山形県のような外国人散在地域では、外国人児童生徒の人数が少なく、学校全体の問題としてなかなか取り上げられないのが実情です。現場の先生からは、「日本人の生徒だけでも指導が大変で、外国人生徒の指導まで手が回らない」という声が聞かれることもあります。しかし、外国人登録者数の増加が続く日本において、外国人児童生徒に対する指導の必要性は今後もますます高まっていくことが予想され、従来の指導の仕方について考え直す時期に来ているということもできるでしょう。それでは、学校の中で外国人児童生徒を教育するということはどのような意味を持っているのでしょうか。
これまでの学校教育においては、日本語を母語とする日本人児童生徒を対象とすることは自明のことでした。ところが、昨今の社会情勢の変化に伴い、学校に外国につながる子どもが在籍することはそう珍しいことではなくなりました。そのような子どもたちに、これまでの「日本語を母語とする日本人」に対する指導のやり方を当てはめてもうまくいかないこともたくさんあります。その原因として、言葉の問題や文化の差異の問題などが挙げられますが、学校側が「日本語を母語とする日本人」を規範とし、そこに近づくことを目標として捉えてしまうことも考えられます。つまり、外国につながる子どもたちが早く日本の生活に慣れ、日本人の子どもたちと「同じように」生活できることを最終目標として設定してしまっているということです。もちろん、子どもたちが日本の生活に慣れ、友達を作り、自分の居場所を確保していくことは非常に大切なことです。しかし、個々の子どもたちが背負っている文化、母語、様々な生活習慣、考え方は子どもたちにとってかけがえのない宝物であり、個性です。「日本人と同じ」という型にはめて、はみ出た個性を切り捨てていくことになったらもったいないと思いませんか。
外国人児童生徒が学校にいるということは、日本人の子どもたちにとっても貴重な体験です。「自分と違う」他者に対する感受性をはぐくみ、「自分と違う」他者とどのように協力していくかを、身近なクラスメートとの関わりを通して学ぶことができます。それは「国際理解教育」という枠も越えて、ひとりひとりの生を尊重する「人権教育」にまでつながる視点を含んでいます。
多忙な学校現場では、「日本人の生徒だけでも指導が大変で、外国人生徒の指導まで手が回らない」というのは、先生たちが抱える正直な思いでしょう。しかし、「外国人生徒がいるからこそ日本人生徒の指導ができる」という発想の転換が、これからの多文化社会における学校教育のカギになるかもしれません。