もう10年以上も前の新聞に、次のような記事が掲載されていました。
「アメリカの日本語教師K氏が、『ガイジンという言葉の使用をやめてほしい』と強く主張した。(中略)私は、ああ、まだ彼女たちはこの言葉との戦いを続けているのかと思った。初めて外国人の学生から『ガイジンという言い方は大嫌いだ』と言われた時からもう30年を超すのに、いまだに日本人が使い続けている(中略)土人や毛唐のように明らかに相手を低めて使う言葉は意識しやすい。しかし、ガイジンは違うようだ。欧米人などに、ガイジンと言わないでと頼まれ、使ってほしくない理由を説明されても、日本人はその痛みを理解することが難しいらしい。ガイジンが相手を低めているのではないという潜在意識が、彼らの訴えを受け止めない原因のようだ。」(1996年4月7日付『朝日新聞」』「日本語よ1」水谷修より)
この記事の指摘する状況は、15年近くを経た今、少しは変わったでしょうか。私は外国人児童生徒を支援しているボランティア団体の活動場所で、ひとりの子どもが新しく参加した子どもを指して「あの子もガイジンだよ」と言っているのを聞いて悲しくなったことがあります。それを言った子も学校で「ガイジン」と呼ばれたことがあるのだろうと想像できたからです。そして、恐らく「ガイジン」は好意的な気持ちから向けられた言葉ではないでしょう。自分たちとは違う「余所者」をくくった言葉だと考えられます。外国人を日本社会に受け入れるにあたり、今まで当然だと思っていた言葉や習慣を、違う視点から見つめ直すことが、私たちには求められているのかもしれません。「ガイジン」という言葉を使わないことが、その「はじめの一歩」ではないでしょうか。