[Essay] Weekendサックス吹きのJazz Life 社会人編

還暦を記念してサックス生活を振り返ろうということで、10年程前に旧ホームページに掲載していたコンテンツを再編集しました。長男の大学進学をきっかけに,学生時代の音楽活動の思い出をツイッターに並べてみたところ,面識の無いない方からも「面白かった,続きを」というメッセージを頂きました。その後の呟きをまとめた社会人編です。

社会人となって 東京での6年間

大学を卒業,東京都の教員採用試験には合格し、採用予定者名簿に載っているはずだが、4月になっても採用の話が来なかった。連絡待ちのため塾の講師のバイトをやめてしまい収入がない。もう新学期が始まっている頃,杉並区教育委員会から連絡が入る。面接,服務の宣誓をして指定された学校へ赴いた。急な学級増への対応ということで,小学校教諭で採用予定のはずが中学校へ。井之頭線 永福町駅近辺の中学校だった。4月15日付の採用だが教頭と相談して翌日から勤務開始,一週間はタダ働きだった。中央線武蔵境駅周辺のアパートに引っ越した。新米教員は神田川沿の中学生に悪戦苦闘の毎日で楽器からはしばらく遠ざかる。サッカー部の練習試合に電車で出かけボロ負けした帰り道,新宿で乗り換えるうちに生徒達が散ってしまい,真面目な副キャプテンと二人で学校に戻った。シンナーでラリった生徒が授業中の教室に乱入・・・,ドラマな日々だった。

やっと1学期が終了という頃,ベースの須藤君から電話を受け、大学のサマーコンサートOBバンドで演奏することになった。メンバーはY岡さんドラム,須藤君ベース,堺君ピアノ,中鉢君ギター,私のテナー。須藤君はプロとしての活動が始まった頃だったと思う。Y岡さんはその後ゴルフ界の指導者として有名人となる方。久しぶりに楽器を出して,夜の理科準備室で練習した。マイケル・ブレッカーの初リーダーアルバムが出た頃だった。須藤君と電話で相談し,ナッシング・パーソナルを選曲。再び屋外のサマーコンサートでマイナーブルース。サマコン当日,職場から大学に直行,スーツの上着を脱いでステージへ。曲間のベースソロにうっとり,堺君のピアノソロが凄まじかった。お馴染みフレーズを駆使してなんとか格好つけた感じだったが,後輩達は持ち上げてくれた。ギターの中鉢君,モダンで端正なフレーズの応酬。中鉢君は現在,リーダーアルバムをリリースし、プロギタリスト,ギタースクール講師として活躍している。おお、堺くんは上田正樹さんと一緒に演奏してるのか。

中学校には1年間だけ務め,翌年から当初の予定通り小学校に異動した。荻窪北口の繁華街が学区域だった。

中学校での同僚にベーシストがいて,彼のバンドのライブにゲストで出演する機会があった。早稲田の音楽系サークルつながりで、今井美樹などJ-POPのカバーバンドだった。管楽器が入るのは珍しいらしく,妙に注目してもらった。そのバンドのキーボードとドラムの二人に誘われ,オリジナル曲を演奏するポップスバンドに加入した。リフレクションというバンドだった。キーボードの子がニューヨークで接したアシッド・ジャズに惹かれ,それっぽい打ち込みを軸にした曲を書いていた。サックスのかぶせ方は,その頃良く聴いていたスティングバンドを意識した。バンドのメンバーは固定していたが,ボーカルは何人か交代した。ボーカリストを目指してレッスンを受けているような女の子達だった。クロコダイル等,渋谷あたりのライブハウスで演奏した。東京12チャンネルのオーディション番組に出たこともあった。

[YouTube] 思い出しても Reflection Live At Crocodile 10 October 1992


週末に井の頭公園の端っこでサックスの練習をしたものだったが,今は禁止されているらしい。練習不足が否めず,自分のピッチに自信が持てなかった。平日夜も楽器に触れたいと考え,ローランドのデジタルピアノを購入した。inBbに移調できるのが便利だった。長続きしなかったが,吉祥寺のヤマハでポピュラーピアノのレッスンも受け始めた。

ある日、大学のサークルに遊びに行ったら,OBが中心になってビッグバンドを始めたという。リーダーのT田さんにお願いして入れてもらう。最初は市販の譜面に取り組み,大学内のコンサートで演奏した。次第にリーダーがアレンジした譜面でインスト曲のカバーもレパートリーに入るようになった。ギターの浜崎君がボーカルも担当した。レパートリーを増やし吉祥寺のお店でライブを開いた。ピアノ,キーボード,ギター(ボーカル),ベース,ドラムス,パーカッション,トランペット×2,トロンボーン×2,アルトサックス×2,テナーサックス×2の編成が基本だったと思うが,その時々の都合で編成もメンバーも替わるバンドだった。ホルンやマリンバが入ることもあった。発足当時,バンド名を「東京ボンバース&ニュー・ブリーフ」としていた。

□ 浜崎貴司 Official site ハマミチ21. “東京ボンバーズとニューブリーフ”のこと

 

現役生でギター&ボーカルの浜崎君が他大学で組んでいたバンドで、当時のトレンドともいえるテレビ朝日のイカ天キングになった。そして浜崎君はフライング・キッズでプロデビュー。トランペットのナーゴ君が活躍していた東京スカパラダイス・オーケストラもメジャーになり,一緒に活動できなくなった。ピアノのT田さんやアルトの武田君が曲を書きオリジナル曲が増えて行った。バンド名を「東京ダイナマイツ」と改めた。


自分も曲を書いてみた。サス4のコードを使ったのは,プー横町の店常連バンドで一緒だったギターのT部君の影響。サビの部分は,たまたま耳に残ったファンクバンドのベースラインをパクった。リズムセクションを打ち込みでループさせておき,鼻歌を歌いながらメロディーを載せていった。武田君の強力なアルトサックスを前面に出すことをイメージしていた。武田君はその後バークリー音楽大学へ進み,プロとなっている。近年、舘ひろしバンドで紅白に出ていた。

一カ月かけて書いたので,タイトルを Take Four Weeks とした。休日,勤務校の音楽講師にも手伝ってもらってパート譜を書いた。シークエンサーにMIDI音源をつなぎデモテープを作ったりして楽しんでいた。現在のように全てパソコン上でできるような環境はまだなかった。ホーンアレンジに難があるということで,その後この曲はピアノの堺君のリアレンジで演奏するようになった。


あちこちの学園祭やライブハウスを演奏して周った。杉並区のプラネタリウムや職場のの学年行事でも演奏した。

[YouTube] Voltage / Tokyo Dynamites

 

同期の仲間も住んでいる区の教職員アパートに引っ越した。サークルの後輩達に手伝ってもらった。独身部屋はかなり狭かったが,近所で手ごろな駐車場を借りることができたので中古車を購入した。環8と早稲田通りが交差するあたり。バブル絶頂の頃で家賃より駐車場代の方が数倍高かった。週末は楽器を車に積んで出かけ,小金井公園等で個人練習をした。

バンマスの声掛けで,吉祥寺の音楽スタジオを借りてオリジナル曲を中心に東京ダイナマイツのレコーディングを行った。3曲ほどでテナーソロを吹いた。バンマスが精力的にプロモーションし,ライブの範囲が広がった。ある夏には名古屋~京都方面のツアーもやった。東北出身者には貴重な経験となっている。横浜博覧会の野外ステージで演奏したときは,人の多さに興奮した。浅草サンバカーニバルに3年程続けて出場し,音楽賞を獲得した。沿道の人の数が凄かった。

 

二つのバンド活動が充実していたが,個人練習不足の悩みもあった。録音を聴き返すと自分の演奏内容にがっかりすることも少なくなかった。東京ダイナマイツのメンバーで横浜のクラブでも演奏を始めた。平日の夜に仕事を終えて横浜に車を走らせるのは格好良い感じもしたが,仕事との両立がきつくないわけではなかった。 小学校での仕事は充実していた。

リフレクションの方はレコード会社と関わるようになった。プロ志向ではなかったのでバンドを抜けることにした。リーダーのKさんは,その後ソングライター&プロデューサーとして活躍。ボーカルのMちゃんはコマーシャルソングを歌ったりしているらしい。

実家の父の手術がきっかけで田舎に戻ることを決意,音楽活動は休止して再び採用試験受検の準備を始める。東京では11年間を過ごした。

そして地元山形で~

1993年から山形県で勤務。30代の10年間ほとんど音楽活動はなかった。インターネットの時代になり、趣味の音楽ネタのホームページを開設したことがきっかけで、県内のアマチュアミュージシャンと繋がりはじめる。約10年のブランクを経て地元ミュージシャンとの活動を再開した。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。お陰様で、その後も還暦を迎えた現在までサックスを吹き続けることができています。東京を離れるときは田舎でジャズ演奏が続けられるとは思っていませんでした。音楽活動を続ける上で田舎だからこそのメリットも感じているので、そちらもまた別テーマで取り上げてみようと思います。

〇これまでのライブの記録

2024年01月28日