空はどんよりくもっていた。六時頃出発する。市街地に出ると、もう観光客が大勢行き交っていた。高山では毎日のように朝市が開かれている。朝市散策を楽しんでいるのだ。一方荒井はこないだも利用した「サークルK」で手早くサンドイッチとオレンジジュースの朝食を済ませ、高山を後にした。
地図を見れば、高山からほど遠くないところに下呂温泉(げろおんせん)があることが判った。下呂温泉といったらエロマンガ島と並んで中学男が大好きな珍地名だ。中学男はバカだから、地図帳でそうした珍地名を見つけると、目立つように印を付けては大喜びする。荒井もそうしたバカの一匹だったので下呂の名前は気になっていたらしく、せっかくだからと、野麦峠に先だって行ってみることにした。
まずは再び水無神社にお参りして、今度は苅安峠で南に向かう。苅安峠は水無神社の御神体、位山の中腹にある峠で、ここも大分水嶺となっている。峠の一帯はモンデウス飛騨位山というスキー場があるほか、ちょっとした分水嶺公園と湧き水が飲める水場がある。
その昔、天皇の御代が変わるたび、水無神社ではこの山のイチイの木を削って作った笏(しゃく)を献上していたのだそうだ。それゆえ「一位の山」と呼ばれるようになり、それが「位山」になったのだとか。ちなみに「モンデウス」という名前も、御神体山にちなんで付けられている。
峠を下り、国道41号線を南に30キロほど下ると、下呂温泉に着く。中学男からはイロモノ扱いされているが、実際は古くから名湯と謳われた温泉で、草津、有馬とともに日本三名湯の一つにその名を連ねている。
それだけに温泉街はでかい。飛騨川の右岸と左岸にそれぞれ温泉街があり、大小とりどりの温泉宿が軒を並べている。街の中には荒井の地元、山形の湯殿山から勧請したという温泉神社もある。最近は雰囲気作りにも力を入れているようで、きれいなタイルを埋め込んだ路地を整えたり、内湯巡りに便利な手形を発行したりと、あれこれ客を呼び込む努力をしていた。
「噴水池」を見に行く。噴水池は飛騨川のほとりにある露天風呂で、無料で入れる。しかしあたりは遮るものも全くなく、しかも上には橋が架かっているものだから、道行く人から丸見えになってしまうという、非常に豪快で入るのに度胸が要る露天風呂でもある。人気があるようで、荒井が行った時も男二人が風呂に浸かっていた。入っている当人は丸見えでも全く気にしていなかったが、かえって橋の上を歩く通行人の方が気にしていた。根性なしの荒井はタオルを浸して顔を洗うだけにして、風呂は別のところを利用した。
駅前のみやげ屋で牛乳を買って飲む。店にはその筋にはよく知られた下呂銘菓「下呂の香り」も置かれている。包装には開湯伝説に現れる白鷺の絵が描かれてあった。それにしても「下呂の香り」。この名前を付けた方は、よほどの挑戦者だと思う。
「旅の途中かい!」 下呂から野麦峠に向かっていると、BMWに乗ったおじさんに声をかけられた。野麦峠に行くというと、道を教えてくれたばかりか、近くのドライブインでコーヒーまでおごってくれた。どうもごちそうさまでした!
BMWに乗っているだけあって、おじさんはこのあたりを相当に走り込んでいる単車乗りだった。「このあたりもダートが多かったんだけどね。最近はどこも舗装されてしまった。それに昔はピース(注1)を出すと必ずピースが返ってきたものだけど、今ではそういうこともなくなってしまって残念だなぁ。」
礼を言っておじさんと別れ、単身野麦峠を目指す。「ここからだと鈴蘭高原を通るのが近いよ!」という助言に従って鈴蘭峠を越え、再び国道361号線に出る。空はいつしか雨になり、走るとやたら寒かった。道中、峠に向かうらしい自転車乗りを見かけた。この雨では自転車を漕ぐのも大変だろうに。
県道39号線に乗り換えると切り立った山並みが続き、道はますます高度を上げていった。野麦峠はその先にある。
野麦峠は日本でも一、二位の知名度を誇る峠だ。それはなんと言っても小説「あゝ野麦峠」に負うところが大きい。
明治になって日本が富国強兵を国是に掲げた頃、近代産業の振興は一大事となっていた。その一環として各地に紡績工場が造られ、そこで作られた生糸は主要な輸出品として、貴重な外貨の源となった。
そうした時代、諏訪湖の水利を背景に、信州の諏訪地方にも紡績工場が造られたのだが、そこで働いていたのが、飛騨地方の貧農の子女だった。農作業だけではとても食べていけないため、口減らしと現金収入獲得を兼ね、娘らは年端もいかないうちから、女工として諏方に出稼ぎに行った。その通り道となったのがこの野麦峠である。
労働条件は過酷なもので、病んで命を落とす者さえいたが、それでも娘らは家のことを思って懸命に働き続けた。年越しにはそうして稼いだ給金を携え、娘らは飛騨に帰った。このお金がなければ年越しできないほど、飛騨の農民は貧しかった。峠はもちろん雪の中、すぐ北には日本で最も高い大分水嶺、乗鞍岳が控えているくらいだから、峠は難所中の難所である。にもかかわらず、娘たちは故郷恋しやと、命がけで厳冬の野麦峠を越えたのだ。峠を越えた女工たちの物語は、近代日本の底辺にあった名も無き人々の悲話として、現代に伝わっている。
峠にはその名も「お助け小屋」という茶屋がある。寒さを逃れるように転がり込むと、ちょうどいいことに炭火をくべた囲炉裏があって、これさいわいとしばらく火に当たっていた。まさにお助け小屋だった。
小屋では食事を摂ることもできる。ここでまた朴葉味噌を食べた。ここの朴葉味噌は味噌にねぎのみじん切りが載っただけの簡素なもので、その他にうどの漬物、味噌汁などが付いてくる。もともと朴葉味噌とは、これくらい素朴な料理だったのだろう。素朴だが旨いので、いくらでもごはんが食べられる。実際、あまりにごはんが進むからと、米のない家では朴葉味噌を作らなかったそうな。
小屋の隣には資料館があって、峠の歴史についての展示が見られる。もちろん女工の悲話も紹介されていて、さっきの話も資料館の受け売りである。
こんな具合に峠は現在観光地となっており、天気が良くないにもかかわらず、多くの観光客が訪れていた。これを見たら、女工もきっと羨ましがるに違いない。
峠を東に下っていく。梓川ダムのたもとで国道158号線に合流する。せっかくだからとダムの資料館を見学し、近所にある道の駅「風穴の里」にも寄っていった。ダムも道の駅も見覚えがある。日本道路最高所は、今や愛車で登ることも叶わない。
一年ぶりに松本に出てくる。郊外の「バーミヤン」でガーリック海老焼そばと炒飯の夕食にした。その後野宿場所を求めて走り廻った。一度は塩尻峠を越えて諏訪湖のあたりまで行ったが、これという場所は見つからない。去年も利用したしだれ栗森林公園キャンプ場に行こうにも暗くなりすぎていた。
ふと高台から諏訪湖の方を眺めると、光が湖の輪郭を象っていた。諏訪湖の夜景だ。諏訪湖は意外に大きくて、その全ては見えなかった。
再び塩尻峠を越え、また松本に出てくる。捜し回った末、空港の近くでようやくよさげな農協の集荷場を見つけ、無事に寝ることができた。
空港そばとはいえ、あたりは果樹園だらけだった。そろそろ収穫期だからか、朝から鳥追い用の爆音機がポンポンうるさく鳴っていた。空港そばなのでコンビニはすぐに見つかった。「サークルK」で安いミックスサンドとオレンジジュースを買って朝食にする。
市街地で信号待ちをしていると、遠乗りに来たらしい単車乗りの方に声をかけられた。「松本城へはどう行くか知ってますか?」 去年来たから一応知っていると先導を申し出たが、そんなことはお構いなしに、彼はとっとと一人で先に行ってしまった。ずいぶんせっかちだなと苦笑する。荒井は足かけ二年も旅をしていたせいか、あまり急がなくなっていたようだ。
今日一番の目的地は修那羅峠(しゅならとうげ・しょならとうげ)、ここを廻れば、最後の内陸一周で廻りたかった場所は全て廻ったことになる。
心細くなるような青木峠を越えると、やがてやがて修那羅峠への道が現れる。峠の付近はキャンプ場やマレットゴルフ場があったりと、ちょっとした園地になっているようだ。園地で単車を降り、杉木立の遊歩道を歩いていくと、小さな神社があった。修那羅峠最大の見どころ、千体の石仏はこの神社の奥にある。
石仏は大きなものから小さなものまで、腕利きが作っただろう細工に凝ったものから素人が作っただろう素朴なものまで、不動明王のような仏像から大黒様、果ては首だけの謎の神像に至るまで、あらゆる石仏が山道に沿ってずらりと並んでいる。いったい何のために作られたのかは判らない。おそらくは庶民のささやかな信仰心の発露なのだろうが、これだけの数が集まると、ただただ呆気にとられるしかない。
人気のない神社は猫の住処となっていた。猫が三匹、主のごとく居座っている。ベンチに座って休んでいると、そのうち一匹の白っぽい雌猫が、荒井の足下にすり寄ってきた。されるがままに任せていたら、靴が毛だらけになってしまった。なつかれたのか、食い物でもねだられたか、あるいは毛玉取りに使われたのか。猫は人を恐れるふうでもなく、なでてやっても嫌がる素振りすら見せなかった。どうせなつかれるなら、白い服のお姉さんの方がよかったけど。
ひとしきり猫と戯れてから修那羅峠を離れる。四十八曲峠で国道18号線に出ると急に「峠の釜飯」が食べたくなり、急遽最寄りの「おぎのや」がある軽井沢に向かった。「峠の釜飯」は群馬は横川駅の名物だが、「おぎのや」は近辺にいくつか店を出しているので、碓氷峠を越えずとも釜めしにありつける。
国道18号線を東に進む。軽井沢に近づくと霧が立ちこめ、急に寒くなってきた。軽井沢は高原地帯だ。浅間山からの風が、ここまでなだれ込んできたのだろうか。軽井沢店に着いたところで、一年ぶりに釜めしを味わう。醤油風味の炊き込みご飯にささがきごぼう、鶏肉、にんじん、椎茸、タケノコ。箸休めの杏の甘露煮とプラ容器入りのおしんこも去年と同じだ。あのときは泣く泣くあきらめた益子焼の器も、その後荷造りに慣れたおかげで、今回は余裕で持ち帰られる。
これで廻るべきところは廻った。あとは長野を出るだけだ。とはいえ急ぐ旅でもない。帰りは駅で昼寝をしたり古本屋に寄ったりあれこれ道草したため、長野市に着く頃には暗くなりかけていた。道草しながら走ったのは、最後の内陸一周が終わるのが惜しかったからなのかもしれない。
長野市近郊、川中島の「はなまるうどん」で釜玉うどんと牛丼の夕食にしてから、野宿場所を探すことにした。
この日の場所探しは難航した。一度屋根付きの集荷場を見つけたが、テントが張れるかしばらく様子を伺っていると、農家の方とおぼしき車がやってきたので早々に立ち去った。次に寄った中条村では、廃校を利用した音楽堂というのが気になって様子を見に行ったのだが、テントを張れる場所ではないと判断し、こちらもやめといた。
結局テントを張ったのはさらにその隣、小川村のAコープの片隅だった。スーパーはいかに朝早くとも、日の出前に人がまず来ないことは、前職の経験で知っている。
この旅では何度も農協の施設のお世話になった。全国どこでも見つけやすいし、雨がしのげるくらいの軒先もあれば水道もある。そして何より、農繁期でもなければあまり人も来ず、来たとしても農家の方ぐらいなものなので、公園よりも安心感があった。もちろん朝早くに跡形もなく撤収するといった気配りは必要だが、下手なキャンプ場よりも快適に寝られるので、もしかするとキャンプ場よりもこちらで寝た時の方が多かったかもしれない。その農協野宿も、ここ小川村のAコープが最後となった。
注1・「ピース」:旅人同士のピースサインのこと。北海道編「オホーツクに消ゆ?」脚注参照。
地図の読み方指南の本では、読みづらくなるから書き込みはしない方がいいと書いているものもありますが、厳密な読図を要求されるわけでもない貧乏旅、持参している地図に書き込むというのも旅を記録する一つの手です。自分が移動した足跡を書き込んでおくのはもちろん、ここでこんなことがあった、ここでこんなことをした、こんな人にあったということをそのつど書き込んでおけば、それだけで立派な旅の記録が一つできあがります。