸が載っている北アメリカプレートの境界線となっている。糸魚川にはその露頭があって、境界線をを実際にこの目で確かめられるようになっているのだ。
件の露頭は法面一帯が石垣で覆われ、地層がどうなっているかはよく判らない。かわりに白いタイルが埋め込まれていて、境界の位置を示している。それというのも現地は地すべりが起きやすいため、やむを得ずこうしたらしい。
それでもあたりの地面を観察すると、境界線で岩や土の色が変わり、断層があることが判る。この線をずっとたどっていけば、シベリアやアイスランド、果ては大西洋のど真ん中の大海嶺までつながっているという。なんとも雄大な話である。
後半で廻ってきた西日本と山形は別の地殻の上にある。境界線を越えて東へ。旅の終わりは間近に迫っていた。
上越市で越後国一の宮、居多神社(こたじんじゃ)に寄った。記念すべき最後の一の宮は、町はずれの小さな神社だった。
越後国一の宮にはもうひとつ、弥彦神社がある。越後国は広い。弥彦神社が下越の中心的な神社なら、こちらは上越の中心的な神社として崇敬を集めたのだろう。
弥彦神社は弥彦山の山岳信仰に端を発している。それに対してこちらは日本海有数の港、直江津に近いことから、古代当地に渡ってきた人々が崇敬したのだろう。越後の国府は上越に置かれていたし、越後に流罪になった親鸞聖人もこの地から上陸している。神社は上越が越後の文化の入口として栄えた証なのだ。
往時、居多神社は弥彦神社と肩を並べるほどに栄えていた、ところが幕末から明治にかけて海岸浸食や火事といった災害に見舞われ、現在は小さな境内と社殿があるにとどまっている。
未拝の神社はまだあれど、これで全ての旧国で訪れる予定の一の宮は全て訪れた。日本一周の大きな柱の一つ、全旧国一の宮巡拝もついに達成である。
都道府県47に対して旧国が73。その全てを訪れようとすれば、都道府県以上に細かく日本を廻ることになる。荒井は県庁と一の宮に注目して全ての都道府県と旧国を見比べながら旅してきたが、一つの県であっても、その多くはいくつかの旧国や地域の集まりである。
兵庫県庁で見たビデオの言葉を覚えている。「兵庫県は摂津、但馬、丹波、淡路、播磨、五つの国が集まってできました。この五つが調和を図りながら発展してきたのが兵庫の特色です。」 そのとおり、細かく廻ってみれば、山のそば、海のそば、半島、離島などなど、同じ県でも地域によって、風土や文化は異なっていた。道を走れば全国至るところで旧国の名前を見つけられる。各都道府県は旧国をいかに束ねるか、いかに調和を図りながら発展させるかに気を遣っているように見える。旧国という区分は、廃藩置県から150年近く経った現在でもなお根強く残っているのだ。そしてそれは平成の大合併が一段落した今も同じだし、これからも根強く残っていくのだろう。
県はいくつもの小さな地域が集まってできている。日本はその県がいくつも集まってできている。それを目の当たりにすると、何事も「日本」という枠組みで一括りにするのがためらわれてくる。日本はそんな単純な国ではない。それが全都道府県と全旧国を廻って得た一番の感想だ。
市内の「8番らーめん」で油そばと炒飯の昼食後、上越を出た。北陸では何度もお世話になった「8番らーめん」も、富山を出ると数が少なくなり、新潟も上越より北では見かけることもなくなった。
日本海に沿ってひたすら北上する。途中で休憩がてら柏崎の原発資料館に寄った。ちょうどこの頃、柏崎の原発は原子炉の炉心隔壁(注1)に次々にヒビが見つかり、保守点検のため運用を止めているところだった。この旅ではいろいろな事件の現場となった場所も見てきた。現地を訪ねると、大事件も自分がいる場所と地続きの場所で起こったということが、ありありと伝わってきたものだ。
そして出雲崎も過ぎ、ひたすら北に走っていると、見覚えのある港が見えてきた。
長い道のりだった。あれから一年。全く別の道を通って、再びここにやってきた。ここから先の海沿いも、ここより前の海沿いもすっかり走り通している。海沿い一周の起点にして終点、寺泊港。ついに荒井は日本一周最大にして最後の目標、海沿い一周も達成してしまったのである。そしてそれは長年憧れた日本一周の達成でもあったのだ。
一年ぶりに佐渡汽船の待合所に行ってみると、ちょうどさっき入港したばかりのフェリーが停泊していた。荷物の積み下ろしの最中で、待合所では多くの客が乗船を待っている。思えば一年ほど前、自分もここから佐渡に渡り、ここから本格的に本州を走り出した。そして北海道、九州、四国、本州をすっかり廻ってここにいる。ついに成し遂げてしまった。やり遂げたという誇らしさとともに、長かったこの旅が終わる寂しさを感じていた。
東西南北端踏破、全都道府県庁訪問、全旧国一の宮巡拝、そして海岸線沿い一周。全てを成し遂げてしまうと、急に旅の終わりが近くなる。実際、あとは山形に戻るだけだったが、この日はもう夕方近かった。分水町から内陸に入り、弥彦神社にお参りした後、近場で野宿場所を探すことにした。
この日の場所探しは非常に難航した。新潟もこのあたりは土地勘があるので、なんとかなるだろうと楽観して近所を探し回ったが、好適地がなかなか見つからなかったのだ。一度は三条市や加茂市まで行ってみたが、これはという場所はどこにもない。新潟だからライスセンターの一つや二つぐらいあってもよさそうだが、それすら見つからなかった。暗い中、「日本一周しても、野宿場所探しはいっつもこうなんだよなぁ。」と苦笑した。
さんざん探した末、結局また分水町に戻ってきて、去年利用した「てまりの湯」の裏手に落ち着いた。表の駐車場にはなぜかエンジンをかけっぱなしで停車している車がいて、何かあったらどうしようと落ち着かないまま一夜を過ごした。
注1・「炉心隔壁」:シュラウド。原子炉内で燃料や制御棒を格納している容器。これが破れると深刻な放射線漏れ事故につながる。